はい、恥ー部


他人に恥部をさらけ出したことがありますか。自分は現在進行形でさらけ出しています。

いや、あの、これはあくまで例え話であってですね、露出狂云々の話じゃないんですよ。あっ、石を投げないで!どちらかといえばそういう猥談はしたい方、

話をもとに戻そう。

自分が言いたい恥部とは、心の恥部である。
枕に顔を埋めて「あー!!」と感情のままに絶叫するような思い出したくない体験。発狂しながら髪を搔きむしり、天を仰ぎみるような恥ずかしい記憶。一生墓場まで持っていくと固く決意した失敗談などなど。ポジティブ・シンキングの権化以外、人生は恥部で溢れているといっても過言ではない。

自分は「生まれてから昨日までの出来事はすべて黒歴史だと思う」タイプの人間だ。正確には、「1回犯した失敗を今後一切しなければ、自分は完璧な人間になれる。だから成功体験よりも失敗体験を覚えていないといけない」と思っていたタイプである。この考えは最近変わったが、とはいえ覚えている出来事は失敗談の方が多い。

大きな声で下ネタを言った話、先生をお母さんといった話、酒の飲み過ぎで盛大に転んだ話、なぜかパートナー公認で既婚者と付き合った話、毎日自殺の方法をググってた話。

失敗には大なり小なり大きさがあるのかもしれないが、今あげたものはすべて自分の恥部だと認識している。とはいえ過去は過去なのだから、思い出したところで100年物の梅干しをかじったような顔になるだけだ。甘酸っぱい若気の至りを通り越して「酸っぱい」「にがい」「辛い」「くるしい」「しんどい」の5拍子が揃っている。だから要は、思い出さなければいい話なのだ。実際、引っ越しで忙しくしていた時は過去を思い出す余裕なんかなく、1日後、3日後、1週間ごと細かいスケジュールで未来のことを考えていた。

自分は現在、コンテストに応募するためエッセイを書いている。
コンテストのテーマは読書や図書館にまつわる体験や経験談で、自分は最近図書館に行ったばかりだったから、応募を決めた。

自分は天才ではない。文章を書くのは好きだが、文章を書く才能があるわけではない。そのため、友人3人に校正をお願いした。1回目の校正はすんなりとお願いすることができ、三者三葉のアドバイスを聞けた。中でもこのアドバイスはとても参考になった。

「もっと突っ込んでその本がよかった理由を聞きたいな。この本のどこに感動して、なんで感動したか、経験や背景があるのあら交えて教えてほしい」

流石自分が校正をお願いした友達である。的確なアドバイスにノリノリでエッセイを書き直した。
書き直すまではよかったのだ。どうやったらこのエッセイは面白くなるか、自分の経験を100%相手に伝える言葉や文章はどれか。無我夢中で考え、具体例をふんだんに盛り込んで、1日で完成した。内容は1回目と比べて大きく変わった。「ただこの本は面白い」とだけにとどめていたエッセイが「自分が毎日死にたいと思っていた時に出会ったこのエッセイは、生活を面白くしようと書かれたエッセイであった」と、面白さに色を付けることができた。

自分は友人の前ではかっこつけである。毎日死にたいと思っていたなんて、口を滑らせたことはない。友人や先輩後輩と会う時は笑顔でがモットーである。おかげで「包容力の出し方が親」と言われたぐらいだ。
しかし、自分は「この本は本当に面白かったです!」と大衆にアピールしたいし、エッセイなのに嘘偽りまじりで書くのは絶対に嫌だった。それは自分ではなく、自分ではない、誰かのエッセイである。

エッセイを書き終わってから5日後。初めて、自分の意志で、自分は友人に恥部を晒した。

結果だけ言えば、友人たちは自分に大変だったねと同情するわけでもなく、病院紹介しようか?と気を遣うでもなく、今まで気づかなくてごめんねと空気を読まれるでもなく、ただただスルーされた。これは友人たちがとても優しいので深堀しなかったという説が第一に上がるが、そもそもとして、他人の失敗はそこまで興味がないことにも覚えておかなければいけないと思う。

つい先日もこんな話が合った。

以前、父親がパソコンで作業中、自分がパソコンの充電ケーブルを誤って抜いてしまったことがある。バッテリーが壊れていたパソコンだったため、即シャットダウンし、父親が作業中のファイルが消えてしまった。今から20年ほどまえの出来事である。無知とはいえ、ちゃんと確認せずに充電ケーブルを抜いてごめん。そう謝った自分に父親は笑いながらこういったのだ。

「おぼえていない」

自分は友人たちに恥部を晒したときの肩透かし感を忘れてはいけないと思いながら、恥ずかしさに慣れてはいけないとも思う。
失敗談は話の、酒の肴の種になりうる。これからもエッセイを書きたいのであれば、今後とも積極的に開放していくつもりだし、友人に見せてスルーしてもらえたことで、逆に腹をくくれた。だって、自分が信じてる友人たちが「このエッセイはおもしろい」と太鼓判を押してくれたのだから、自分の具体例の書き方は間違っていない。

でもだからと言って、恥ずかしさに鈍感になってしまったら、それはきっと自分の才能をなくしてしまうことと同義だ。たとえ生きづらい才能であったとしても、自分はこの才能をなくしたくはない。
エッセイは代弁であるとも思う。読者の中に巣食うもやもやとした、言語化できない感情があったときに、その言語化をお手伝いできればいいなと思うのだ。自分は、エッセイに助けてもらえた。死にたいと思うだけでなく、生活を面白くしたいと思えるようになった。だからどんなに小さな失敗談でも書き留めて、昇華させていければいいと思うのだ。読者の皆さんと共に。

他人に恥部をさらけ出したことがありますか。


熱量高めのエッセイを続々更新予定です。お仕事の依頼はなんでも受けます。なんでも書きます。ただただ誠実に書く、それだけをモットーに筆を執ります。それはそれとしてパソコンが壊れかけなので新しいパソコンが欲しい。