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「日本人とユダヤ人」講読

             野阿梓

   第一講  ヘルツェル(2)

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「ユダヤ人国家」は、世界中に翻訳されベストセラーとなりました。熱狂的シオニストの経典となったのです。同時にまた、それまで無名にひとしいジャーナリスト・著述家だったヘルツェルを、一躍、世界の檜舞台に押し上げました。それほど驚異的な一冊だったのです。山本七平氏もまた、「日本人とユダヤ人」一冊の刊行で似たような境遇になりましたが、それより遥かに影響は広汎で、世界的なものでした。ヘルツェルの一冊はまさしく世界を動かした本、と言えるでしょう。

ところが、それほどの一冊であるはずなのに、私が国会図書館のNDL-OPACを検索すると、驚くべきことに、わが国においては、九一年の法政大学出版局の叢書ウニベルシタスの一冊として刊行されるまで、長らく完訳は出なかったのが判ります。かろうじて、雑誌掲載の抄訳らしいものが、六二年から六三年にかけて、京都の同志社大学文学部の文化史学会から刊行された「文化史學」という雑誌に、「猶太(ユダヤ)人の国家」として訳出されているようでした。これは菅原憲という人の訳で、法政大の佐藤康彦訳とは全く異なります。
コピーしようにも、頁数が不明、というより、書誌事項をみると、この雑誌は二号続けて雑誌全頁をついやし、あの膨大な本の少なくとも前半分の重要な文書を訳したのではないか、と思われます。だとすると文献複写サービスでは全頁コピーは御法度なので、いまだに入手できていません。

CiNii(サイニイ=全国の大学図書館の所蔵を調べる検索システムで、本と雑誌論文両方を検索可能)(※1)で見ると、各地の大学図書館に百以上の所蔵館がありますから、分散してコピーを取る方法もあるのですが、今のところ、それほど必要性を感じていないので、やってはいません。自分が就労している時なら、九州大学図書館に所蔵があるようですので、ちょっと行って見てみたい気はするのですが、残念ながら、退職した今の私は一市民ですので、それもままなりません。七〇年当時にヘルツェル文献は、おそらくこれだけだったと思われますので、もし研究する人がいるなら、これは必須文献でしょう。
ともあれ、めぼしい文献はそれくらいです。今世紀に入ってからは、数点の論考が出ていますが、あまりにも少なすぎる。七〇年に、ヘルツェルの名を知っている人がいたとしても、その原著を読む(読める人)以外には、翻訳が特殊な雑誌だけ、というのでは、ほとんどの人は「ユダヤ人国家」を読んでいなかったはずです。これには、ちょっと、検索した私も、びっくりしました。

※1 https://ci.nii.ac.jp/books/

むろん、日本においても、ユダヤ人の研究はかなり古くから行われてきました。
おそらく軍関係では、酒井勝軍(さかい・かつとき)氏がシベリア出兵を機に「シオンの議定書」(反ユダヤ文書)や反ユダヤ主義を知って、日本にも反ユダヤ主義思想を持ちこんだのが最初でしょう。帰国に先立つ一九二二年(大正十一年)に「猶太民族研究資料:酒井勝軍氏講演:極秘」(※2)という本が刊行され、国会図書館に在ります。おそらく、酒井が戦地シベリアかその後方にて陸軍幹部を相手に講演した内容をまとめたものではないか、と思しいのですが、詳細は不明です。
酒井勝軍は、もともとクリスチャンで反戦平和主義者の牧師でしたが、日露戦争に従軍して思想的に変わり、オカルト的な日猶同祖論(日本とユダヤが共に同じ祖先でつながっている、というトンデモ説)を唱えるにいたる、奇妙な明治人です。当初は反ユダヤ思想を弘めましたが、陸軍からパレスチナに特務機関員として派遣されてから、さらに思想的変容を重ね、最終的には親ユダヤ主義に変わっていきます。そうした本を書き、弘め、日本国内にそういう素地を作った人でもあります。今では竹内文書や日本のピラミッドやキリストの墓など奇説をひろめたトンデモな人、といった扱いですが、陸軍を背景にした酒井の存在とその思想的影響は、戦前には、かなり大きかったと思われます。

※2 https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000001-I000007988082-00

