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雑記 20230629

 上半期も終わりが近づき、時流のうねりに急かされて、なにか語らねば息もつけない。そんな近況の報告です。

「ゲーセン戦記」感想

 レトロ格ゲーのネット配信で世界的に有名な、高田馬場ゲーセンミカドの店長池田 稔氏が綴った中小企業ゲームセンター50年の風景。

 僕が本格的にミカドのYouTubeチャンネルを登録して見始めるようになったのは、3年前のコロナ休業配信ぐらいからだったと思う。それまでは格ゲー大会の配信に敷居の高さがあった。
 その時不要不急の代名詞とされてしまう悲しみを抱腹絶倒のイベントで乗り越えてしまおうとするタフネスな場所、というイメージを持った。のちにザ・闘牛ダークミストなど、見たことも聞いたこともないアーケード・ビデオゲームを知る機会も増えた。

 僕はせいぜい今はなき地元のデパートのゲームコーナー(いちばん奥に置かれた「バーチャロン」を狭さと騒音の中おっかなびっくりプレイした記憶が残る)かモーリーファンタジー、アミパラ、GiGO(旧セガワールド)といった大手のそれしか知らないので、今の50〜60歳世代の濃いトークには加われないのだけれど、昔ながらのビデオゲームの世界を知れば知るほどプライズやメダルゲームばかりのアミューズメント施設に魅力を感じられなくなってもいた。

 本書ではプライズやメダルゲームよりも旧作ビデオゲームに比重を置くゲームセンターの方がまともではない、と経営者の目線からはっきりと断じてしまう。そこには90年代に社会現象を生んだ格闘ゲームブームの衰退とともに、本体価格以上にクォリティも高くなったはずの新作ビデオゲームで収益を得られない苦しい現実が横たわっている。

 ゲームユーザーがつい理想的に考える昔ながらのゲームセンターのありかたは、今現在ゼロから作るとしたらハイリスクノーリターン支出多く実入り無しで、ゲーセンミカドにおいては奇跡のバランスで成り立っていることがよくわかる。

 しかし、池田店長は諦めることを知らない。あの手この手でミカドを盛り上げて、世界最後のゲームセンターとなるまで生き残り戦略を仕掛ける。その中にはゲーセンを愛するファンからの支援も含まれている。

 本を売ったり、Vtuberをデビューさせたり────それは「カリスマゲーセン店員」という概念すら色褪せてしまった現代のゲームセンターシーンにおける特異点だと僕は思う。

 配信を視聴し、「TOKYOHEAD」を読み、ひととひとをつなげる「場」の力を東京から遠く離れた鳥取の地にいながらにして感じる。

 僕は最近覚えたスパチャを配信中に気安く投じるようになった。それ自体はゲーセンで言う2クレジット程度の低額で、何かしたような気分になるという以上のものではない。

 真剣にミカドへの支援を考えるならメンバーシップ会員になる方がよほどいいことはわかっている。一番の理由は、顔なじみの人々によってここ数年で出来上がったコメント欄の空気に飛び込んで混ざりたい、同じ空気を吸いたい。それだけだ。

 ミカド塩プロレスと呼ばれる配信がある。「明るく、楽しく、しょっぱいプロレス」────ボディスラムからスッとフォールに入ってもいいじゃないか、袈裟切りチョップだけで相手をKOしてもいいじゃないか…………という先に勝ち負けありきのゲームでしか見られない、非常識であり得ないプロレスの試合にみんなで野次を飛ばす面白さ。時々場外からリング上に戻れない形での決着で本当に何も試合のピークがないまま終わってしまった時の、あのなんとも言えない固まった空気を映し出すコメント欄も味わい深い。

 何よりも「◯◯さん、『金返せ』。返しません」というスタッフ(AKIRA氏)のレスポンスが面白くてスパチャを投げ始めたいたずらっ子の部分があって、むしろ「金返せ」と言いたいがために塩分の濃い試合を求める……というプロレスファンの名を返上しなければならないような危険な逆転現象が起きている。

 そんな密かな人気が本当に密かなものなのか、このジャイアントグラム2000闘魂列伝4というビデオゲームは両方とも大会など限られたタイミングでしか稼働しなくなりつつあるという。ゲームの人気はインカム(一日に100円を投じられた数量)としてはっきりと表れるので、仕方がないのだろう。

 今の時代、自己存在をメディアで全世界に発信し続けなければ埋もれていってしまう。同じレトロゲームを飽きることのないが如くに繰り返す、ミカドはそのトップランナーであり続ける。そうであってほしい。

