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「日本人とユダヤ人」講読


             野阿梓


   第一講  ヘルツェル(3)

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記し遅れましたが、細かいことを書くと、テオドール・ヘルツェルは、一八六〇年に、ハンガリー=オーストリア帝国の首都ブダペストに生まれ、十八歳でウィーンに移ってから、ジャーナリスト・著述家の道を歩みはじめた人です。文庫版にあるよう同化ユダヤ人として西欧社会に溶けこんでいました。名前の表記をヘルツェルにしたのも、ヘブライ語では、ビニャミン・ゼエヴ・ヘルツェル。ドイツ語では、テオドール・ヘルツル。ハンガリー語だと(姓名の順に綴りますので)、ヘルツル・ティヴァダルとなります。しかし、一八九四年に起きたドレフュス事件を、新聞記者として特派されたフランスで現地取材し、また同時代には、東欧やロシア帝国では日常的に「ポグロム」と呼ばれるユダヤ人迫害(=虐殺)が行われていたので、しだいにユダヤ人としてのアイデンティティが矯激に覚醒したものか、ついにパリ滞在中の一八九六年に「ユダヤ人国家」を著します。

この書は、当初、欧米に絶大な金融帝国を築いていたロスチャイルドをはじめとするユダヤ財閥に宛てて書かれたとも言われています。しかし、根っからの商人であるロスチャイルド家やその他のユダヤ系財閥は、ヘルツェルの申し出に冷淡だった由です。すなわち金にならない、またはあまりに夢想的で現実から遊離した事業に金は出せない、というのが実際家である彼らの反応でした。この商売人としての冷淡さは、その後の情況の変化にともなって、変わっていきます。

だが、なんといっても、当時のイスラエル(パレスチナ)は、オスマン・トルコ帝国の領土内にあり、欧州列強も手が出せない地域だったのです。ヘルツェルにしてもジャーナリストの身分で渡航は出来たかも知れませんが、自由な視察が可能だったかどうかは判りません。だからといって、現地を見もしないで「ユダヤ人国家」を書いた不備と不明は責められて然るべきでしょう。
「ユダヤ人国家」の訳者後書きで、シオニスト会議を一緒に準備した同郷の盟友マックス・ノルダウがヘルツェルに対して、

「そう、パレスチナにはアラブ人たちがいるんだ! ……だから僕たちは大変な不正を犯している」

――と言った挿話を記しています。
その時点で引き返せていたら、あるいは、別な策を講じていたら、現在のパレスチナ紛争は回避できたかも知れません。実際、そうしたチャンスはあったのです。シオニスト側のみならず、アラブ(イスラム)側にも、「共存」を望む声は有りました。

当時、伝統あるハシム家のファイサル王子は、そうと知りながら、アラブの大義のために己れを殺して列強のトルコ帝国を侵蝕する手先であることに甘んじつつ、英国の工作員「アラビアのロレンス」と共にゲリラ戦を戦っています。現場工作員だったロレンスはともかく、王子には世界が見えていました。英仏列強とオスマントルコの間で、イスラムの戦士たる自分の立ち位置を十全に理解していたのです。彼は、後になってシオニズム指導者と合意を結ぶことまでしています。戦うプリンスであると同時に、ファイサル王子は冷徹な政治家でもあったのです。

彼は、後述するように、「自分たちアラブ人はユダヤ人のシオニズム運動を容認できる。シリアには二つの民族が共存できる余地がある」とまで冷静に現実を見すえた発言をしています。
清濁あわせもつ器量があり、戦士としても有能で、ロレンスとは友情を結んでいました。彼の部族ではなく、サウド王がアラビアの覇権を獲ったことが残念でなりません。ハシム家が今のサウジアラビアの地位にあったら、歴史はもう少し、違っていたでしょう。

しかし、奔騰するシオニストの勢いは、そうしたアラブの宥和派や、ヘルツェルの誠実な盟友の「不正」の指摘をも呑みこんで、もはや止まることを知らなかったのです。しかも、その間にも、列強諸国はトルコ帝国をじわじわと締めつけ、その代表は、中東やアフリカに植民地を持つ大国・英国でした。彼らは世界を大局的に遠望し、その帝国主義の覇権を阻むものをことごとく排除していきました。そのためには、あらゆるものを利用しつくします。そして、不運にも、シオニズム運動さえも、その一つだったのです。