そのせいか、同様の親ユダヤ思想は、戦前の日本には珍しくありませんでした。
昭和初頭の30年代に、新興財閥・日産コンツェルンの総帥である鮎川義介によって提唱され、後に近衛内閣の五相会議で国家の方針として位置づけられた軍部の秘密作戦である「河豚計画」なども、その一つだったかも知れません。これは欧州で迫害されているユダヤ人を満州国に招致し、ユダヤ人自治区を建設する、という途方もない夢想的なプランでしたが、他ならぬユダヤ人迫害の主体であるナチスドイツと日本陸軍(ベルリンの在独武官府)との接近や、やがてそれが日独伊三国同盟(40年)となるや、実現性を失ない、放棄された国策です。「河豚計画」の名称は、当時の担当者だった海軍の犬塚大佐が「河豚のように美味かつ猛毒、として、ユダヤ人の受入は日本にとって有益だが、同時に危険でもある」と発言したことに拠ると言われています。彼の同僚である陸軍の安江大佐と二人で策定した工作でしたが、この思想的背景は安江大佐と同行してパレスチナ視察を行った酒井勝軍だと言われています。ところで、当時の陸軍大臣は板垣征四郎でした。バリバリの関東軍高級参謀で満州事変の策定をした謀略的人物です。
なぜ、彼がユダヤ人を擁護するような政策に寛大だったのか。それについては、同時代の作家、石上玄一郎(いそのかみ/いしがみ・げんいちろう)が「彷徨えるユダヤ人」(人文書院 七四年刊)に記しています(※3)。

※3 https://www.amazon.co.jp/dp/B000J8Y90U
(人文書院刊の講談社文庫版、七七年刊)

石上-彷徨えるユダヤ人cover01

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石上玄一郎といえば、異端文学界では有名な作家で、一時はプロレタリア文学に手を染めていましたが、やがて左翼運動から離れて独自の境地を切り開いた人で、作品も「乾闥婆城(けんだつばじょう)」「魑魅魍魎」といった、おどろおどろしい題名が多く、七〇年代、一部では非常に人気がありました。前者は南部藩の歴史小説なのですが、乾闥婆とは仏教でガンダルヴァの訳語で、ガンダルヴァ(尋香ともいう)は酒肉を食らわず香を食す、インドラ麾下の半神半獣で、これが居住する処として乾闥婆城あるいは尋香城とは、つまり蜃気楼を指します。英語ではスペインの城とも言うそうですが、こういう言葉に淫した作家を、私は偏愛した時期がありました。
しかし「彷徨えるユダヤ人」はノンフィクションで、しかも同時代の人には希有な思索的に深い立場でユダヤ人を語っています。太宰や芥川が聖書のみで止まっていた知識を学知で補い、さらに実際に出会ったユダヤ人青年イリヤとの体験で補強しています。

氏は、経歴もあって、戦時中に軍部から目を付けられ厭戦作家の烙印を押されて上海に逃れ、その租界地でユダヤ人コミュニティと接触を持ち、ユダヤ人問題への関心を深めた由です。生まれは札幌ですが幼少時に盛岡に移住したため(弘前高校では、同期に太宰治がいました)、東北の土俗的文化と、育ててくれた祖母からの仏教思想、さらに戦前からフッサールの現象学に親しみ、青年時代のマルクス主義から実存主義までが渾然一体とない交じった、得体の知れぬ重層的思索の上に作品は成り立っている、同時代の作家としても、稀な存在です。一九一〇年(明治四三年)、札幌生まれで、育ちは東北ですが、北海道、特に札幌のような港町でないにせよ、海に面した街の生まれの人は、函館生まれの久生十蘭や函館育ちの牧逸馬などをはじめ、ともに海外体験を持ち、視野が広い人物が多いようです。

石上によれば、河豚計画の側面として、板垣征四郎が奉天特務機関にいた頃、ハルピン市にユダヤ人の民団があり、任務上、自ら、あるいは部下を通じて、満州・北支に在住する東方ユダヤ人たちと接触があったためだろう、と推察しています。しかも、ソ連は二八年にシベリア鉄道の東辺、ウスリー河上流地方をユダヤ人自治州に指定していました。そうした経緯から、関東軍を背景に、陸軍内部に、親猶的空気が醸成されていたのではないか、というのです。
陸軍の画策は、満州国内にユダヤ人自治区を設立し、東欧・ソ連から、数千から数万人の難民を迎え入れることにより、アメリカの関心を引き、対日政策を有利に運べないか、といったことが本音でした。正式な計画の名は「在支有力ユダヤ人の利用により米大統領およびその側近の極東政策を帝国に有利に転換させる具体的方策について」という長たらしいものですが、その思惑を物語っているでしょう。陸軍もまたユダヤ人に支配されているアメリカ、という陰謀論の幻想に溺れていたのです。

