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【七峰】美とか少女とか、最初に言い出したのは誰なのかしら/駆け抜けてゆく私のTSFメモリアル

【日報】2024/07/21付

“VTuber時代、「バ美肉」というムーブメントが常識を更新しました。
おじさんだって美少女になりたい。
で、なってどうするのか?
心も行動も、そして他者への理解も「美少女」を理解し、
「見た目が美しくても、少女でも、辛いことはたくさんある」
これを学ぶのが人類を前に進めた一歩です。”

 この段落に大きく首肯したのが本記事の起こりである。

 そもそもは女性起業家が主題の記事で、物理的な「持って生まれたハードウェア」=外見、ジェンダー、年齢etc……は変えられないから、今で言うジェンダーバイアスの濫用=「女性らしさ」や「〇〇女子」を売りにしている連中についていかない、という行動様式を啓発するような内容なのだが、この段落は僕自身の探究してきたテーマにかなり漸近していたため引用した。

 特に注目すべきと思ったのは他者への理解を含めた「美少女(バーチャル美少女受肉)」という言わば物理的なハードウェアに対するソフトウェアの構造を理解するということ。

 10代の頃、僕はこれを理解しないまま某テーブルトーク・ロールプレイングゲーム(以下、TRPG)のオンラインセッション(インターネットを介したTRPGを遊ぶ集まり)で美少女キャラクターとして振る舞った。

オウカ・ユウギリ(初期顔アイコン)
by かおグラMAKER

 美少女らしい心や行動はアニメやラノベを読んでいれば自然と頭に入ってくる。だが他者への理解……それもTRPGというゲームマスター(以下、GM)とプレイヤー(以下、PL)のコミュニケーションによって成立する世界の中で、僕はかなり無茶苦茶なことをしていたらしい、ということを後々になって知った。

 どうもGMのTRPG仲間からはドン引きされるような卓(TRPGを遊ぶメンバーの集まりの通称)だったらしいのだ。らしい、というのはそれが僕にとって初めてのセッションだから経験値の差でわからないということ。

 僕は念願の美少女になれたし、大好きな世界観の中で家庭用RPGみたいに戦ってカッコいい装備を集めて強くなって楽しもうとしていたため、その世界のリアリズムに即した……つまり「相手が軍人であろうと民間人であろうと戦争で人が人を殺すということはどういうことだろうか?」という問いが内包されたシナリオに対してしばしばズレた反応を返していた。

 同じPL側の男の子(PLも同性だと僕は認識している)と即興でイチャイチャしたり、ノンプレイヤーキャラクター(以下、NPC)の女の子に一目惚れして自分の部屋まで来てもらい(そういう二次創作を自分で書いた)、そんな感じの恋愛を二度繰り返したので男子一名・女子二名と関係を持ったりした。

 GMは自分と比べればずっと理性的で「そのリア充みたいな行動は嫌いだ」という意思表示をしたし、三股も肯定はしなかった。

 美少女化に限らずゲームをすると人が変わったようになってしまう人はいると思うが、僕の場合ある種の特権や超能力を得るとその力を自分のエゴのために濫用してしまう、ということがよくわかった。

 ゲームという装置はPLとプレイヤーキャラクター(以下、PC)あるいはNPCとの間に一種の従属的関係が結ばれるので、詰まる所ゲームユーザーの言う「自由度」とは「PLがPCの従属的関係を濫用できる範囲」であり……つまりそこではPLしだいでPCやNPCの諸権利がたやすく踏みにじられることもある。

 わかりやすく例えればマリオ(PC)がクリボー(NPC)を踏みつけて殺害したり周辺のブロックを破壊しまくったりするという行為の責任はコントローラを手に指図したPLにある、ということが言える。
 もっともそれ自体は現実世界の法に則った立場の見方であり、スーパーマリオの世界でマリオがクリボーを踏むくらい当たり前だ(なぜならそのようにあつらえられたゲームの世界なのだから)と言えなくもないので、極論だが。

