夢・期待・仏

「日本の教育の、みんなが明るく夢を持とうって教えるところは間違ってると思うんだよね」
昔、知人がそんなことを言っていた。私もそう思う。夢を持つのが悪いことだとは思わない。ただ、夢のない子がいてもいいと思うし、ずっとネガティブな子がいてもいいと思う。そういう子たちが教育によって「夢がない、暗いことはひねくれていて悪いことなのだろうか」と悩まないでほしいと思う。

というわけで夢とポジティブ教育の被害者である私は、同時に洗脳された信者でもある。一度何かに期待してしまうと、その期待をどうしても捨てることができない。それで今も困っている。期待を捨てる方法がどこかにあると思っていることもまた一種の期待である。
仏になりたい、と思う。私が全知全能、何も気にせず何が起きても揺るがないというイメージを持つのは仏である。別に熱心な仏教徒ではない。古典の授業で、人生に行き詰まった登場人物が揃いも揃って出家する図式を何度も読んだせいでそうなったのかもしれない。行き詰まったとき、仏門に入れば何もかも解決するような気がする。日常の小さなことに期待しては裏切られてくよくよ悩む自分と仏は対極の場所にあって、向こう側に行けば救われるような気がする。実際仏門に入る気はさらさらないのだが。

期待を捨てるには別の何かに熱中するといいらしい。それは期待に別の何かで蓋をするということだ。そうではなくて、無駄な期待がスーッと霧のように消えてなくなってしまわなければ、根本的に期待を捨てることにはならないと思う。それが仏のイメージだ。期待することをポジティブに肯定できず、仏のように捨てられもしない私は、俗世で宙ぶらりんのままだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?