遅れる自覚のある自分との対話の亡い者。しいては、術を失くし痛みを忘れるでもない言葉のない生活では、意識的な意匠をもって辿るべき考察を楽にできると思ってもいないのか・・・?

困惑する脳において、探している事の無さという勘違い行動がある。せっかくのいい一日が終わるまである程の悠長さだ。典型的な爆老よりも遅く先天的な意の中の小脳を愕然とさせる異常の酷を執る。整理をする脳の行動学的には運動よりも走らない鼓動となり、精神の縺れた息と衝動の移動程も無い切っ先の動きが出歩いていくのみ。耳の処理も遅く、脳裏に移動していることの程なく戻るという行為の無さも窺える。清らかな水の音の下、意識の薄れであろうが発見しやすくしていた自分の身の回りにおいて、よく聞き及びよく危険の察知よりも多く人の声のする時間をもつ自己の啓発が多く、隣律を奏でれば全て動いてきた道筋が見える。居心地悪くされる前に消すのであって、元の位置に帰ってもらうように話したりはしない。精神を病んだような声をたてられるだけであり、意識的な散策ではない事ぐらい分かることが道筋にならばっている人だから、大声たてて消す必要もなく、単に集めて掃除する。嶺律を重んじて返せるものは返すが、返す必要のないものとの見極めは全てお見通しの問題であり、間違えようがない。結束した体が近場を通ろうとした時も思ったが、病気の人のは騒ぐまでもなく消してやるべきもので、すでに耳を閉じているので、話しかけてもしょうがない。詮索する必要性はほぼ無く、あからさまに全て分かってしまうから、口で整理して見つけていく必要もない。統計だち延臚の状況を処理してきただけにもう全て瞬時に分かるのだ。分かっているから来るのかではないが、良い事の方が待ち望んでおり、精神や神経の痛みのせいで出歩いている脳みその人々はもうちょっといい人生を一日の中で感じながら生きていって欲しい。状況一変するほどの良い事が起きている日だとしても、出歩いていちゃ目の前で起きていることから逃げよりも避けてしまっているという日々をお過ごしか!!?もうちょっとやる気を起こして、朝を迎えてください。日中のフラフラ事件で過ごすのは余裕がないからで、均等な音で話を聞いて話を途切れていき、休憩もなく正体不明になって行くようでは、、、世の中の頭整理しながら答えの多い日常を営んでいるとは言えまい・・・視力アップを目論むのも良しとして、口の乾かぬように息だけしていることの無いように暮らし及ばずではないようにということである。

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