先に酒井勝軍がシベリア出兵(一九一八年から二二年)の際に「シオンの議定書」を知ったと記しましたが、これは、当時そこにいた白系ロシア人(革命によって亡命を余儀なくされたロシア帝政下の旧貴族・上流階級)の間で、この偽書が信じられていたからです。レーニンやトロツキーら革命の主導者がユダヤ系だったことによる誤解というか偏見なのですが、白軍(旧ロシア帝国軍を主体にした、ソ連赤軍に対抗する軍の総称だが、中にはロープシンのように二月革命で政権に入ったメンシェヴィキも交じった混成軍)は、ユダヤ陰謀論を弘め、劣勢を挽回する心算による情報戦もかねて、前線で「シオンの議定書」を印刷して配布していた由です。酒井らが知ったのも、これでしょう。陸軍の中枢もこれを信じ、アメリカを動かしているのがユダヤ人だ、との誤解(偏見)から、この作戦は当たる、と思いこんだ節があります。誤解が元とはいえ、もし河豚計画が実現していたら、建国当時、国際連盟で非難され(これが原因で日本は連盟を脱退した)、米英からは承認も国交もない満州国ですが、このユダヤ人のホームランド建設を歓迎する米国内のユダヤ人勢力によって、好意的に受けとめられた可能性はあります。
それゆえ建国にいたる経緯の是非はともあれ、たかが出先の在独武官府の出過ぎた行為から発した日独防共協定により、この日本による、ユダヤ人ホームランドの計画が頓挫したのは、いかにも残念です。

とはいえ当計画は、ごく数年間の短命だったにしても(それでもシベリア出兵から算えると、日独伊防共協定まで、構想は一八年から四〇年にまで二十余年に及ぶ)、一時は国政の中枢(五相会議)で真面目に検討されたユダヤ人保護政策であり、また実現していれば、おそらく世界で初めてユダヤ人にホームランドに近い自治区を提供する、という画期的なプログラムでした。もし、欧州のシオニストたちが、これに呼応して満州国内に自治区を設立できていれば、今のパレスチナ問題にも、多大な影響を与えていたでしょう。先に作ったものが勝ちですから、その存在は無視しえないはずです。日本の敗戦と同時に傀儡国家満州帝国も崩壊したので、これが幻の計画に終わったのは、結果的に幸か不幸か判りません。ただ、そういう奇怪な発想による動きすら、謀略を旨とする日本の軍部にもあった、ということは事実なのです。

そして、なによりも軍人とは具体的なデータと思考を重視します。もし建設的で実際的な立案があったとしたら、当然、彼らはユダヤ人に関して調査したはずです。途中、陰謀論を真に受けるような誤解があったにせよ、相手が何を考えているか判らないと、陸軍のお家芸たる謀略もあったものではありません。だから、この関係資料が出てこない状況というか、黙殺の仕方は、当時の情勢を考えると、どうも不自然に思います。

国会図書館は、戦前の貴族院図書館、衆議院図書館、それに旧文部省の帝国図書館を前身として、戦後、羽仁五郎らが尽力し、統合・創設したものです。羽仁は古風なマルクス主義的歴史学者で、戦争末期に治安維持法により逮捕され、敗戦まで獄中にあり、戦後は政界に転じましたが、立法府が官僚主導での立法に堕していた戦前の状況を憂い、米議会図書館に倣って、新生日本では議員が立法できるような政策研究に資する図書館、そして市民も閲覧できる図書館として、これを設立せんと図ったのです。ゆえに、国立国会図書館法の前文には「理がわれらを自由にする」とありますが、これは羽仁が独留学時代に見た大学の銘文から採ったものです。出典はヨハネ書第八章第三十二節からで、正確には「真理はあなたがたに自由を得させるであろう」となっています。羽仁が六八年に刊行した「都市の論理」は、マルキシズムの観点から、国家に簒奪された「地方自治」から真の自治を奪回して「自治都市」を作ろう、といった多少、空想的な論調の本でしたが、政治の季節に若者を把え、ベストセラーになりました(私も当時、買って読みました)。
とまれ、その蔵書には戦前から戦時中の機密文書も多いので、そこにこの種の資料が全く見当たらないのは可怪しい。

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これでも元図書館員なので、もう少し調べてみました。
先の同志社の史学雑誌の訳者、「菅原憲」をネットで検索したところ、同じ同志社の「一神教学際研究センター(CISMO)」という機関から「日本におけるユダヤ学の現状」(※4)という論文集がPDFで出ていて、その中に、戦前のユダヤ教研究として名前が挙がっていました。当時日本の帝国大学だった台北大学の教授で、「清教徒と猶太人間題」なる論文を一九二八年に発表している、とあります。さらに国会図書館でみると、菅原氏は明治二二年生まれで昭和五一年没。昭和一六年に「独逸に於ける猶太人問題の研究」を著しており、四四五頁の大著です。また敗戦直後の昭和一七年には「猶太建国運動史」を刊行。これは一五八頁と少し薄いですが、ヘルツルの名も出ており、バルフォア宣言から委任統治下のパレスチナ、と目次を見るだけでも最新の知見を取り上げています。
同志社にはまた「キリスト教社会問題研究会(CS)」なる組織があり、その刊行物「創刊五〇号記念エッセイ集」(特定の題名なし(※5))が、やはりPDFで入手できます。一三一頁に、宮澤正典という人が「ドイツ・ユダヤ史専門の恩師菅原憲先生から「日本にも大正時代から反ユダヤ論議があった」ことを教えていただいた」との証言があります。このPDFはテキストではなく原本を画像でスキャンしPDF化しているため、細かい検索が不可能なのが残念ですが、国会図書館をもっと調べると、「独逸に於ける猶太人問題の研究」は五七年に博士論文として寄贈されており、内容の異同は不明ですが、氏のライフワークだったことが窺えます。

