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色々あって投稿が滞っているので大学の課題で書いたレポートを転載します。

 俳優と役を結びつけているのは誰なのかということを考えた。
ある登場人物がいて、その人物のセリフとして書かれたテキストを俳優が読む。しかしその演じ方によって俳優と役のシンクロ率は大きく変化する。
観るもの全員が俳優の存在を忘れるような演技も、観るものが「この俳優は今、役としてセリフを読んでいるのだ(よな?)」とキャラクター像の補完を促されるような演技も、演劇には存在している。
またそのシンクロ率は一定ではない。ものすごく役に入り込んだ演技をする俳優も、あるシーンでは突然俳優の本人性が浮き上がったり、透けて見えてきたりすることもある。俳優と役の距離感が揺らぐことがあるというだけでなく、演技や演出や戯曲の構造によって意図的に揺らされることもある。
戯曲にはある種の支配力があり、俳優に選択できる演技(シンクロ率)の幅を最初から制限することもある。ある俳優が「老婆の『イ』の音が独特で、口をひしゃげるように発声してしまう。身体が役に引き寄せられる。そうならざるを得ない。」というようなことを話していたのが印象的だ。
不確定な要素はまだある。当然ながら観客の感受性は一定ではない。同じ俳優の演技を見た者でも、役とのシンクロ率の感じ方は人それぞれで、それは、一つは役に対するイメージが異なるからだろう。

演技において、これらの関係性―俳優と役の関係、俳優と戯曲の関係、観客と俳優の関係、観客と役の関係―のすべての次元で役と俳優のシンクロ率が定められ、揺らがされ、コントロールされている。このように考えるともはや、演技は俳優がどこまで役を獲得できるかの試みではなくなる。俳優を役と結びつける力は、俳優も、戯曲も、観客も持つことができる。演劇、演技はこの特殊な繊細さの「芸術」性によって可能性の開かれた表現として在るのではないだろうか。


 講義内で共有されている文脈を踏まえた上で書いている部分は多少加筆しました。改めて読むとなんてざっくばらんで伝わりにくい文章なんだと思いました。演劇のことを考えているのはすごく楽しかったり、悔しかったりします。

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