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「日本人とユダヤ人」講読


             野阿梓


   第一講  ヘルツェル(4)

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ソロモンの栄華とか言いますが、アレクサンダー大王の例を引くまでもなく、あまりに偉大な王の宿命でしょうか、その死後すぐに、後継者をめぐってお家騒動となり、古代ユダヤ王国は内乱によって南北に分裂します。北にはイスラエル国、南はユダ国が建ち、それぞれの王が支配しました。当時のユダヤ人は十二の支族(部族)に分かれ、何かあれば、その部族連合会議のような協議会で決していたそうですが、ここに北に十部族、南に二部族と分裂しました。紀元前十世紀の頃です。

ちなみに、時々、聞かれる「失なわれた十支族」と呼ばれるのは、この北イスラエル国に行った十の部族です。実際には、アッシリアによる捕囚で支配層を失なって、その後、十の部族の民は、すべて周囲の民族の中に呑みこまれた、と思われます。が、それを認めたくないユダヤ人やその他の人たちの間に、さまざまな伝説が語られるようになりました。この伝説と日猶同祖論を合体させた論者は、エフライム族(十二支族の源流たるヤコブから岐れた直系支族)の系譜が天皇家のそれと相似形だ、というような話をします。ラビ・トケイヤーの本の紹介で読みましたが、ヤコブが瓊瓊杵尊(ニニギ)、ヨセフが山幸彦、エフライムが鸕鶿草葺不合尊(ウガヤフキアエズ)、ヨシュアが神武天皇に役割的にも巧く相当するのだそうです。まあ、どれも願望や夢想であって事実ではないでしょう。王国としての歴史が浅い上に、各部族の指導者層が捕囚で不在になった後、そうでなくても正統なユダヤ教に熱心ではなかった民族が、律儀にユダヤ教の厳格な紀律に忠実だったとは思えないからです。

これは、旧約の出エジプト記を読めば一目瞭然、モーセに率いられたユダヤ人はカナン(パレスチナ)侵入を果たす前からそうなのです。ユダヤ教が一神教だ、とか言っても、それは率いられた民衆からすると、指導者のモーセから押しつけられたもの、という把え方です。実際、古代オリエント広しといえども、一神教などという奇妙な宗教はユダヤ教だけでしたから、とかく周囲の異教徒の影響を受けやすいのです。カナン侵入後も、バール神やその他もろもろの異教の習俗にそまる民が絶えませんでした。全て多神教で偶像崇拝です。そのつど、怒りっぽい神様(ヤハウェ)は怒るし、モーセやその他の預言者が立って叱るのですが、民衆はなかなか従わない。宗教と政治の指導者が強固なら、それも綱紀粛正できたでしょうが、政祭一致の国で、それが不在となったら、たちまち周囲の悪弊(?)に染まって、一神教は捨てられたと思われます。
そして、これが後に、いろいろな差別を生む原因となるのですが、それは後述ということで。

聖書学では、旧約の原資料の内、神を「ヤハウェ」と呼ぶ箇所の起源を(失なわれた)「J文献」と規定し、「エロヒム(エル=神の複数形だが、多神教ではなく神聖な存在を複数に算える古代の習わしによる)」と呼ぶものを「E文献」と規定していますが、前述の石上玄一郎氏によれば、聖書学者はJ文献を「ユダ文献」とも呼び、E文献を「エフライム(十二支族の一つ)文献」とも呼んでいると言い、氏の推測では、エフライムは北王国へ付いた十支族の主力をなしていたことから、部族間の乖離を示唆しています。土地柄も南方のユダは沃野ですが、北のイスラエル王国地方は沙漠地帯ですから、当然、その帰結として、農耕と遊牧といった生活条件の差があったとも考えられます。これは、すぐに創世記のカインとアベルの物語を想起させます。つまり仲が良いわけがない。

いずれにせよ、古代文献からして部族間に生活環境の落差があったとするならば、その溝は政治的にも大きい。南北ユダヤは、そうなるべくして分裂する定めだったとも言えます。ダビデやソロモンという強大な権威があるうちは好いが、それを失なったとたんに分裂が始まる、というのは、はじめから分裂の萌芽が内包されていたのかも知れません。石上氏は、ヤハウェ神のバール化は、ユダヤ人の遊牧民から農耕民への移行、すなわちカナン定着にともなう変化であり、ユダヤ人にカナン人の農業的宗儀が取り入れられ、のちにユダヤ教の重要な行事となった三つの季節祭、すなわち春の収穫を祝う「過越(すぎこし)の祭」(ペサハ)、二度目の収穫を祝う「七週の祭」(シャブオット)、さらに秋の収穫を祝う「仮庵(かりいお)の祭」(スコット)などが、すでにこの時期に始まったと言います。確かに収穫祭は農耕民特有のものなので、この指摘は鋭い。