※4 http://www.cismor.jp/uploads-images/sites/2/2014/01/a489c6844720aae0f956d5decf5fb5d1.pdf
※5 ttps://doors.doshisha.ac.jp/duar/repository/ir/9377/002000500005.pdf

先述した「日本におけるユダヤ学の現状」にも、宮澤正典氏が「日本におけるユダヤ研究の展開とユダヤ人に対する日本人」なる一文を寄せており、日猶同祖論などとは一線を画した研究の軌跡をつづり、六〇年には「日本イスラエル文化研究会」が設立され、翌年には「ユダヤ・イスラエル研究―過去と現在におけるユダヤ民族の生活と文化」が刊行されたことを伝えています。同志社はプロテスタント系(カルバン主義会衆派)の清教徒だった新島襄が設立したミッション校ですから、こうした先駆的研究もなされたのでしょうが、惜しいのは、それがアカデミズムの世界にとどまって、一般の書として弘まらなかったことです。
これら問題意識をもって学究の徒も、そして陸軍をはじめ、政府の要路には、それなりの研究が求められていたはずです。

それなのに、なぜ、当時の情勢から言っても最も重要なヘルツェルの本が市販の単行本として翻訳されなかったのか。謎です。あるいは、先述したように、酒井勝軍の講演録のように軍部の秘密文書として訳され、小部数刷られて、一部の要路の人間の目に触れただけで公にならず、敗戦の際には、他の機密文書と同様、焼かれ廃棄処分されたのかも知れませんが、とにかく、一般に日本で訳されたのは、六二年の史学雑誌をのぞくと、一九九一年になってからでした。

さらに私は国会図書館のNDL-OPACで調べたのですが、ヘルツェルに関する本も、「Herzl」や「ユダヤ人国家(原著の〝Der Judenstaat〟や英訳題名の〝The State of the Jews〟含む)」をキーワードにしても、日本語の資料では、この新旧ヘルツェルの本二冊を含み、たった数冊の本しかヒットしませんでした。七〇年からゼロ年代に限定しても、図書や雑誌の文献でも、十数点に過ぎません。「ヘルツル」で検索すると、さすがに五〇件ほどヒットしましたが、戦前の文献の方が多いほどで、戦後はどうも残念な結果です。

大学所蔵の文献を調べるCiniiで検索しても、日本語文献は皆無です。ドイツ語文献などだと、十九世紀まで遡ってヒットするのですが、翻訳される前も現在でも、近年、ヘルツェルをマトモに考察し研究した日本人は、あまりいなかったのが、現況のようです。おそらく七〇年当時は、もっと酷かったのではないか、と思われます。なにしろ、ヘルツェルの代表作であり、その後、イスラエル共和国が現実のものとなった、そのシオニズム思想の基盤である本が、その後二〇年間も、ずーっと未訳だったのですから。

当然、「日本人とユダヤ人」が書かれた七〇年当時は、「ユダヤ人国家」の完訳文書を目にした日本人はいなかったか、いても特殊な役職(外務官僚など)に就いていた人に限られたのでしょう。今では二〇一一年の新装版が同出版局より刊行されていますから、少し高額とはいえ、誰でも簡単に手にすることが出来ますが、当時は、言ってみれば、名前はなんとなく聞いたこともある有名な書であるけれども、つまるところ、一般読書人の大半には、「なんだか判らない本」だったわけです。

今となっては、逆に、書かれてあることが、あまりにも途方もなく夢想的がゆえに、かえって判りにくいかも知れません。ヘルツェルは、ジャーナリストとしてはあるまじきほど雑駁な態度で、現地イスラエルを視察もしないで本を書いているため、現在そこに「原住民」であるアラブ人他が居住していることなど、全く念頭にないのです。この本は、何冊かのパンフレットに分かれますが、実際に現実のユダヤ国家を建国するなら、そこに今いるだろう原住民の存在は、彼ら近代シオニストの脳裏にはまるで無かったようです(後に、ヘルツェルはシオニスト会議で、この点を衝かれ批判されることもありました)。


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