海沿いの町の周縁で

※本稿は違国日記・おジャ魔女どれみについてのネタバレを含みます。それぞれに付す文章は私の個人的注解で、解釈を押し付けるものではありません。


はじめに

近年めっきり、「たたかい」のモチーフが嫌になってきた。
努力によって常識を超えた力を得て、主義主張の異なる者たちと戦い、勝利を目指す――物心得てより長く親しんできたはずのこういったフィクションを、いまとなっては、どのような視線で楽しんでいたのかと、我ながら訝しむ。
他でもなくそれは、現在の私がそうした力の強弱や垂直的な社会構造、勝利によって得られる称賛や名誉を求めて誰かをだしぬき、競争に巻き込んでゆく日々に、辟易としているからだろう。
私は戦いたくないし、努力もしたくない。

フィクションを得ることは最初から、わたしにとっての逃避行であった。その都度現実の自分から遠く離れた世界を目指して、もがくように物語を探してきた。
今日は、そんな現在のわたしが探しあてた、「違国日記」、「おジャ魔女どれみ」というふたつの希少な作品を取り上げる。

1.違国日記

違国日記は、中学卒業間近の少女―朝が両親を事故で失い、母親の実妹である槙生と共に暮らし始めるところに始まる。
槙生は社交や対人の諸々に強烈な苦手意識を抱く内向的な少女小説家で、部屋の掃除も最低限にしかしない(できない)。
几帳面で完璧主義だった彼女の姉のもとに育った朝にとっては、何もかもが異文化の旅行気分と言ってよい。槙生のもとでの、そんな”お互いにとって”新しい生活風景をゆるやかに綴った等身大の漫画である。

槙生にしてからがそうなのだが、この物語には既にしてある「人間の規定路線」、と言うようなものから、わずかにずれてしまった人物が多々登場する。
規定路線、つまりマジョリティの人々が歩んでき、その後をまた似たような人々が追いかけ、追いかけてき易いよう幾度なく舗装されてきた既往の道。
そしてその沿道や路傍にいるのは、「普通」に馴染めない、できない自分を苛み、或いは孤絶感に閉じ込められ、或いは受け入れ、或いは戦い、と言った人々。
この物語ではそうした路傍の人々を極端に疎外された「他者」として描かない。むしろ共に社会を営む隣人としてあらわれ、ふとした瞬間自己の痛みや違和感を開示する、親密さの一端として描く。彼は得体の知れない領域から突然現れるのではない。
そして、孤児となった朝の場合のように、自分が「普通」の側にいると、「普通」に社会に守られていると思えていた日常が、前触れなく急転する様をも描く。
学校や労働といった何気ない日常の風景の中、年齢も性別も様々な人物たちの「はずれ方」が実に多彩にわたることで、「普通」という言葉の存在が如何に曖昧で脆く、正体不明の何某かで、広く適用しにくいものなのか、その強固に見えた輪郭がほどけてゆく。
さらに実は誰もそれに守られてはいないのに、なぜ誰しもがそれを尊いものとしているのだろうかと、逆説的に解体しているように思う。

こうした人物達のヴァラエティーを生み出している、人間個々のあいだにある「差異」を違国日記はつきつめてゆく。私達を分け隔てるもの、それは我々人間の内側のこみいった襞や幕の内側にあり、そうそう見えてこない。見えないように、誰もがなんでもないような顔をして日々を送っている。
しかしその奥深くに控える絶壁によって、私達は二度と分かり合うことも相まみえることも叶わなくなってしまうかも知れない。
この根底にあるものへの取り扱い注意書きと言ったようなものを、この物語は再三に書き記している。

朝と槙生が共に暮らすことになった、まさにそのきっかけである朝の両親の事故の翌日、槙生が朝に

「あなたの感じ方はあなただけのもので誰にも責める権利はない」

と声を掛ける。
これは当座としては両親の死後間もなく呆然といて、気持ちの整理が追いついてこない朝へのフォローだったが、同時に槙生が念頭にしていたのは、朝が今後巻き込まれるであろう無神経な大人が彼女の意思を尊重しないシチュエーションであった。
後に、不慮のアクシデントで朝は学校から逃げ出す。
その頭のなかでもこのフレーズがリフレインしてくる。
言うなればこれは、依り所を失った未成年の少女を否応なしに取り込んでしまう「大人の都合」の渦から、彼女には自らの意思があり、誰にも侵害されることのない領域を持つ権利があると、人間存在に眠る自由の意識を目覚めさせ、掬い上げた魔法の言葉になったのだ。
自分の処遇や、時には感情すらも誰かの都合で簡単に左右されてしまう忘我のさ中にあって、朝は「あなただけのもの」という言葉を想起し、現在の記憶、経験を超越した"安全な"彼岸に思いを飛ばす。誰の意思も及ばせない自分の所有物が、どこか遠くにあるのだ、と、その「権利」を自覚する。

しかし、それは自分の中に持つものでありながら、朝は時に自分の感情に振り回され、突き動かされ、扱いを持て余すといったことが多々ある。そうした意味で、その感情、自由という権利は彼女本人が好きに扱える道具のようなものではなく、彼女自身がその中にいて、時に触れながら、時に途方に暮れながら、時に遠くに眺めながらその距離とを知ってゆく――実感と恐れとが綯い交ぜになった、まさに未知の「世界」、横の広がりを持つ領域として描かれている。