しかし、なぜ部族なのでしょうか。ユダヤでは、伝統的に、指導者が王ではなく、部族連合(とその会議)が政治の中心のように見えます。十二支族です。
これは、現在の私たちから見れば奇妙なことですが、古代ユダヤ人は、国を支配する「王」という存在を、長らく認めなかったせいです。遊牧民には多い形態だ、とも言われます(たとえば、典型的な遊牧民族モンゴルの諸族長の選び方などは、最初はクリルタイという諸部族の族長会議であり、チンギスハーンの帝国建設までは王(ハーン)はなく、族長も世襲制ではありませんでした)。
しかし、王朝という世襲政体は多少、ひ弱な王、暗愚な王が出ても、どうにかなる体制ですから、自然とそうなるものなので、いかにユダヤが遊牧民だからといって、この政治体制は不自然です。ベンダサンは「だからユダヤ人は政治低能なのだ」と言いますが、それにしても度を超している。カナンの地が平穏無事なら、それでもいいでしょうが、とてもそうではない。
ついでながら、十二支族とは、モーセが出エジプトを果たした後の記録、民数記によると(第二章)、宿営の幕舎ごとに部族が分かれて設営され、以下の配置になっています。

「宿営の東側に、ユダ族、イッサカル族、ゼブルン族。南側に、ルベン族、シメオン族、ガド族。西側に、エフライム族、マナセ族、ベニヤミン族。北側に、ダン族、アシェル族、ナフタリ族」
なお、レビ族は神からモーセに「あなたはレビの部族だけは数えてはならない」と言われ、祭司の役割を司る彼らが、最初期から特別な存在だったことが判ります。そして、民数記の第一章から始まるユダヤ民族の総数の計算は「戦争に出ることのできる二十歳以上の男子の数」であり、カナン侵入と同時に戦時体制が始まることを予測していたものと思われます。すなわち、そこが神(の伝承)により「約束された土地」であろうがなかろうが、自分たちが、先住する民族の都市国家を次々に落としていく侵略者だ、という認識が最初からあったとしか思えません。

古代ヘブル人がカナンに侵入してきたのは、紀元前一三世紀頃だと言われています。
とにかく、記録が皆無なので、考古学的論証しか出来ないのが実情です。諸説ありますが、ユダヤ民族の起源はハッキリしません。アブラハム時代のことは神話だと解釈しても、ならば何故、モーセがエジプトを出て「約束の地」カナンに向かったのか、それもよく判りません。そのモーセの出エジプトにしてから、あれだけ細かく史実を詳述しているエジプト側の記録に、全く、モーセが引き起こした災厄も奴隷の集団脱走も記されていないため、そもそも、そうした事績があったのか、どうか。それすら不明です。

ただ、七〇年に私が入ったミッション校の聖書の授業で習った時には、わずかに古代のパピルスに、紀元前一四世紀頃、「カナン地方でアピル(=apiru)と呼ばれる「ならず者」が群れて困っている」という現地からの書簡に記述がある由で、これが初期のユダヤ人だろう、と言われている。と聞きました(「アピル(またはハピル=hapiru、ハビル=habiru)」=「ヘブル」説です)。
これ以外で、エジプト側の記録で、ユダヤ人、というか「イスラエル」の名が出てくるのは、起源前一二〇七年の事績を伝える「メルネプタの石碑」(別名イスラエル石碑)であり、これは一八九六年にテーベで発掘された、高さ三メートルを超える大きな銘板ですが、その末尾に「(ファラオ)メルネプタは、アシュカロン、ゲゼル、ヤノアム、イスラエルを打ち破った」と有ります。より正確には(英語版ウィキペディアの同項目による)、

「カナンはあらゆる災いをもって征服され、アシュケロンは連れ去られた。ゲゼルは捕らわれの身となり、ヤノアムは無に帰した。イスラエルは子孫(ないし種)を断たれ、フルはエジプトにために寡婦とされた」

