カラオケで歌詞間違えた時の雰囲気
カラオケはかなり社会的な要素を多くはらんでいるような気がする。
人生において初めて友達とカラオケに行ったときほど周りの評価を気にしたことはない。自分の音感がカラオケの音程バーだけでなく社会の音程ともずれているのではないかという不安に襲われたのを未だに覚えている。
人は中学2年あたりを境に、みんなで合唱するカラオケから、1人でカラオケを披露するスタイルに変化していく。これは思春期というものと自意識的なものの存在と大きく関与しているのではないかと思う。
この独唱スタイルにより歌が上手い人は異性からモテ、盛り上げる人はクラスのムードメーカーとなり、歌が下手な人は腫物のようにそっと扱われる。
つまり高校時代のカラオケは学校の縮図に直結するのだ。
そんなカラオケでは、しばしば事件が起こる。
それは歌中に歌詞を間違えるのだ。
1人でカラオケを披露するスタイルではこのミスにとにかく悩まされた。今も良く悩まされている。
間違え自体はよくあることだと思うししょうがないことだと思う。
一番と二番を間違えて覚えていたり、聴いている時に違う言葉だと思って覚えていたり。
ただ、この間違えの対処の仕方が本当に難しい。
大前提として歌詞の間違えをごまかすのは絶対に厳禁である。
なぜなら間違いを自ら認めたということを表明することになるからだ。
このごまかし行為は間違いの違和感をさらに拡大し、傷口を広げることになる。
対処法として1番良いのは、「間違えた!!」と正直に言い、へらへらできることである。これが一番楽であり、実は一番難しいのだ。自分の間違いを正直に白状できるのは本当にすごいことだ。上述のムードメーカーの人間はそういうのをしてもいいキャラとして受け入れられているように感じる。
しかし我々そこそこに盛り上げもせず、そこそこに歌が上手くない勢はそうはいかない。我々のような人間は、間違えを認めたくないのと現場の気まずい空気感の狭間で葛藤するのだ。それくらいとにかく自意識が高い。
こういうことを言うと決まって我々の自意識が高いだけの気にしすぎで、そもそもそんな間違い誰も気づいてないよという意見もある。
しかし、現場で他の人が間違えた時に思ったのだが、
「絶対に全員間違いに気づいている」
「にも関わらず誰も指摘しない」
この指摘しないのが逆に深刻さを増しているのじゃないかと思う。
とにかく最適な対処法が未だにつかめていない。
何も気にせずカラオケができるようになるにはあとどれだけの時間を要するのだろうか。