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新約聖書で予言された「水と火の洗礼」

本日は『新約聖書』で主イエス大師が「聖霊」について語った予言を考察してみたい。かつて主イエス大師が語った「聖霊や御霊(みたま)」と、一般的に「真我」と呼ばれているものは、実は同じものである。すなわち聖霊とは、自らに宿る「神の分け御霊」のことなのである。

諸君はこれからクンダリニー(性エネルギー)を昇華させて、真我を実現する過程において、瞑想中にまばゆい光に包まれる体験をすることになるだろう。

実はこの時に体験する光の正体とは、「聖霊による洗礼」なのである。諸君はこれから正しくクンダリニー・ヨーガの修行を進めていくことができれば、この洗礼を2度授かることになるだろう。


「わたし(洗礼者ヨハネ)は、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方(主イエス・キリスト)は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」
(『新約聖書』「マタイによる福音書・第3章」)

「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」
(『新約聖書』「使徒言行録・第1章」)


1度目の洗礼は、ヨハネによる「水の洗礼」である。すなわち、ムーラダーラ・チャクラ(会陰部)に眠るクンダリニーが、背骨のスシュムナー・ナディを上昇する過程において、ブラフマ結節(マニピュラ・チャクラ=おへそ付近)を越えた時である。

2度目の洗礼は、キリストによる「火(聖霊)の洗礼」である。すなわち、クンダリニーが後頭部のシヴァ結節を越えて、頭頂にあるブラフマランドラ(あるいはサハスラーラ・チャクラ)に到達した時である。

古来よりクンダリニーとは、「上昇する蛇」に形容されてきた歴史がある。かつて主イエス大師は、次の言葉によって「蛇」を、肯定的に捉えていたことが分かるだろう。


「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」
(『新約聖書』「マタイによる福音書・第10章」)

「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子(主イエス大師)も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
(『新約聖書』「ヨハネによる福音書・第3章」)


モーセが荒れ野で蛇の像を掲げたのは、未来において、人類の苦しみから救うために登場する救世主イエス・キリストが、最期に十字架刑に処せられるとの予言に他ならない。と同時に、人類にとっての救世主が、「蛇」にまつわるものであることを暗示している。

すなわち、主イエス大師のこの言葉は、「上昇する蛇」に象徴されるクンダリニーを昇華させなければ、永遠の命を得て、神の国に入ることができないことを暗示しているのである。ユダヤのゲマトリア(数秘術)において、救世主と蛇は、どちらも「358」を表している所以である。

さて、クンダリニーがブラフマランドラに達すると、次に諸君のハート(心臓部)には新たなる生命、すなわち「真我」が誕生することになるだろう。これが『聖書』で言うところの「聖霊が宿る」という状態なのである。むろん「内なる神」と呼んでも構わない。あるいはヴェーダ哲学では「サッチダーナンダ(実在・意識・至福)」と呼ばれてきた存在である。

ただ、この「ハートに宿る真我」は、その人が持つ神へのイメージや信仰心の深さによって、一人ひとり異なってくる。かつて主イエス大師が説いた福音を信じる、信仰の篤いキリスト者がこの状態に達すると、その者のハートには「愛の主イエス・キリスト」が宿るのである。これが「キリスト意識」と呼ばれるものである。

そして、ハートに聖霊の光を拡大させていった先に、「マーヤ(幻影、二元性、分離意識)からの解放」がある。すなわち「この宇宙に我独り(天上天下唯我独尊)」の境地である。ここまで来れば、毎日が神の愛と至福で満たされ、幸福感で一杯である。偽善的、かつ打算的な愛(親鸞聖人が言った雑毒の善)という状態からも解放され、「無償の愛」を自然体で実践できるようになるだろう。

もはや空虚感や不安や渇望に悩まされることもないだろう。このような虚しさや、そのことから発するあらゆる不幸の原因とは、自らの偽善的な思いや行為の結果に生じた「罪悪感」から来ているのである。いわゆる「良心の呵責」と言われるものであるが、これは主イエス大師が、全人類の罪を背負って十字架にかかった救世主であると信じることで、全ての罪(カルマ)は解消されるのである。