――とあり、これを見ると、他の国は攻め滅ぼしたが、イスラエルは完敗までは行っていないように読めます。アシュケロンやガザはペリシテ人が海岸地帯に築いた自治都市です。王の偉績を称えるための碑文ですから、完膚なきまでに打ちのめしたなら、そう書いているはずで、そう記していないところをみると、イスラエルは強兵エジプト勢に善戦したものでしょうか。
メルネプタは武勇の王ラムセス二世の子で、ラムセス二世は出エジプトの事績が起きた時代の王とされています。メルネプタの治世は紀元前一二一二年から一二〇二年です。治世期間が短いのは、父王が長寿だったため、高齢になってから即位したからと言われています。いずれにせよ、この間、ユダヤ人(古代ヘブライ人)に関する記録は一切ありません。
ラムセス二世王の当時、彼はヒッタイトと戦い、これを破り、世界最古の和平条約とされる文書を交わして、そのヒッタイト王女を王妃に迎えたと言われています(※注)。これによってエジプトはパレスチナからヒッタイトの勢力を払い、さらに王はナイル上流のヌビア地方を遠征して勝利をおさめています。メルネプタの碑文の内容は、そうした偉大なる父王の親征の延長線上にあります。しかし、王が遠征して攻めた相手ですから、最早ならず者の集団なんかではない、独立した民族として扱われている。しかも敗滅もしていない。大した変化でしょう。

※注)最近の考古学的発見で、ヒッタイト側の資料が解読され、それによると、この「カデシュの戦い」ではヒッタイト側も大勝利を収めた、と書いてあるそうで、両軍がそう書いているところを見ると、五分五分の勝負ではなかったか、との異説もある由です。世界最初の和平協定の粘土板レプリカは、現在、国連本部に飾られています。

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ところで、ユダヤ人がカナンを「約束の地」として特別視するのは、自分たちがそこの出身だ、という伝承があるからからです。始祖アブラハム(アブラム)はカルデアのウルの生まれと言われますが(ウルは、古代メソポタミアのシュメール人の都市であり、現在のイラク領ユーフラテス川の南方で発掘されています)、神の啓示を受けてカナンに移住します。そこからユダヤ教が始まったとも言えるので、特別な地になるのです。創世記には、アブラハム一行がエルサレム北郊に着いた時に、

「わたしはこの地をあなたの子v孫に与える。エジプトの川から、かの大川ユフラテまで」

――と神が顕れ、契約をした、とあります(同書第十五章第十八章)。
ユフラテはユーフラテスですが、国境を示す指標としての「エジプトの川」には諸説あり、伝統的なユダヤ教の解釈ではエジプトを代表するナイル川ですが、ソロモン王時代の最大の版図の時でさえ、イスラエルがナイル川岸まで領有したことはありませんから、文庫版二〇九頁にあるように、これはシナイ半島の涸れ谷(ワディ)エル・アリシュと見なすのが、一般的です。
その後、アブラハムの孫ヤコブが、十二人の子をもうけ、これが十二支族の元になった、という民族神話になります。また、ヤコブは神の使わした天使と格闘したため、「神と戦う者(イスラエル)」という名を与えられ、これがイスラエルの国名の由来です。さらに生き別れた愛息子ヨセフが数奇な運命でエジプトに渡り、ファラオの厚遇を得て宰相にまでなる。ヨセフは宰相として、七年間の大飢饉に対して食料の保存など内政に手腕をふるう。飢饉はカナンにまで及び、それを契機に、ヤコブらはヨセフと再会し、結局、ヤコブたちも一族をあげてエジプトへ移住する。まあ、その後、運命は転変して奴隷にされたりするのですが、これを救ったのが、モーセという次第です。これはアブラハムの時代にすでに神から告げられたことで、創世記には(同書第十五章第十三章)、

「あなたの子孫は他の国に旅びととなって、その人々に仕え、その人々は彼らを四百年の間、悩ますでしょう」


――とあります。いくら何でも誇張された年数だと思うのですが(四百年間、奴隷として過ごしたら、自分がかつては自由民だったことも忘れてしまうでしょう)、とにかく、その後の救済も予約されるので、アブラハムには断る選択肢はありません。私だったら、自分の子孫が将来、何の罪もないのに四百年もの期間、奴隷にされる、というような神様は、願い下げですが、まあ、カバラ数秘術でかさ上げしてあるのではないかと思います。

