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そして夫は拳をあげた

この記事を、いまトンネルの中にいるすべての人とその家族に贈ります。

2023年3月26日。
夫の、はじめてレッズをみた日。
そしてそれは新たなレッズサポ誕生の瞬間でもあった。

2022年の夏の終わり。夫が休職した。
長らくの働き詰めの暮らしのあとのことだった。

夫の充電期間が始まった。
夫は一見、ごく自然な生活を送っているようだった。
何にも打ち込めないことを除いて。

これまでの厳しい生活は夫から趣味を奪うのに十分だった。
映画。音楽。ゲーム。思い当たるどれも夫の胸を打たなかった。
先の見えないトンネルに入ったような気持ちだった。
言い争いもたくさんした。私たちは疲れていた。

夫の心の隙間を満たしたい。何か明るいもので。

私は唐突にサッカーの話を始めた。
特定の贔屓チームこそ今は無かったが、
Jリーグ観戦歴は10年。サッカーの魅力を伝えることには自信があった。
試合の面白さ。選手のおもしろエピソード。現地観戦のハプニング。
自分の知っていることを端から語った。
なんでもいいから夫に笑ってほしかった。

そして迎えたカタールW杯。
夫は半ば私に付き合わされて開会式を見た。
日本代表のいくつかの試合を見た。

W杯を通じ、夫はじわじわとサッカーを知っていった。
閉店間際の八重洲ブックセンターで
「そこまで言うなら買ってみようか」と手に取った、
初めての選手名鑑を毎日眺め
選手のおもしろいコメントを見つけては私に教えた。
億劫だった外出のなか、
スーパーにあるJリーグチップスを買うのが楽しみになった。
昼夜逆転しかけた生活のなかで、
「明日の朝は試合だから」と早寝をするようになった。

夫の期待に応えるように、日本代表は勝ち上がった。
不安定な眠りを繰り返すなかで、試合の日は朝4時に必ず起きた。
早朝のテレビから聞こえるチャントに合わせて
夫の、夏より少しだけ丸みを帯びた後ろ姿が揺れていた。

2023年3月。
W杯が終わって3ヶ月がたっていた。
夫が「スタジアムに行ってみようか」と言った。
「浦和レッズの応援を聞いてみたい」と言った。
私はチケットを買った。

3月26日。
駒場スタジアムは雨だった。
久しぶりに人混みに来た夫は少し緊張気味で、
下調べをしていたスタジアムグルメを断った。

90分。終了の笛。
試合は引き分けだった。雨が降りしきっていた。
でも夫は楽しそうだった。
選手に手を振り、スタジアムを写真に収めた。
曇天の駒場スタジアムに晴れ間が差した。

レッズサポ誕生の瞬間だった。

夫は猛烈に浦和レッズにはまった。
選手名鑑のレッズのページを繰り返し読み、
「選手全員の背番号と名前を覚えたんだ」と嬉しそうに言った。
欲しいものが何もない、と嘆いていた彼が
「次の試合に着て行くから」と通販サイトで赤いTシャツを買った。
(公式グッズにアパレル商品があることを彼はまだ知らない)
「選手をもっとよく見たい」と双眼鏡を買い、
「試合に行くのにちょうどいいから」とバッグを買った。
公式SNSをフォローし、私よりも早く情報をキャッチするようになった。

2度目の試合ではビールを飲んだ。手拍子を打った。
その次の試合ではもう少しゴール裏に近い席に座った。
レッズのゴール裏は熱い。
押し寄せてくるコール。スタジアムがひとつになる感覚。

夫はおずおずと拳をあげた。

浦和レッズはたちまち私たちの生活の一部になった。
夫婦の時間は楽しい話題で溢れた。
週末は試合の結果で持ちきりになる。
アウェイ戦の日はDAZNの前に並んで座る。
そしてホーム戦の日はふたりでスタジアムに向かった。

2023年夏。夫が休職して1年経った。
私たちは変わらずふたりで暮らしている。
夫は前よりも少しだけ明るくなった。
「週末が忙しくて困る」と笑い、皿を洗いながらレッズのチャントを歌う。
「ユニフォームが似合う男になりたい」とダイエットを始めた。
ホーム戦の日はたくさん歩く。スタジアムの風に吹かれてビールを飲む。
帰ってまたDAZNを見る。次の試合のチケットを買う。
そんな週末を繰り返せることが幸せだと思う。

前に進んでいる。レッズも私たちも。

一年前のトンネルの中にいた気持ちはもうない。
でも私は、あの景色たちのことを今も思い出す。
早朝のテレビの前の丸い背中。
初めての赤に染まるスタジアム。
そして掲げられた拳のことを。

夫は今日もスタジアムに向かう。
その首には赤いタオルマフラーが巻かれている。

浦和レッズと、
レッズを愛するすべての人が今日も幸せでありますように。

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