もはや、神と主イエス大師のことしか考えられない状態になっていることだろう。世俗的な興味なども完全に消え失せた状態となっているはずだ。過去世からの長かった「探求の旅の終わり」である。

一方、神への信愛が薄く、ヨーガ技法だけでこの状態に達すると、「愛の真我」が宿ることはない。カルマの消化が不十分な者などは、精神疾患を患ったり気狂い状態に陥るなど、魔境に落ちる者も出てくるだろう。

この聖霊による洗礼を何度も授かることによって、諸君の煩悩とカルマは全て焼き尽くされることになるのだ。(なお、この仕組みは『日月神示』の「火水(かみ)の仕組み」とも対応する。)


「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれ変わらなければ、神の国に入ることはできない。」

(『新約聖書』「ヨハネによる福音書・第3章」)


神の国に入るには、「体主霊従」から「霊主体従」への変換が起こらなければならないのである。また、この一連の仕組みこそが、ユダヤ教神秘主義カバラの奥義なのである。

生命の樹の各セフィロトは人体の7つのチャクラに対応する

なお、生命の樹でダアトが沈んでいるのは、人間が善悪を知って、二元性の幻影の中にはまり込んだことで、現象世界に夢中になり、神の真意が忘れ去られたことを暗示している。と同時に、地球が5次元から3次元へと降下した状態にあることを表す。

神の真意とは、我々が神の愛に気づき、我々も神を愛し、真我を実現(神と一体化)することである。また、死後に神の元へと帰還することも含まれる。神とは愛そのものであり、唯一の実在(在りて在る者)なのである。

人間の霊性進化の過程において、最も重視すべきは「神への信愛」である。決して瞑想での神秘体験や超能力の獲得を追い求めてはならない。

たとえ一瞥(五感を滅して宇宙と一体化すること)を体験したとしても、ワンネスを実感できる期間は、一時的なものである。確かに修行の過程で起こる一瞥体験は素晴らしいものではある。だが、いつまでもそのことに執着してはならない。

真のワンネスと愛の境地に至るには、神への信愛を持ち続け、かつ真我実現を積み重ねることによって、少しずつ訪れるのものである。

今後、地球の5次元化(アセンション)に伴い、生命の樹のダアトが再浮上することで、カバラの役割も終わるのだ。すでに「アースチェンジ」の時代は始まっている。人類は総意として「人間にエゴがある限り、社会体制をいくら変えたところで、地獄的な世界からユートピアへの移行は実現しない」ということに、早く気づくべきである。

表面的にいくら愛が大切だと喧伝してみたところで、上辺だけの偽善者が大量に生み出されるだけである。現代社会はこんな人間で溢れ返っている。真の意味で神を知らない者に、愛を体現することなどできないのである。かつて主イエス大師はこのような社会のあり方に違和感を覚え、パリサイ人(ユダヤ教パリサイ派、律法主義者)を徹底的に批判したのである。

もはや、くだらない人間が大多数を占めた3次元の地球は終わりである。くだらない人間とは、このようなブログに興味を示さない者である。今後、3次元の地球は、数十年かけて現在の金星のような星となるだろう。時速300kmの嵐が吹き荒れ、硫酸の雨が降る灼熱地獄である。

今後、アセンションの流れに乗れなかった未熟な魂は、このような地球に「ゴースト」として、長い間、留め置かれることになる。もはや、4次元に相当する幽界(陰府(よみ)、中有界)の下層部が消滅しているため、今までのような輪廻のシステムで、人間に生まれ変わることはできないからである。

そして、「最後の審判」を迎えた時、そこでも頑なに主イエス・キリストに忠誠を誓うことができなければ、永遠の地獄へと落とされることになる。最終的には宇宙の消滅とともに、魂すらも消え失せるであろう。


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