しかしながら、ファラオの側近となったはずのヨセフから王族の養子となったモーセまでの主要人物が、ユダヤ側の文書である旧約以外、エジプトをはじめ、どこの歴史書にもないため、学術的にはすべて伝説以外ではありません。たぶん、ユダヤ人の(どころか、啓典の民すべての)始祖たるアブラハムからモーセまで、あらゆる人物が、捏造されたユダヤ独自の伝承なのか。断定は出来にくいが、アブラハムは単なる一家族ですが、ヨセフは宰相だし、特に旧約の出エジプト記にある全ての出来事が、脱出してきたエジプト側に一切、記録がないため、モーセの旧約における事績の記述は全く信用できないのです。

出エジプト記にあるパロ(ファラオ)は、年代からすると、ラムセス二世であろう、と比定されますが、エジプトの史書にラムセス王時代(在位紀元前一二七九年から一二一三年)には、とくに災害もなく奴隷の集団脱走の記録もないため、単に時代の辻褄を合わせるだけの仮説にすぎない、と推測されています(一説には、その子メルネプタとする学者もいる)。また、出エジプト記にある六十万の奴隷の脱出、という尋常ではない数値の記述は、ユダヤ教独自のカバラの数秘学ゲマトリアによるもので、「イスラエルの子ら」をそれに当てはめると六十万三千の数値となる、というのが、唯一の信用に足る論です(黙示録の「六六六」が「ネロン・カエサル(=獣の数字)」、というあれです)。ただ、モーセに関して、それが捏造された神話にしては、異様に詳述されているのが奇妙です。モーセについては、後段、文庫の九章にて詳述したいと考えていますので、今はここまでにします。
乱暴に言ってしまえば、ある固有の民族の神話伝承にそう記されているが、他の記録も傍証もないため、真偽のほどは定かではない、といったところでしょう。

アブラハムに始まるユダヤ人の起源や、エジプトでの奴隷生活やそこからの脱出以前の物語は、ほとんど神話なので措くとして、カナン侵入以後の歴史は、ほぼユダヤ側の一方的な先住民族の虐殺ですから、もとより敵対する勢力側の歴史などはありません。旧約には「聖絶(ヘブライ語:ヘーレム、ギリシャ語:アナテマ)」という用語があり、これは通常は燔祭(焼かれた供物=英語:Holocaust)にふされる生贄の家畜のことですが、敵対する民族に対する用法では、女子供にいたるまでの殱滅戦、家畜も家財も何一つ残さない完全なる焼尽を意味します。ホロコーストは、だから、まずユダヤ人自身が古代において、他民族にした行為だと言えます。これは徹底していて、もし分捕り品を私物化したりしたら、味方でも処刑される。ヤハウェが嘉しない宗教的敵に対しては、捕虜も戦利品もなく、全てを神の御前に燃やし尽くす以外にない戦い方です。これでは、襲われた方に歴史すら残らない。旧約にある滅ぼされた人々の記録しか有りません。

イエスより後の時代に、ユダヤ人歴史家のヨセフスが「モーセがエジプト軍の指揮官としてエチオピア遠征で活躍し、その強さに惹かれた王女が和平交渉に応じ、彼の妻となった」などと記していますが、聖絶ではないにせよ、これまた、もとより伝説の域を出ない話です(ヨセフスに関しては複雑なので、後述します)。他の典拠がなく、誰も証明できないので、ホントかウソか判断もつきません。

ただ、カナンへの執着の仕方からすると、彼らはエジプトとカナンの両方に何らかの縁があり、そこを往還していたのかも知れません。もとより神話伝説の領域ですから、確かめようもないのですが。
ちなみにカナンとは「紫の国」の意味で、この地方に産する貝から採れる紫の染料名に由来します。イスラエル共和国の国旗の青や、ユダヤ人が礼式の際に身につける肩掛け布(タリート)には、その四隅に青い羊毛で編まれた房紐が付けられていますが、この青い染料が、貝紫(テヘレト=Tekhelet)です。英語でも王者の紫(ロイヤル・パープル)と呼ばれ、フェニキア人がチュロス(ティリ)で生産するそれは、貴重で高価な交易品として、たとえばユリウス・カエサルの紫のマントや、クレオパトラが搭乗する旗艦の帆布がこの色に染められていたので有名です。また、イエスの最期に着せられた王者の衣も、おそらく貝紫で染められたものだと思われます。

