クライミング、かつクライミング

最近悪夢をよく見る。ここ10年くらい「睡眠時に夢を見ないひと」だったのに、今年にはいって頻度は増すわ半分は悪夢だわでびっくり!
体調のことも含めて、人生のステージが変わったんだろうな。去年までの人生は忘れて、一周目のつもりでいくのがいいと思う。
「前まではこうしてた〜」とか「これができなくなった〜」とか、新鮮さと古臭さのはんぺんだ。表裏一体をなしている、ということです。

自信とか無神経さとか推進力が、つまり無根拠に信じることができた健康という帳が除かれたように、ボロボロといろんなものが崩れていって「できないこと」がどんどん顔を出す。
この景色はすごいぞ。峨々たる山脈と谷間の連続。獣も逃げだす険しい風景。まだ手前のものが影になって見えないものがたくさんある。

できないこと、ではないが、信じるのをやめたこと、に「見え方」がある。
たとえばひとでも犬でも机でも「だいたいこんなもん」と想像する姿、範型を持っているけれども、それは「名前」と同じように、それそのものとはまるで異なる。イメージはそのものを説明できないのだ。
角度、拡大率、光線の加減で見え方はいかようにも変わる。「見た」ことや「見たと思ったこと」は、「映像を持った」ことにすぎず、そして意外にもそれは他人と共有できない。「言葉」も「記憶(経験)」も、それを道具にしたとたんにコミュニケーションは鎖される。

これはわたしが最近眼鏡を外して生活するようになったことと関係があるかもしれない。
眼鏡をやめて代わりにコンタクトをするようにした、とかではなく、ただただ見るのをやめた。見えないままで生活している。
案外に困らない。「見る」が必要になり、重要視されるのはほとんど「文字を見る」あるいは「記号を見る」ときだけだ。世界はもともとそんなにメッセージを発していない。

できないことといえば、わたしは「相手の立場に立って考える」ことがまるでできないな〜と思う。関係性というか関係項をそれ自体で考えることができない。
つまり、他人あるいはもののなかに、「自分に見えているのとは違う見え方」があると気づくことに難がある。それがあるのは知っていても、その次元に立つことはできない。この身のままで宇宙空間に立つことや蛇の胃袋に住まうことができないように。

だから、相関図や家系図を頭に入れて物語にはいっていくことが難しい。やれやれ。


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