ヘルツェルは考え方においては夢想的でしたが、ただに夢物語を描くだけではなく、同時に実際的な活動家でもありました。九六年、彼はまず、オスマントルコ帝国の皇帝(スルタン)であるアブデュルハミト二世と交渉し、パレスチナへの組織的なユダヤ人入植を許諾させようと努力します。当時、オスマン帝国は、公式にユダヤ人移民を制限していたのです。ヘルツェルは、イスタンブールで帝国の首相を相手に交渉しました。オスマン帝国の対外債務をユダヤ人が肩代わりする代償として、トルコはパレスチナに造られるホームランドへユダヤ人が帰還する財政的基盤を支援する、というものです。まあ、当たり前ですが、こんな虫のいい、しかも列強サイドの出身者からの要請は巧くいかず、オスマン帝国は彼に象徴的な勲章を与えたのみでした。

彼は別な方法論を模索することになります。英国植民相ジョゼフ・チェンバレンと会い、エジプトのシナイ半島にユダヤ人居住区を設立する案のためにエジプト政府を交渉したり、世界各地のユダヤ人の地位確保のために、ピオ十世教皇からの支持を得ようとして、枢機卿と会談しますが、バチカンは、「ユダヤ人がイエスの神性を否定している限り、いかなる声明も出せない」と拒絶されます。
一八九八年には初めてエルサレムを訪れ、その地で、預言者が語った通りの幕舎にて、ドイツ皇帝ウィルヘルム二世と会談を持ちます。さらに帝政ロシアに対して、ポグロムその他の迫害に関して、ユダヤ人の地位向上を求める交渉をし、財務相ヴィッテや内相プレーヴェと会談し、地位改善の提案を手交します。また英国からは「ウガンダ計画」を打診され、これを第六回シオニスト会議の前に持ち出しました。文字通りの東奔西走ですが、この案は、結局、彼の死後、シオニスト会議で棄却されます。シオニストはユダヤ人の故郷たるパレスチナに――その名を自らに冠したシオンの丘への帰還に――あくまでも固執したのです。

国際政治における東奔西走と併行するようにして、シオニストの努力により、シオニスト移民組織による東欧やロシアからのユダヤ人移民(アリヤー)が試みられました。十九世紀末のパレスチナ地域の在住ユダヤ人の総数は、わずか二万五千人ほどだったと伝えられています。こうした劣勢を、やがて、一九〇四年に死去するヘルツェルに取って代わった、より過激なシオニストの移民組織(アリヤー・ベト)が覆していくのです。
一九〇三年までの第一次アリヤーでは主に東欧から二万五千人、一四年までの第二次アリヤーではロシアから三万五千人の移民がパレスチナに到着します。これら二次にわたる移民の費用は英国ロスチャイルド家が負担したと言われています。単なる言葉だけの内は、冷笑的にヘルツェルに非協力だった富裕ユダヤ層も、いざ実際にシオニズム運動が軌道に乗ると、協力を惜しまなくなったのです。が、その後、勃発した第一次大戦下で、オスマントルコは敵国籍のユダヤ人を強制的にパレスチナから追放し、一時はユダヤ人の総数は三分の一まで激減しました。しかし、第一次大戦でオスマントルコが敗北して、情勢は一挙に反転します。

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ここで見逃せないのが、ユダヤ人「以外」のシオニズム、というか海外支援組織です。

私たち日本人の目からすると、とても奇妙に見えますが、片方でユダヤ人を迫害しつつ、ユダヤ人と等しくエルサレムを聖地とするクリスチャンの一部には、古くから、このユダヤ人シオニズムの思想は容認されていたのです。すなわち、ユダヤ人がイスラエルに祖国=ホームランドを建設することは、「キリスト教シオニスト」とも言うべき思想的派閥から是認されていました。カトリック(=バチカン)は別ですが、プロテスタントの中には、そういう奇抜な思想を持つ勢力もあったのです。
これは、今もなお、アメリカのキリスト教プロテスタント右派(原理主義者)の中に厳然と存在する考え方で、すなわち、「聖書に記されてある事績は、全て正しいのだから、それを復古する運動は、クリスチャンとして支援すべきだ」、というキリスト教原理主義独自の奇怪な考え方に由来します。実際問題として、米国内のこうした支援勢力がなかったなら、イスラエル建国はなかったでしょう。もちろん、ユダヤ人によるロビー活動もあったでしょうが、それだけでは、イスラエル建国以後の、現在にまで至る米国内でのイスラエル擁護論は説明がつかないのです。