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ジェリコ(エリコ)攻略で有名なヨシュアなども、部族長というだけなので、特に遺跡もない。考古学的にはジェリコの城壁が発見されていますが、それはすでに紀元前三千年頃に崩壊したことが判っており、ヨシュアの業績も否定される結果となりました。ちなみにエリコ攻略も聖絶です。ただし、ヨシュアは城攻めの前に斥候を放っており、エリコの娼婦ラハブと誼みを通じてエリコ王の兵士が捜索に来ても匿ってくれたため、斥候はラハブに女の一族郎党は助けると約束し、ゆえにエリコが陥落してもラハブとその一族は生命を助けられています。伝説では城壁の周囲をめぐってラッパを吹いたら崩れたとありますが、おそらく町の中で差別的境遇だった娼婦を籠絡し、これの手引きで落城させたのだと思われます。聖絶で生きのびた者はそれくらい数少ないのです。
さらに、これより前にエドム王に領内通行を求めて断られたモーセ率いる軍勢は、その後、ネゲブを北上しアラデ(死海の西岸の都市)の王と民を討ち、ラハブの言によれば、どこをどう通ったのか、死海の反対側(東岸)に出て、さらにアモリ人の王シホンにも領内通行を拒まれ、これを討ち果たしています。これは民数記の記述ですが、どうもヨシュア記との整合性が取れていないようにも感じます。

ヨシュアがジェリコの城壁を打ち破った、とする有名な戦記は、「ジェリコの戦い(Joshua fit the battle of Jericho)」という歌にもなっており、黒人霊歌やジャズのナンバーでも知られます。たぶんラジオで聴いたと思われますが、私が小学校かそれ以前の頃に耳で聴き憶えた歌詞があり、私はまだそれをほぼワンコーラス歌えますが、今ある歌詞のどれとも異なるものです。今、よく流布している歌は、中学生の合唱コンクールの課題曲になっているようで、次のような歌詞になっています(訳詞家は不明でした)。

「我らは忘れずジェリコ ジェリコ ジェリコ 今も夢見る遥かなジェリコ 懐かし故郷 ああいつの日か共に行かん ああヨシュアと共に 敵に奪われし 故郷をさして(後略)」

――といったもので、これは故郷のエリコに戻ると、異民族がおり不当に占拠していて、だから滅ぼした。といった、解釈次第では、現パレスチナ紛争の情景が二重映しに重なるような危うい歌詞です。しかしながら、エリコが旧約に登場するのは、民数記第二十二章の冒頭からで、民数記はモーセがユダヤ民族を率いてエジプトを脱出してからの記録なので、もしエリコがユダヤ人にとって「懐かしの故郷」ならば、それはアブラハム時代に記されていなければいけない。だが、創世記には、エリコの名は全く出てきません。
現実のエリコは、遺跡の発掘が進み、非常に多層的であることが判明しています。考古学的には、紀元前一万年まで遡ると言われています。だとしたら当然、アブラハム時代にも存在したわけですが、その名は旧約のその時代の記述にはない。
私が子供の頃に耳で聴き憶えた歌は次のようなものです。

「ヨシュア叫べば、おお、ジェリコ、ジェリコ、ジェリコ。……おお、城は落ちたり。戦い激しくとも、攻め獲れやジェリコ、おお、主は我がヨシュアを守りて、城は落ちたり」

――といったものだったと思います。なにせ幼少期の記憶ですから、多少の脱落や間違いはあるかも知れませんが、おおむね、こういう歌詞でした。これならば、懐かしの故郷もあったものではなく、ただ一方的に攻めているわけですから、内容的にも合っている。原曲の歌詞は、

「Joshua fit the battle of Jericho Jericho Jericho
Joshua fit the battle of Jericho
And the walls came tumbling down
Hallelujah(後略)」

――とあり、これは現在、ほとんど変わらない歌詞で黒人霊歌でもジャズでも歌われています。古いファンは、マヘリア・ジャクソンの歌を憶えているかも知れません。YouTubeで検索すれば、沢山ヒットします。私の記憶する歌詞は、ほぼ、この原曲に忠実で、余計な「郷愁」などは歌われていませんから、今、流布している曲よりは、政治的には正しい気がします。
なお、ジェリコは、第一次中東戦争では、トランスヨルダンに占領されましたが、第三次中東戦争でイスラエルに占領されます。九三年にオスロ合意によりパレスチナ自治区に委譲されましたが、〇一年にインティファーダへの報復として、再びイスラエル軍に占領されています。

