短編小説「おねしょた」

 たしか八歳か九歳のころだったと思う。父方のいなかに帰省していたころのことだ。今はもう家ごと売り払ったし、祖父も都内でくらしているので帰ることもない、いなかといってもえんもゆかりもなくなった場所の話だ。

 あちらの家はうちの分家だったとか、あの山は昔はうちのものだったとか、祖母の昔話のほとんどが昔の自慢話で幼心にも退屈だったのを覚えている。何かと理由をつけては抜け出して裏手の河原でとんぼだのカエルだの家のまわりでは珍しくなった生き物を探すことに熱中していた。近所に親戚らしい家はあってあいさつに行く程度だがどこもどこかよそよそしくて思い出せることもない。両親もあまり親戚付き合いの得意なほうでもなかったのだろう。同年代のいとこはとこのような存在もなく帰省といっても毎年本当に退屈なものだった。

 河原で父親の用意してくれた釣竿をほおりなげ、一人で虫をとっていた。釣りはどうにも魚の口が怖く、針を外すのが億劫で虫ばかり追い回していた。ふと、川面をみると、腹を上にした魚が一匹流れてきた。死んでいるのかな? と思って手で持ってみると、途端にゼンマイの壊れたおもちゃのように暴れだし、水面に飛び戻っていった。なんだったのだろうとあたりを見回すと、がちん… がちん… という音が川上から聞こえてくることに気が付いた。そう遠くはなさそうだと感じたので川面に向かって水の中をよたよたとさかのぼり始めた。

 川岸にあがってからあるけばよかったなと気が付いた時、川上に人影が見えてきた。大きな石を振りかぶっては川の急流に張り出した岩に向かってたたきつけていた。がちん! がちん! とすさまじい音がしてその振動が元にまで伝わってきた。目を移すと川に2本の棒がたっていてそこに網がかかっている。そこにはさっきのように腹を上に下魚が十数匹は浮いていただろうか? 魚をとる漁師さんだろうかとまた川面に目を移すと驚いて声を上げてしまった。

 漁師だと思っていた人は女性だった。しかもなぜか全裸のまま巨大な石をわきに抱えていた。早口にまくしたてられたが何を言ってるかわからない。恐怖に震えて口を魚のようにぱくぱくさせてると、なまりでききとりにくい言葉を再度言い直してくれた。
「おまえさんはさかなどろうぼうかなにかか?」
 まだ声が上手く出せない。首を力いっぱい左右に振るのが精いっぱいだった。
「んならなんだ? どこのがきだ あざは?」

 あざ、字といってこのあたりの苗字はみな同じなので家を区別する名があるというのは後になってしったことだ。震えながら祖父の家の方を指さすだけだ。

「辻ん所の子か? いや孫か? まあええわ、魚ならやらんぞ、どこぞへ行ね」

 ざぶざぶと川面を蹴ってこちらに近づいて来た。遠くから見ていた時は気が付かなかったが、一歩一歩とこちらに近寄るたびにその大きさに震え上がった。私も当時大きな方ではなかったが、それにしたってものすごい背丈の差だった。たぶん、私の背丈はへそに届くかくらい。目の前に立たれた時は大きな胸越しにぎらりと光る目より下の顔は見えなくなった。

 私はとにかく怖くなってその場を逃げ出したかったが、とっさに祖父の家を指さしたことを思い出して踏みとどまった。このまま逃げ出せば家まで来て祖父や両親に何かいうかもしれない。裸を覗かれたなどといわれたらと思うとどんなことになるか… 

「ごめんなさい… 悪気はなかったんです…」

勇気を振り絞って声を出すと、女性は首を傾げた。大柄の女性にしては妙に子供っぽいしぐさで、なんというか君の悪さを感じた。

「じゃあおまえさんは腹を上にして泳ぐ魚がめずらしかっただけけぇ?」

首を思い切り縦に振った。相手に同意するのが一番相手を刺激しないと思ったのだ。そうすると相手は突然凄い奇声を発した。奇声とか思えなかった。それが笑い声だとわかるまでは恐怖で立ちすくむしかなかった。

「カカカカカカ‼ 今のガキは魚がどう泳ぐかも知らんと聞いたことはあるがありゃほんとうけえ!」
どかんと石を投げ捨てると股をひらいたまま川底に腰かけた。何匹かの魚がそれが気付けになったのか、網から飛び出した。

「こりゃいかん。手伝わんか」

大柄の体をひらりと裏返すと今度は大きなお尻をこちらに向けたまま、大きな手で魚をつかんでは網に閉じ込めた。怖くてしりもちをついて座り込んだが、そうすると目の前の水にぬれたお尻が視界いっぱいに広がった。

「おんしゃ、名前は?」

お尻がしゃべったのかと勘違いしてしまう。お尻をむけたまま大女がこちらの名前を尋ねたのだと気が付くのにばくばく脈打つ心臓が何度鼓動を打っただろか? 大女は網の魚を一尾手に取り、ばしゃばしゃと川の流れに抗う大石にそれを打ち付けた。そして動かなくなった魚を頭からバリバリとかじりながらこう言った。

「おんしゃ、名っちゅうのは先に名乗るのがいちばんか、聞かれて名を名乗るなぞ、山の小鳥にも劣るわ。あーあー、せならわしから名をなのらんとあかんね。わしゃあ、尾根の川にすんどる妖怪、おねしょたじゃ」

それが私と妖怪おねしょたの出会いだった。

(続かない)


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