キリスト教右派については、以前から日本でも、(かなり揶揄的に)紹介されてきました。
中でも一番有名なのは、「進化論裁判」でしょう。戦間期のアメリカ南部で、進化論は「反聖書」的な理論だから、それは認められない、神の教えに背く。という理由で、なんと州議会が州法を改正し、公立学校で「進化論」を教えるのを禁止したということから始まる事件でした。聖書に書いてあることは一言一句まちがいはない。これを「聖書無誤説」といいますが、彼らは本気でそう信じているのです。しかも、これら反知性主義的言説や、それが引き起こす出来事は昔のことだけではありません。現在もなお、そう唱えている人びとは多いのです。驚くべきことに、八七年、レーガン政権時代に、ルイジアナ州法の違憲判決が出ています。そうした反進化論主義者は、多くアメリカのキリスト教右派が代表です。

さすがに最近では、彼らも少しは言説を修正しています。つまり、聖書にある文字通りに、人類の歴史はアダムとイブから始まったのであるが、それに反する証拠となる化石ですら、世界創造の際、「同時に」神が創られたのだ。といったヤケっぱちな反論は影をひそめました。代わりに「インテリジェント・デザイン」論というものを唱えています。これは、ダーウィンの進化論の「自然淘汰」を認めず、そうした自然の「進化」でさえ、神の御旨に従って成されたのである、という論理構築を背景にして、そこからさらに宗教色を薄めて、その全ては「偉大なる知性(=つまり神の御旨)」がそれを成したのである、との論調に傾いています。
いわば、連綿と続いてきた「科学」と「宗教」の対立を止揚し、純粋に科学の立場からは否定しさることが出来ない、一種の理論的隘路です。これは、九〇年代の米キリスト教右派が唱えたものだと言われていますが、他の国では認められることが少ないこの説も、本家米国では信奉者が多く、ジョージ・ブッシュなども、これを公教育で教えるべきだ、と提唱しているほどです。この考え方だと、「偉大なる知性」は必ずしも神でなくてもいいので、キリスト教的な色彩が弱まり、一部の科学者でも、賛同する人がいるそうです。

ちなみに、最近の米国の世論調査(ギャロップ)では、アメリカ人で進化論を信じている人は人口の三九%しかいない、二五%は信じていない、との結果が出ました。この調査は、二〇〇九年二月、ダーウィン生誕二百周年を記念して行われた調査だったのですが、残念な結果となっています(※1)。

他方、逆に最近のバチカンでは、インテリジェント・デザインを認めておらず、むしろ進化論には肯定的です。ヨハネ・パウロ二世教皇は進化論を認める発言をしています。これは、進化論が「生命の起源」におよぶものではないため、そこに神が生命を創造した、という余地があるとする、きわめて神学と科学のせめぎ合う地点で折り合いを付けた、先進的な神学的知見に思えます。四世紀のニケーア会議から度重なる公会議で、正統と異端を峻別してきたカトリックとしては、教義的な観点から、安易にインテリジェント・デザイン説などを認めると、逆にその進化論に代わる「偉大なる知性」が神の存在を脅かす(たとえばグノーシス主義などの)異端教説に近いものとなるため、これを排斥したものと考えられます。キリスト教神学は、ややこしいのです。

※1 https://news.gallup.com/poll/114544/Darwin-Birthday-Believe-Evolution.aspx

その裁判は「白昼の幽霊」とか「モンキー裁判」事件とも称され、今では被告の名から「スコープス裁判」と呼ばれているようです。私は、七〇年に、ハヤカワ・ミステリマガジン(HMM)に連載されたアーヴィング・ストーンの「クラレンス・ダロウは弁護する」というノンフィクションで、この事件を初めて知り、大いに興味深く読みました。実際には、私が七〇年当時、HMMを読んでいたのは、小林信彦「オヨヨ大統領」シリーズを読むためだったのですが、このノンフィクションは出色の面白さでした。私はダロウの名前をこれで憶えたのですが、その後、六八年の映画「おかしな二人」で悪徳新聞記者のウォルター・マッソーとジャック・レモンが警察に拘留されるや「クラランス・ダロウを呼べ!」と口を揃えて叫ぶシーンで爆笑しました。

