自分なんか居ても居なくても同じという受け入れがたい事実

俺がテキストを書き続ける理由は、幾つもあるがその中の一つとして「俺はこういう事を普段考えているんだ。君は知っておいてくれよな」という自己主張の様なものがある。
俺の書いているテキストに何の価値も無いのは重々承知しているが、でもこうしてパソコンに向かって文字を打つ事を止める事は出来ない。
誰かが俺の事をインターネット上にしか存在しないただの記号としてではなく、自分の意志や思考を持った一人の人間であるという事を認識してもらいたいという気持ちがあるのだ。

俺は冴えない男だ。人を惹きつける魅力を持たず、道に転がる石ころの様にただそこにあるだけの存在。突然居なくなっても誰も気には止めないだろう。

だからせめて、ここでは自分が人間であるということを主張していきたい。石ころではなく。

時々、自分が自ら命を絶ったその後の事を想像する。
両親や弟は泣いてくれるかもしれないが、片手で数える程しかいない友人と俺の顔を知っているだけの知り合いたちはどう反応するのだろうと考える。
ああ、あいつ死んでしまったのか。若いのに可哀想に。とか、そんなものだろうか。
生き死にで、他人の人生に影響を与えられる人間は元々魅力的な人間なのだ。生きている事を望まれているのだ。
だけど俺はどうなのだろうか。別に誰かに望まれているから生きているのだとか、そんな傲慢な考えをしている訳ではないが。
ただ時々思うのは、これだけぱっとしない人生は生きているのも死んでいるのも同じ事だろうなという事だ。
俺一人消えてしまった所で何がどうだというのだろう。
例えば、何処かの喫茶店で俺がいつも座っている椅子に、もう何ヶ月も俺は座っていなくて、店に来なくなって、その事に気付く人間なんて誰も居やしない。
自分という存在が、空気の様な透明感を有しているという事実が辛い。

誰かに覚えていてほしいんだ、誰かの心の中や頭の中に居場所が欲しいだなんて思うなんて気色悪いけれど。
そうでなければ、俺は本当にただ、その場にいて、ただ呼吸をして心臓を動かして、肉体は生きているけれど魂は死んでいる様な、そんな生ける屍の様な存在になってしまう気がする。

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