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電車内に隠された潜在意識

先日、Twitterで「優先席は、健常者が座っちゃいけない席じゃなくて、然るべき人が来たら譲る席」というツイートを見た。これは私自身が最近気にしていた問題だ。
優先席がガラ空きの車内、普通席の前でつり革に掴まっている人たち。
「あれ、優先席って座ったらだめなんだっけ?」と思うくらい、人々に避けられた、座ることに抵抗をもたれてしまった、違和感しかない空間があった。


そもそも「優先席」とは

「特定の人が優先的に使用できるよう設けられた座席。特に電車・バスなどの公共交通機関で、高齢者・体の不自由な人・病気やけがの人・妊婦などが優先的に使用できる座席。優先座席」(出典:大辞林 第三版)

のこと。

今回は、優先席に健常者が座ることで感じる「怖さ」や、人に席を譲るという「好意」について焦点を当てて話したい。


正直、私は優先席に座れない。
いくら「然るべき人が来たら優先する席」だとしても、周りに「あの人、健常者のくせに優先席に座ってる」と思われることが、単純に怖いからだ。
私は腰椎椎間板症を患っているので席に座りたくなるが、ヘルプマークを持っていないし、外見は何ともなく見えるので座りにくい。ずっと「あー、腰椎椎間板症だから腰が痛むなあ」と言いながら座ることもできないし。
そんな抵抗を生んでいるのは、優先席についての定義や考え方が「健常者は座ってはだめ」と人々の意識に根付いてしまっているからではないだろうか。

これは人に席を譲る時にも起こることだ。


私自身、優先席ではない席に座っている時だったが、年配のご婦人に譲ったことがある。
スマホで急ぎのメールを打っていたので、気づくのに遅れてしまい正直譲るべきか悩んでしまった。でも、カーブで揺れた時にふらついていたその方を見て、私は声をかけた。もちろん究極を言ってしまえば、優先席ではないのだからそうする必要はないかもしれない。ただ、私は彼女に座ってほしいという気持ちから、「もし宜しければ座られませんか?」と言った。
しかし、彼女は「いいえ、結構です。あなた、その手に持っている何とか(スマホのこと)っていうので忙しいんでしょ?座りなさいよ、ほら、続けなさいよ」と仰った。私は「急ぎの連絡を入れてましたので、気づくのが遅くなってしまい、申し訳ありません。もうすぐ降りますので、宜しければ」と謝罪の言葉を述べつつ、少しの違和感を感じた。
私が若者だからといって、彼女に譲るべきなのだろうか。


その時に感じた違和感は、「彼女は私を責めることができるのか?」という疑問だ。無駄に攻撃的だったからだ。きっと「今更遅いわよ」という気持ちからだろう。私のこの考えは逆ギレと捉えられるかもしれない。ただ、このことにそこまで攻撃的にならなくても、と思ってしまった。


なぜなら、「席を譲る」ということは、その人の好意・善意に基づいて行われるからだ。決して「当たり前」ではないし、若者に課せられた義務でもない。

近年はその点を誤解している人が多いのではないか?
だから、みんなが優先席に座ることに怖くなってしまったのではないだろうか。
たとえ「然るべき人が来たら優先する席」だったとしても、周りに「あの人、健常者のくせに優先席に座ってる」と思われることが怖いのではないか。
「若者なら年配の人に席を譲れ」という潜在意識はないだろうか。
だとしたら、こんなに悲しいことはない。


それから一時期、私は席に座ることに「責任感」「義務感」を感じるようになった。しかし、それは好意だと気付いてから心が軽くなった。

「席を譲らなければ、早く気づかなければ、ご年配の方を優先しなければ……
 あれ、電車に乗るのって、こんなに難しいことだったっけ。」

この気持ちが、人に席を譲ることについて改めて考えるきっかけとなった。


世の中にある当たり前は、本当に当たり前なのだろうか。



おやすみなさい。
いい夢を。


のあ



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