「スコープス裁判」とは、今となっては、百年近く大昔の二五年の話ですが、米南部テネシー州で、学校教育で「進化論」を教えるのを州法で禁じたのです。これに異を唱えたリベラル派が、わざと確信犯的に学校で進化論を教え、敵対するキリスト教原理主義者たちに訴えさせ、八百長的な裁判を起こして、一件を司法の場に持ちこみました。今でいう人権派弁護士で著名だったダロウを呼んで、世にも奇想天外で抱腹絶倒ものの裁判劇を展開した、という事件です。
当時、早川書房では、ストーンのノンフィクションに力を入れて、他にもジャック・ロンドンの伝記「馬に乗った水夫」をHMMで連載し本で出したり、大統領選挙に出たけれども落選した人たちの物語「彼らもまた出馬した」を刊行したりしていましたが、ダロウのこの本は、なぜか自社では出さず、その後、「アメリカは有罪だ : アメリカの暗黒と格闘した弁護士ダロウの生涯」(サイマル出版、七三年刊)と題名を変え、上下二巻の大冊で刊行されました(※2)。

※2 https://www.amazon.co.jp/dp/B000J9GKKQ
(これは現在、古書価がメチャクチャ高いので、読みたい人は、近くの公共図書館で探す道を推奨します。近所の図書館になくとも、相互貸借で取り寄せが可能です)

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ただし、キリスト教右派に関わる事件は、いろいろと派生的な事がらも多くて、一言で言いつくすのは困難です。むろん、彼らの主張の多くは、私たちからすると、時代遅れで誰が見ても「善くない」と言えるでしょう。いわく、反共、反同性愛、反中絶、反進化論、反イスラム主義(反移民)、反フェミニズムと実に判りやすい。大半は保守的白人の福音派に属するキリスト教徒であり、米南部や中西部に居住し、共和党支持者が多い。ロビー活動も盛んに行い、州によっては、事実上、彼らが支配的な世論を形成している。わりと見た目どおりの「悪玉」にも見えます。

しかし、かといって、単純にリベラル派や科学者が善玉か、というと、歴史的に見れば、それがそうでもないのです。
たとえば、ダーウィンの思想を拡大解釈して、「社会進化論」というものを唱える人びとがいました。発端はダーウィンの従兄弟フランシス・ゴルトンであり、「優生学」とは彼の造語でした。つまり文字通り「社会進化論」とは、「自然進化論」の相似形の双子のような発達をとげた思想なのです。ダーウィンと決定的に異なるのは、人為的に「進化」が可能だ、という発想であり、そこから人種改良や、現在の遺伝子操作にまで至る「科学的」思想です。そう言うと、保守反動勢力のように思うかも知れませんが、初期の優生学の賛同者には、意外にリベラル派や社会主義者が多かったのです。二十世紀初頭に優生学を支持した人の中には、ケインズやバーナード・ショー、H・G・ウェルズといった知性の高い文人がいました。
これが、ついにはナチス・ドイツの優生学に連なる系譜となり、ドイツ以上に、アメリカでも、そうした優生学的な外科措置(ロボトミーや断種手術など)がなされていた、という黒歴史がありました。ドイツ出身の歴史学者、シュテファン・キュールが書いた「ナチ・コネクション」(原著:オックスフォード大学出版局 九四年刊 邦訳:明石書店 九九年刊)(※3)を読めば、ナチスと米優生学会が、いかに思想的に密接に結びついていたことが判ります。当時の米優生学会への資金はロックフェラー財団が援助していましたし、米の科学者たちはナチスの優生学的な人種改良を、むしろ支持していたのです。こうなると、何が善で正義なのか。言うべき言葉を失なうしかありません。

※3 https://www.amazon.co.jp/dp/475031191X

また映画の話ですが、七五年公開の「カッコーの巣の上で」は、米ではアメリカンニューシネマの傑作とされており、原作者のケン・キージーは六二年に同題の小説でデビューし、また後年、ヒッピームーブメントの指導者でもありました。映画では、主人公を演じるジャック・ニコルソンが出色の名演で、刑務所の強制労働を逃れるために精神異常を装う自由奔放な男が、管理主義的な病院での最終的解決手段であるロボトミー手術によって、廃人となってしまう経緯を美事に演じきりました。言っておくと、当時の精神医学では、ロボトミーを含む精神外科学は最先端の「科学」だったのです。