ともあれ、このような後付けで、ある出来事やモノの解明化を図る伝承形態は、学術的には、「原因譚」というカテゴリーに属し、つまりは、「現前する事物が、いかにしてそうなったかを後付けで説明する」伝説だと言われています。カナンに侵入したユダヤ人が、そこに壮大な廃墟を目にした。どうして繁栄を極めたであろう異邦の都市国家がこのように荒廃したのか。自分たちの英雄ヨシュアの業績として物語に組み込もう、といった心的機制でしょう。ありそうな話ですが、だとすると、ヨシュアのエリコ攻略も全くの虚構、ということになります。

もっとも、ヨシュアはイスラムにとっても預言者ですから、二十世紀初頭に、その名を冠した廟をガリラヤ地方に建てた奇特なアラブ人がいました。ところが、それが村の規模となったため無視できなくなったものか、イスラエル建国後、第一次中東戦争の際に、イスラエル軍により「無人化」され、五百名ほどの村民は難民となってヨルダンへ逃れたそうです。
ナチのハイドリヒがチェコで暗殺された際、誤った情報により、プラハ郊外の村リディツェが報復として五百人ほどの村民の内、男性全員が殺害され、女子供は強制収容所に送られた話を想起して、暗澹とせざるを得ません。リディツェ村は更地にされましたが、戦後、復興されました。しかしヨシュア廟の村は荒廃したままだと言います。他にもパレスチナには、それほどの理由もなく住民が終われ、無人となった村がいくつもあります。ヨシュアの戦い(聖絶)は未だ終わらないのでしょうか。

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さて――、
それから三百年、ソロモンはわずか三代目の王で、父はダビデ王です。その前のサウル王が初代ユダヤの王で、これがユダヤ王制の開始となります。サウルとダビデの間に血のつながりはない。ユダヤでは、世襲制は認められていませんでした。しかしダビデとソロモンは父子です。そういう世襲制度は、本来、ユダヤ教の本義には外れる。と思われていたのです。

ただし、正確にはサウルが初代の「王」ではない、という知見を、山本七平氏の対談集「日本人と聖書―対談」(TBSブリタニカ 七七年刊)(※1)で見ることができます。三笠宮崇仁氏が、

「サウルは部族同盟のリーダー「ナギード」です。部族には長老制度もあり、決して専制的リーダーにはなれなかった。『サムエル記上』第一〇章第二節に「ヤハウェが油注いでナギードにした」とあります。これは日本語でも「君」と訳したりしています。ダヴィドの場合は「メレク」となっており、これを一般に「王」と訳しています。『サムエル記』でサウルをメレクと訳しているところは、後代に書かれた部分ですからあてになりません」

――と語っています。

正直言って、私はこれを読むまで、三笠宮崇仁親王が、これほどまでに古代ユダヤ史に詳しいことを知りませんでした。戦時中、支那派遣軍総司令部に勤務し、そこで毛沢東の八路軍に関心を持たれ、それが機縁で、戦後、東京大学で歴史学を学び、専攻が古代オリエント史だったそうです。後に、「海の正倉院」沖ノ島に研究調査に行った際、「ここは、女人禁制で男子でも全裸で海水で斎戒沐浴しないと入島できないのですが」、と恐る恐る言われて、何も言わずに肯き、即座に衣服を脱いで素っ裸で潔斎をされた、と聞いて、なるほど、だから文化の差異などに寛容なのだなと思ったものです。日本オリエント学会の会長も勤められた由です。

対談-日本人と聖書Jk

私は、ミッション校では、サウルからイスラエルの王制が始まった、という風に習った記憶があったので、サウルとダビデは、同じ「王」でも違うのだ、と初めて知りました。確かに、日本語訳でも、サウルのことは、口語訳では「イスラエルの君」、新共同訳では「御自分の嗣業の民の指導者」、新改訳では「民の君主」とあり、「王」とは記していません。この本が出たのは七七年ですから、私は大学の半ばまで、サウルもダビデも同じ「王」だと思っていたのですが、違うわけです。これは日本語版のウィキペディアでも「王」としかなくて、少し不親切です。もっとも、これは英語版の同項目でも「the first king of the Kingdom of Israel and Judah」と記していますし、念のため、ヘブライ語版をグーグル翻訳にかけて英訳しても、やはり「the first biblical kings of Israel」とありますから、よっぽど古代ユダヤ史に詳しい人でないと、サウルが「王」だと思っている人は、西欧でも結構いるのではないか、という気がします。ネットで検索しても、「Nagid (ヘブライ語で「王子」ないし「指導者」=prince or leader)」や「Melech (ヘブライ語で「王」)」としか判りません。他に「メレク」が出てくる書は、私はカバラのセフィロトの樹で、第十番目のセフィラ「マルクト(王国=Malchut)」の神名「アドナイ・メレク」くらいしか知りません。
まあ、かなり専門的な知識の領域なので、一般的には、サウルから王制が始まった、と理解しても、いいように思えます。

