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日記:散漫と散文、京都

なんだか京都に縁がある。最近急に。
そういうわけで、いろんな人と会う約束を合わせて京都に行った。

私はさも神戸にいるかのようにネット上で振る舞っているがこれは完全に嘘である。神戸からうんと離れた片田舎にいる。だから私にとって京都は遠い。
いい場所であることは勿論知っている。私は中学生のころ森見作品を読み、「大学」たる場所を妄想し心躍らせていた。

そううまく行くはずもなく、というか私は単純に頭が良くないので進学先を選ぶことはできず、加えて私の血に脈々と流れるマイルドヤンキーの魂が私を片田舎に留まらせるのに十分すぎる力を持っていた。

別に京都なんて行こうと思えば全然いけるけど、頻繁に行くには遠すぎる、そういう場所である。住んでいる人のことが羨ましいなあと思う。

偶然にも友人が京都におり、なんだか泊まってもいいみたいな、そういう感じだったのでこの度のこのこと行った。

作っているZINEを売りに、京都大学へ行く。初。
かなり私はテンションが上がっていて、元々散漫な注意力がいつにも増して散漫だったものだから、電車を間違えたり乗り過ごしたり折り返されたりしてめちゃくちゃだった。
加えてこの後は、泊まる家の友人と会うための移動もめちゃくちゃで、電車を乗り過ごしに乗り過ごし、すごく心配させた。
さらに言えば先週鴨川で花見をした時も、これは私のせいではなく事故の影響で電車がさっぱり動かず本当に痛い目を見た。京都の電車と相性が悪い。

人と会う。私は初めての人と会ってお喋りするのが結構好き。大学も好きで大学生も好きで大学生協も好き。
友人に、「欲がない欲張り」と言われたことがある。知ってるもののことも勿論好きだけれど、知らないもののことを知らない状態でも好きで、知りたいという欲求も強い。そして最高(最悪?)なことにその欲求を充足できるだけの体力もある。
正直なところ、知識もなくて研究の才もない私が修士課程をそれなりの顔をしてまずまず出ることができたのは、自分自身の体力が大きな役割を果たした思っている。この「体力」というのは運動とか筋力とかそういうことを言っているのではなくて、〈パワー〉である。自分のメチャクチャさに驚いているのは必ずしも隣人だけでなく私自身もたまに驚いている。
でも皆がみんな私と同じような欲求を抱えていて体力が有り余っているわけではない、これを時々忘れそうになって酷い発言をする瞬間がある。やっぱり対話だ。他者と対話することを怠ると、自分のことばかり考えてしまう。他者と会って話をする。これが重要だ。だから私は初めての人と会ってお喋りするのが好き。

そもそも人間のことも好きだ。私は自分のお葬式で、私の友達と私の友達が出会って仲良くなってほしいと常々考えている。あんまり大人数のパーティーとかは好きじゃないから、人をいっぱい集めることを生きてるうちはしないと思う。でもお葬式だったら自分は死んでるので気まずくないからいいな。ただ私はすごく長生きをする予定なので、私のお葬式が開催されるころにはおそらく今仲良しのお友達はもうみんな死んじゃってると思う。

京都が好きなのも、大学が好きなのも、結局は人間とその関係と、それらの誕生が好き、ということに収斂されるかもしれない。私は公共空間が好きだ。人間と人間の相互の行為が生まれる空間が好き。その場に居合わせられたら幸福を感じるし、意図的にそういう空間を創り出そうともしている。

好きな人間たちのグループLINE。酷い言われようだ。我々は働いている人間のことを「プロレタリア」と呼んでいる。


2日目は立命館大学に行った。大学図書館の見学に行く。地下1階地上3階、十分な蔵書数に十分な座席数。シックな雰囲気で統一されつつも、大きな窓と建物の中央に大きく作られた吹き抜けから心地よい光が入る。
本の居心地と人間の居心地は、本当は相性が悪い。人間は本を好み、本のある空間を好むけれど、本は人間との共存に適していない。
立命館大学の図書館は、適度な光と適度な室温と適度な湿気、そのための建設がなされていて、とんでもなく膨大な配慮の塊だ。

私は出身大学のことが結構好きだしその大学図書館のことも好きなんだけれど、こんなに立派な建築物を見せつけられてしまうと敗北を認める他ない。

私は公共空間のことを、空間が公共的になろうとする、そういう動的な空間だと思っている。でも、建築物は動的じゃない。だから公共空間は難しい。人間が動く、でも空間のハード面は動かない。
パンは食ってしまえばそれで終わりだけど、建築物は作って利用してそれでおしまいになるわけじゃない。人間の一生よりも長生きする。
この図書館はこれまでもこれからも、とても多くの人がその出入り口を通るだろう。その空間はすごく動的だ。建物はその動きを包み込むようにしなければならないらしい。

新しいものを素敵だと感じるのは当然のことだ。でも新しいものを創り出し続けようとしたら古いものを捨てなければならない。人々は限られた土地の中で互いに我慢し合わなくてはならない。
人間より長生きするものも当然にあって、むしろそういう存在が世界を存続させる。だから新しいものの制作も勿論だけれど長生きするものをどのように私たちが捉えていくかも多分重要で、というか新しく長生きしそうなものを創る時は、そのうーんと先にある未来を想像しないといけない。

大学院に行こう、と決意を固めたころ、授業で先生が「研究というのは10年後の社会を見据えたものでなければならない」という旨の話をしたことがあって、私はすごくこれが印象に残っている。
修士論文なんてそのままパブリックになることはなくて、私は結局アカデミアにいないから、10年後の社会における私の研究なんて本当のところはなんの意味も持たないんだけれど、私は修論を、10年後の社会を見つめながら書くことにした。

私はものづくりが好きだけど、ものづくりの責任をこれっぽちも感じていなくて、だからこの先生の言葉が大事になった。
ものを作って、はいおわり、というのはどうやら誠実な態度じゃない。誕生には責任がつきまとう。
だからと言ってものづくりをしないのも誠実な態度じゃない。私は人間と空間が好きで、だから世界のことが好き。ものづくりをする。責任を持つ。

コロナ禍が特に酷かったころ、私は片田舎で誰とも会話せずにひとりものづくりに没頭した。本当に幸せだった。あれから4年経った。私はまたあの頃みたいに片田舎でひとりで誰にも会わずにまたなにかを作り出すことが可能な自由を得た。
でも、外で知らない人間と対話したい気持ちが結構強くある。私は科学の発展に心から感謝している。移動の加速化によって、空間が拡がる感じがする。
遠いけれどギリ行ける場所、京都。


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