ちなみに、この映画の監督、ミロシュ・フォアマンはチェコ出身のユダヤ人で、母親をアウシュビッツで亡くしています。他の家族もほとんど強制収容所で死亡して、たった一人、友人や親戚の間を転々とした彼が、SS支配下のチェコでナチスのホロコーストを生き残れたのは奇跡です。このことから、当然ですが、氏には全体主義的、管理主義的な世界観への根強い反発があり、この映画にも、その気概が横溢しています。最後に、ロボトミー手術を施されて廃人同様となった主人公を見て、それまで無言の忍従で耐えてきたネイティヴ・アメリカンの大男が(主人公から前に逃げようと言われて、彼は断っているのですが)、誰もそれを持ち上げるのは不可能とされていた(象徴的な)大きな水場の台をひっくり返し、夜明け方の病院から逃走するラストシーンは、フォアマンの希望が託されている、感動的な場面です。

だから、米国のリベラル派、といっても、それは必ずしもヒューマニズムだとは限らない。むろん、進化論を認めないキリスト教右派も論外ですが、その反対派が常に人道的かどうかは、そして、その時代の「科学的」に「良し」とされることが、本当に「善」なのかは、また別の問題なのです。

アメリカにおけるキリスト教右派の問題については、二〇〇六年に新潮文庫から増補改訂版が出た、佐藤唯行氏の「アメリカはなぜイスラエルを偏愛するのか」(※4)が恰好の補助線となるでしょう。正直、その当時読んだ私には、今いちピンと来ない本でしたが、今読み返すと、非常に示唆に富んだ分析とデータに満ちた良書です。
とかく、こういう話題になると、やれ「ユダヤの陰謀だ」「フリーメーソンの陰謀だ」といった半畳が入るのですが、この書では、冷徹なまでに数値を挙げて、論証を積み重ねる地道な努力で説得力をもちます。惜しむらくは、ユダヤロビーの方に重点がおかれ、キリスト教シオニストには、さほど焦点が当たっていない点ですが、しかし、以下のようなデータに基づく知見は、とても重要でしょう。なんとなく雰囲気だけで、ユダヤ人がアメリカを牛耳っている、といった都市伝説に毒されて、なかばそれを信じている人には、痛烈な数値だと思います。

「そもそも在米ユダヤ人はアメリカの総人口の二パーセント弱、ユダヤ・ロビーを支える右派系ユダヤ人の数はさらにその五分の一ほどにすぎない。ユダヤ・ロビーがいかに強い政治力を発揮してきたとはいえ、彼らの力だけでは国論を「親イスラエル」へ誘導することは困難だったはずだ。
ユダヤ・ロビーがその目的を遂げることができた原因を追求すれば、彼らと手を結ぶ強力な同盟者の存在が浮かびあがってくる。膨大な数(一説に七〇〇〇万人)のキリスト教右派の信徒たちであり、同時に海を越えたイスラエルの右派政党である」(同書八二頁)

※4 https://www.amazon.co.jp/gp/product/B00FEB8DY0/

全米の人口は、この〇六年当時に三億を突破し、現在はもう少し上積みされ三億三一〇〇万人強と言われますから、それに対する〇六年当時でも、七〇〇〇万人の彼我の差は、看過しがたい数です。実に全人口の二三%に相当します。その全員がキリスト教シオニストではないにせよ、この数値は、パレスチナ人民には永遠に和平など来ないだろうことを予測させて、暗澹とさせないではおかないでしょう。
私は、どんな統計値も一応、疑ってかかるのが常なので、調べてみたのですが、人数の実数は不明でしたが、キリスト教右派の上部組織である福音派は9・11以後の統計では、勢力を拡大し、かつて(八〇年代末期)はキリスト教主流派が三五%を占めていたのに、当時二四%だった福音派は二〇〇二年には三〇%(主流派は二六%に転落)と、ここ二十年で完全に逆転しています。福音派の全てが原理主義者ではないにせよ、その勢力の伸張いちじるしいことは歴然とした事実です。

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さて、話をヘルツェルに戻します。
全世界のユダヤ人シオニストは、ヘルツェルの書を好機として盛り上がりました。

ヘルツェルの「ユダヤ人国家」は世界中のユダヤ人に読まれ、民族主義が勃興し、現実的で実現可能性の高い近代シオニズムの潮流が生まれたのです。そして、執筆のわずか翌年の一八九七年、スイスはバーゼルにおいて第一回シオニスト会議が開催され、ヘルツェルは、議長に推されます。そこで彼は、「バーゼル綱領(プログラム)」として知られるシオニストの基本方針(プラットフォーム)を策定し、この会議の目的をこう宣言しました。

「シオニズムは、パレスチナにユダヤ人のための、国際法によって守られた祖国を求めてゆく(Zionism seeks for the Jewish people a publicly recognized legally secured homeland in Palestine)」と。