※1 https://www.amazon.co.jp/dp/4484000105

しかも、ダビデの時代に、すでにイスラエルは二つに分かれて争っていました。ダビデ自身が、先王サウルから命を狙われたり、実子のアブサロムに謀反されたりしていたのですが、今度は本格的内戦でした。北部十一氏族はサウル王の子イシュバールを王に樹てて背き、ダビデは南部ユダ部族を率いて戦ったのですが、イシュバールの死後、両国はダビデを王とすることで了承し、ようやく統一王国として成立しえたのです。ダビデが王となったのが、大体、前一〇〇〇年頃ですから、三百年ほども、古代ユダヤ人は王様なしでやってきたことになります。なぜでしょうか。
その理由は――、ユダヤ人は全て神(ヤハウェ)の前に平等であり、その出自によって特別な人間はいない。と信じられていたからです。まあ、そういう宗教なんだから仕方ありませんが、これは、世界史上、かなり平穏無事な地域でも有りえない話です。しかもカナンの地はとても平穏無事とは言えない土地でした。

ベンダサンはこう書いています(文庫版63頁)。
「昔から「陸橋」といわれたこの地は、常に戦場であった。チグリスの巨人は北から攻め下り、ナイルの巨人は南から攻め上った。海の民は海岸に進攻し、あるいは海岸沿いにエジプトに進み、一方ヨルダンの彼方からは絶えず遊牧民がなだれ込んだ。これが実に四千年にわたって間断なくつづけられ(た)」

私は「地政学」という学問には眉唾で、あまり信じていないのですが、世の中には運の良い土地や国があり、運の悪い土地や国があるのは否めない事実でしょう。島国の日本や英国は運がよかった。でも、イスラエルは運が悪い。もし、パレスチナの地が日本や英国のように海で距てられていたら、もっと平和な生活と歴史があったことでしょう。しかし、残念ながらパレスチナは今もそうであるように、古代でもまた国際的紛争地帯でした。

上に「海の民」とあるのは、「聖書(新共同訳)」(※4)では「ペリシテ人(=パレスチナの語源)」と記される、おそらくフェニキア人と近いか、同じ海洋民族だったと思われます。彼らに関する最古の記録は、上述した「メルネプタの石碑」に記されており、ペルイレルの戦いにおいて、メルネプタ王はリビア人(ベルベル人)と海の民の連合軍、一万五千人を破ったと石碑にあります。その真偽はともあれ、ペリシテ人は強く、地中海を制した彼らは、交易その他の活動は海に求め、沿岸地域にのみ五つの拠点都市(南東から順に、ガザ、アシュケロン、アシュドド、ガト、エクロン)を築き、五市連合を形成していました。海の民といっても、すでに定着した可能性もあります。だが、もしも、まだ定着する半ばの時代であったなら、彼らにとって都市とは後方であり、出撃拠点でした。紀元前一一世紀に彼らの人口は三万人のピークを迎えたと言われています。
そうして先住した彼らが、折しもカナンに侵入してきたユダヤ人と紛争を招いたのです。まあ、どちらの民族も「王」を持たなかったがために、大半は小競り合い程度で済んだようですが、やがてフェニキアの末裔がカルタゴに恒久拠点を建てて、新たな覇権国家たるローマ帝国とポエニ戦争を戦ったように(ポエニとは、フェニキアのラテン語読みです)、ユダヤ人もまた、数百年に渡り、彼らと永劫果つるべくもないような闘いを続けていたのです。ソロモン王の時代に、どうにか和平が訪れますが、それまでは戦乱の日々でした。それ以後、ペリシテ人は歴史から姿を消していますから、おそらくソロモン王の時代に服属し吸収されたか、全滅したか。あるいは海洋民族ですから、潔くカナンの土地を捨てて、地中海沿岸の他地に拠点を移したか、いずれかでしょう。