夏はウルトラマンの季節

 いよいよ新番組ウルトラマンブレーザーを来月に控える。のだが、自分が会社と相談して決定した勤務シフト的にリアルタイム視聴ができないので(デッカーはその結果視聴機会を失った)常に自分の意思で見るための画面タップをする必要性に追い込まれている。

 夏になるとウルトラマンを見たくなる。理由は自分でもわからないし、どのウルトラマンでもいいという訳でもないのが悩みどころだ。初めて見た「コスモス」の放送が真夏で、夕日が沈む中小さなテレビでウルトラマンを見上げたあの原風景によるものか。

 子役が可愛ければ横にいる母の心証もよく、操演の糸が見えない限り(母はあれが見えると恥ずかしいものだと認識している)オタクごころを乱さずに茶の間で見ることができることを覚えていたため「ガンQの涙」上映会は成功と判断した。

 …………つくづく自分のマザー・コンプレックスは重症なのだと呆れはするが円滑な家庭内コミュニケーションの管理に脳のリソースを割くのは仕方のないことだと言い訳をする。そういうわけで母の世代のウルトラマンである「Aエース」を見てみたいのだが、困ったことに円谷イマジネーション以外の見放題サービスでは昭和ウルトラマンは劇場公開のもの以外見られないのである。

 すべての見放題サービスをPS4のテレビ出力に依存している自分が時流に遅れているのは理解しているが、以前ツブイマの有料会員だった折にスマホでの視聴がまったく身に入らずアプリを起動することもなくなったのでサブスクリプションを停止した。

 百歩譲ってウルトラファイトやレッドマンをスマホで見るのは分かる。しかしウルトラシリーズ本編やドラマシーンになると、どうしてもスマホやノートPC程度の解像度では情報量が圧縮されすぎていて「これだったらTVで見たい」と思うのだ。
 僕がかねてよりTV番組はリアルタイム視聴派で居続けるのは自分の甲斐性のなさもひとつあるが、スマホやPCは気が散りやすく別のタスクに脳のリソースを食われて優先順位がおかしくなるからだ。

 結局どういうウルトラマンが見たいのか、という話に戻ると、長らく自分は昭和ウルトラシリーズのファンが選ぶ上澄みの部分────「子供向けではない」「大人も考えさせられる」というような評価で語られるタイプの作品に注目したいと考えていて、怪奇色の濃い、と言っても日常風景に怪獣の着ぐるみが紛れているような異物感が好ましいと思う。

 総じてニュージェネで言えば田口清隆監督回とのシナジーが高い。「米子映画事変」関連で僕の地元にも来てくれるしファンだから、という以上に「激撮! Xio密着24時」に代表されるような、地球に怪獣や宇宙人が当たり前にいる世界の説得力リアリティを人間社会の側に求めるような感じ。つまり人間社会の文法が異物たる着ぐるみを受け入れる、というところが魅力的なのだと思う。
 それによって怪獣や宇宙人の”神秘性”は野生動物やアングラな社会の人間レベルには落ちるかもしれないが、その人間くささが俳優の演技と相まって魅力的なドラマに映るのだろうと僕は考えている。

 夏。酷暑に肉焦げ脳が溶けるような夏。僕はまた我が心の秘密を解かず創作メモを腐らせている。

 ある日、胸に流星が降ってくる。そして少年は超人に変わる。他方では影が実体となった怪獣が少女の姿で「お兄ちゃん」と笑む。凸凹コンビ。食う/食うなの喧嘩。世にありふれた怪獣退治譚の一編かもしれない。うしおととらを真似しました、と言ってもパクリだと思われないほど下手な作品を出すのも「勇気」なのか?

 何が宿敵かも分からない。戦う相手もいないのに暴力は振るうことができるなんて虚しすぎる。私小説では冒険心が足らない。しかし家から十数キロ圏内の世界しか知らない。

 1ページ目で死体を転がせ、という創作論は正しい。死体が動いてしゃべってもいいんじゃないか? というのはあまりにも形無しだろうか。死体、主人公、もう一人の登場人物をアクションさせるプロンプトがわからない。光射さぬ路地裏、煉瓦の壁、転がる死体、流れる血、銃。出力される同じ一枚絵からイマジネーションは湧き上がらない。

 タロットのお告げ。神話の類形。それとも…………パルプの銃の脈動、か。

(終)

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