それがゲームデザインと相反するという点において、不殺プレイの根拠を仏法に求めるのも一種のナラティブ(一人ひとりが主体となって語る物語)と言えるのかもしれない

 閑話休題。

「見た目が美しくても、少女でも、辛いことはたくさんある」

 僕のTRPG体験から言ってもただ美少女だからというだけで自分が救われたり誰かを救ったりすることはできなかったが、それ以上に辛かったのは

「僕がどんなに美少女になりたくても自分のあらゆる物理属性を『ほんとうの女性』に変えることはできないし、その一点において僕の美少女ロールプレイは間違っている」

 ということだった。

 もうGMからどんな言葉を投げかけられたかも忘れてしまったが、とにかくも僕はあらゆる面で男性だから女性にはなれないし、それも「女性ごっこ」をしているだけでそのキャラクターはなんらリアルではないということに気がついて、がく然とした。

 今までの自分が作り上げてきた世界が一瞬で打ち壊されて、自分ごとばらばらに砕け散ったかのような衝撃だった。

 結局、その時は「それでも僕は『オウカ・ユウギリ』というキャラクターがあの世界に実存すると信じるのだから、彼女はそこにいる」という理屈で自己正当化したのだが、本当に打ちどころが悪かったら個人サークル活動も引退したかもしれないし、今でもリアルな女性は書けないと思っている。

 TSF(トランスセクシュアルフィクション)=性の揺らぎを題材にした作品においては「男性が女体化した場合に当然起こりうること」……すなわち女性としての社会生活や生理などをストーリーに織り込んでいくものが一般的にリアリティがあると見えるが、僕はそれについてはさほど関心が無く、むしろキャラクターとして誇張される傾向にある女体のエロスやTSによって男性から女性へ精神的にも不可逆に変化するというギャップに萌えていた。

 しかしながら現実のジェンダーギャップ(男女間の不均衡)が解消されていくほどに、男性が女性の生活を理解するための教養的なTSFが増えてゆき、自分が好ましいと思うような物理属性が大きくかけ離れた男女を描く男性向けTSF(例えば中年男性の魂が10代女子に乗り移るなど)はなくなるのではないか、と考えている。

 真に男女平等の世ならば自立と支え合いの輪ができ、異性のメリットもデメリットも可視化され汎く知識として共有され、異性になればこそ救われるというような可能性の神への信仰もなくなる……はずだ、と思う。

 まあ、どちらかというと社会のホワイト化によって物理的に存在しうる特定の属性をエロティックに誇張して愛でることへ規制やキャンセルが入ることを恐れているのが七割くらいの感情なのだが。


 先ほど僕は『ほんとうの女性』と書いた。

 これはある種のイデア論であって、あまりに哲学的すぎて自分でも意味を解さぬまま使っている節があるが、男性である僕にとっての女性、ということであり、それは身近な存在として例えるなら母親であったり姉であったりする。

 我が家は女性陣の意見が強く、父親は寡黙で、僕は母の言うことなすことに迎合することで四半世紀以上を生きてきた。

 だから女性化に憧れたのだ、というわけでもない。僕のTS救済信仰は小中学校のいじめによって生まれた。汚物でしかない今生の肉体を捨て去り、美少女化することで万人に愛される存在になることを願った。

 そこでは僕が美少女に生まれ直すことと、僕が死ぬことは等価値だった。どうせ僕が死ねば全員僕のことを忘れるなら、美少女になることで失われるであろう僕の人格も一瞬苦しいだけで、すぐに美少女としての幸福な生活が待っているから問題ないのだと。10代の間には強烈な自己否定の苦しみだけがあった。

 若気の至りで女装コスプレもしたが、しょせん「ごっこ遊び」の域を出なかった。これはこれで楽しかったが「思い描く理想の女性像に漸近するだけ」という現実を見た。

今でもこれはベストショットのひとつだと思う

 それに僕はいじめられる中で、リアルな女子の空気を察し場を支配する(教育による理知以前の)より本能的な能力におびえてもいた。ありがちな「先輩後輩には親しまれているが同輩には蔑まれる」という状況から僕は空想に向かって現実離陸し、距離を大きく取った。

 本質をわかりもせず『ほんとうの女性』……自分以外のすべての異性を神棚に上げ、虚構の美少女を追い求めてきた。誰かとわかり合おうともせずインターネットに20年を捧げてきた。

 だから「必要なのは理解することだった」「なってどうするのか? を考え、なった後のことについて学ぶことだった」……ということに、大いにうなずいたのだった。

(了)

参考文献

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