※4 https://www.amazon.co.jp/dp/4820212044

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今のパレスチナの地名は、ペリシテ人に由来しますが、これを命名したのはローマ帝国です。紀元一三五年に第二次ユダヤ戦争ともいえるバル・コクバの乱を鎮めたハドリアヌス帝が、それまでの属州ユダヤを改名して、シリア・パレスチナと属州名を改めたのです。その時代から千年も前に滅び去ったペリシテ人の名を冠することで、たびたび反乱を起こすユダヤ人の民族的アイデンティティを奪うためでした。悪意と策みにみちた改名です。以後、地名としてのユダヤは消滅し、ここはパレスチナと呼ばれるようになり、現在にいたります(オスマントルコ時代は、シリアでした)。

話をダビデ以前にもどします。
いくら神の前になんびとも平等である、といっても、戦争になったら、専門の指導者というか軍事の指揮官が必要です。でも、王はいません。そういう時、彼らはどうしていたか、というと、「士師(さばきつかさ=英語: Judge)」と呼ばれる人が神ヤハウェの召命を受けて(というよりは、おそらく周囲の要請を受けて)、臨時に立ちます。ペリシテ人との小競り合いが終わったら、士師は元の一市民(?)にもどる。というようなことを三百年ほどやっていたわけです。よくまあ、こんなやり方で三百年間も勝てたものだ、としか言いようがありませんが(時には負けて、一部の部族が完全にペリシテ人の支配下におかれた、というようなことはあったようです)、とにかく、生まれながらにして人より優れた王、などという存在を認めない宗教なので、仕方がありません。ただ、ユダヤは強かった。巨大な帝国を腹背の敵としながら、小国なのに、いつも戦い、勝利してきた。王制もないのに士師の統制の下、一致団結して十二の部族が優れた戦果をおさめていました。

それでもダビデが初代の王サウルの小姓から成り上がって、ついに王となり、その子ソロモンも非常に優秀だったので、やっと世襲制の王制になった。と思ったのも束の間、お定まりのお家騒動が起きます。ほぼダビデがイスラエル統一を成し遂げる前と同じ状況で内乱となり、結果だけ言うと、古代ユダヤ王国は、出来たばかりなのに、早くも南北に分裂したのです。北イスラエル国と南ユダ国の二つに分かれ、北には十支族が、南には二支族(ユダ族とベニヤミン族)が従いました。分裂後六十年ほど戦争していましたが、そのうち和平を結んで、共通の敵(ダマスカスなど)との戦役で共闘したりしていますが、二度と再びユダヤが統一することはありませんでした。

なお、十二支族というのはユダヤ教では十二という数が聖なる数字であったこともあるのですが(だから、キリスト教の使徒も十二人となっています)、その後のユダヤ王国の滅亡によって、ほとんどが流砂の中に消えるかのように消え去ってしまいました。
北のイスラエル王国は紀元前七二二年にアッシリア帝国に滅ぼされ、南のユダ王国は紀元前五八六年に新バビロニア帝国に滅ぼされます。ここに国家としてのユダヤ人の王国は消滅したのです。
北イスラエル滅亡に際しては、支配層のみがアッシリアに「捕囚」され、つまりは人質のように連れ去られました。しかし南ユダ王国の場合は、バビロンの支配者ネブカドネザル王の命により、ほぼユダ王国の全員がバビロンへ捕囚されたのです。ソ連時代の国内移住政策のようなもので、前後三回の捕囚によって、ユダヤ王国はほぼ壊滅しました。第一回目の捕囚では王族その他支配層だけでしたが三回目のそれは民族ごと大半が捕囚されたのですから、通常なら、もはやその時点で、国家としても民族としてもユダヤ人のアイデンティティは失なわれたと言っていいでしょう。

ところが、こういう危難の時にこそ、ユダヤ人の真骨頂が発揮されるのですね。エレミヤやエゼキエルら預言者が現れ、ダニエルのような見目麗しい勇気ある賢者が現れて、ネブカドネザル王に重用されたりします。
余談ですが、ダビデといいダニエルといい、ユダヤの国民的英雄はみな若い頃は眉目秀麗の美少年が多いように思われます。ダビデとヨナタン(英語読みでジョナサン)の刎頸の契りは、もうほとんどBLの世界ですが、旧約の戒律では男子同性愛は石打ちの刑で死罪ですから、肉体関係はなかったみたいですけれど、腐女子な皆さんは、いろいろとあらぬ煩悩に萌えるようです。私も腐男子なので、同様の妄想に耽ることしきり、だったり(この項は後述)。


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