この英訳での「祖国(=Homeland)」という用語は重要ですが、同時に多義性に富んでいます。それは世界から認められた独立国家なのか。それとも、単に(当時はオスマントルコ領土である)地域の自治区なのか。曖昧ですが、ともあれ、そういうプログラム策定と声明で会議は閉会しました。

だがしかし、夢想的な一面をもつ著述家でもあったヘルツェルには、現実の苛烈さが、かえって仇となったことも確かです。むろん、彼の尽力は素晴らしい活躍でしたが、彼は夢想家である反面、いくぶん現実主義者でもありました。その結果、ホームランドの建設予定地を、当初、彼はパレスティナ以外に、アルゼンチンも候補に挙げており、後には、英国政府要人(植民相)からの助言で、英領ウガンダも視野に入れていました。さらにマダガスカル案もありました(※5)。しかるに、もはや一大趨勢となったシオニズムの潮流は、そうした妥協案を認めなかったのです。なにがなんでも「乳と蜜の流れる、約束されたカナンの地」、ソロモンの神殿のあったシオンの丘の土地、パレスチナにこそ、新生イスラエルは建国されるべきだ、という過激なユダヤ思想が沸騰していました。

※5)皮肉なことに、ヘルツェル以前に、反ユダヤ主義者がマダガスカル島をホームランドにする案を草しています。独の東洋学者パウル・ド・ラガルドですが、これをナチス・ドイツが取り入れて、三八年から「マダガスカル計画」が始動します。欧州全土のユダヤ人を仏領マダガスカル島に移送する、という空想的な案でしたが、ヒトラーが裁可し、ハイドリヒやアイヒマンも参加した国策です。しかし戦争の激化とともに、この案は破棄されるに至ります。もし実現していたら、全島がゲットーないし収容所と化し、生態系は壊滅していたでしょう。

この結果、現実的な路線のヘルツェルは、しだいに運動からそばめられ、やがて失意のうちに世を去ることになるのですが、とにかく彼のこの本がなかったら、そういうシオニズムの高潮もなく、いまだにイスラエル国家の建設もなかったかも知れません。それほどには、これは重大な本なのです。
ただ、一つだけ、バーゼル会議で残念なことは、そこにシオニスト団が集結した、という事態にこと寄せて、そこで採択された秘密の文書がある、と称して弘められた偽書である反ユダヤ文書「シオンの議定書」の信憑性を裏書きしたことでしょう。実際、この偽書の内容はシオニズム活動と軌を一にして、広く世界中で信じられる結果となったのです。しかし、ここでは直接関係ないので、それは措きます。

ともあれ、ヘルツェルのこの書がなければ、近代シオニズム運動もなく、現在のイスラエルもなく、ユダヤ人は、いまだにディアスポラ(流離・放浪)の民族だったであろうことは、想像にかたくない。これは確かです。いまなお戦火が燻っているイスラエルを建国しえたのは、このヘルツェルの本の啓蒙と、それによる近代シオニズム運動の勃興。それに、風雲急を告げる欧州の状況でした。
前述したように、当時のイスラエル(パレスチナ)は、オスマン・トルコの支配下にあり、英国をはじめとする列強諸国は、利用できるものは何でも利用したかった。それゆえ、ユダヤ人、アラブ人、そしてトルコに対しての、二枚舌三枚舌のイギリスの卑劣な外交がなされ、結局のところ、どこも得をしない戦乱に巻きこまれました。そして、やがて第一次大戦が始まります。

「ユダヤ人国家」日本語訳の後書き解説の末尾には、こうあります。
「(ヘルツェルが)死を前にして最後の力を振りしぼってシオニズム運動に献身していたころ、オーストリアの西の辺境から一人の若者を迎えていた。やがてこの都市によって狂信的な反ユダヤ主義者に育て上げられるのがヒトラーである」
さらに、解説はこう結ばれます。
「ヘルツェルの伝記を書いたユーリウス・シェープスの言うように、『彼はロシア・ポーランドの百万のユダヤ人を救おうとしたが、その願いは、六百万人の犠牲を払って、第二次大戦後に実現の道に立ったのである』」
なんとも悲痛な結語である、と言わざるをえません。しかも、イスラエル建国は、さらに悲劇的なパレスチナ紛争を招いて、今なお、その先行きはどうなるか判らない状況です。

じゃあ、どうしてそうなったのか。最初にユダヤ人が「さまよえる民族」となったのは、いつ頃で、どうしてそうなったのか。それを見直してみましょう。


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