朝の成長を中心に据えたこの作品にとって、この言葉はひとつのスタート地点であるように思う。同時にこの言葉は、背中合わせに、この作品の根底をなす領域的なイメージによって支えられている。

朝が内省するとき、外的な刺激により衝動に駆られるとき、その独白のさ中(あるいは背後)には、「砂漠」のイメージが頻出する。

初出は3話。同居を始めたばかりの槙生との会話中で不意に「自分が父母を亡くしたばかりの子供」であることを思い出し「でもお父さんもお母さんももういない」とするモノローグの直後に、見渡す限りの砂原のまんなかで佇む彼女を水平視点で捉えた背景が登場する。
そうなった状態、「ぽつーん」という朝の感覚を槙生は「孤独」と表現し、以来、朝は何度も砂漠に立ち返る。自分が孤独の中にいることを自覚するのである。
しかし槙生から「孤独」という言葉を与えられても、朝にはそれがどんな意味をなしているのか、孤独であるということはどういうことなのかは、初めて知る感情のゆえに――わかりかねている。そのため彼女は砂漠に帰ってゆく……自分の居場所をよく知るために。自分の孤独を、自分で突き詰めてゆく。

その後、槙生に理解されずに、槙生を理解できずに、ある種互いに突き放された二度の状況の中で、朝の孤独は本質に近づく。

一度目。朝は悪い夢見から目覚めた後、友人の話をし、夕食をどうしようか聞きたかったのに、仕事に没頭していた槙生には無視されてしまう。
独りの夕食を食べ終えた後になって、ひと段落つけた槙生が何事もなかったかのように話しかけてきて、朝はその無神経に激昂する。
槙生にとっては突然怒鳴られたところで、八つ当たりでもされたのかと朝の心情には遠く思い及ばない。
が、ふと、自分が彼女くらいの年齢だった時代を思い出す。そして

あの頃わたしたちの 孤独はそれぞれ かたちが違っていて(中略)
わたしだけが と わたしたちの 多分 誰もが思っていた

ことに思いいたって、朝との距離を詰める。そこで彼女は、自分の一方的な非を陳謝するでもない、朝の機嫌を取ろうとするのでもなく、言葉をかける。

「あなたが わたしの息苦しさを理解しないのと同じように私もあなたの寂しさは理解できない
それは あなたとわたしが別の人間だから」

というものだった。

朝にしてみれば、もっと優しくしてくれれば救われるのに、嘘でもいいから甘やかしてくれればいいのに、という気持ちがある。しかしそれを槙生に求めることは、彼女にとって耐えがたい負担を強いることだった。
きちんと言葉にして説きあかされて、朝は行き場をなくした寂しさを、自分だけのものとして引き受けざるを得なくなる。その瞬間、彼女の中でまた槙生という存在もひとりの人間として立ち上がる。

わたしの感情が わたしだけのものであるように
彼女の感情も また 彼女だけのものだった

それぞれが孤独を持つ前提が、わたし達のそれぞれが独立した人間であることの証左になる。

二度目の体験。
どうやら仕事においてスランプに陥ってしまったらしい槙生は、部活へ行く朝を見送ってから一日中、家の中で苦闘を続ける。その結果として家の中は彼女の痕跡……つまりやりかけの家事や動かした資料の跡だらけという、「泥棒でも入った」ような様相になってしまう。
帰宅した朝はそこへ驚愕の視線でもって分け入り、犯人であるところの槙生に詰め寄る。
朝を育てた槙生の実姉、実里はマメで何事もソツなくこなす完璧主義。朝を育てた家庭も同じように常に清潔で神経の行き届いた様子だったらしい。
それを当然の風景として受け取っていた朝には、自分の家を散らかした上に片付けも苦手ときた大人なんて、にわかに認め難い存在である。
思わず、感情的になって親が子を叱りつけるような口調で「なんでこんなこともできないの!?」と槙生を咎める。

朝の側にしてみれば、槙生を責めたその言葉も反駁の謂れもない正しい指摘だったはずだ。それは彼女が「ふつう」を味方につけているから。
ふつう――常識的なこと。誰でもできること、とでもすればいいのか。もし、それができない誰かがいたのなら、それは「彼はふつうじゃないから」と切って捨ててしまえる、便利な言葉である。
だが「ふつうのことができない」槙生は朝の前で固まってしまう。彼女は回想する。幼年時代、青春時代、成人後、いつでも周囲がらくらくとこなしてきたものに自分だけが躓いて、挫けてきた記憶。生物としての前提が欠損している自分を責め、壁を作ってきた来歴の味。
普通のことを言ったつもりの朝は、年長で、かつ母の妹である槙生が自分の言葉に固まり、傷ついている様子を見てかえってたじろいでしまう。「ふつうでないこと」は矯正されるべきものではなかったのか? と。これまで築き上げた価値観にゆらぎが生まれた。

槙生の回想に対比するかのように、朝は級友との一幕を語りだす。容姿に優れ羨望の対象である女生徒に朝の友人がそれと告げると、彼女は人知れず悲しんでいた、という出来事だ。

槙生が傷つき、級友が傷ついたことその背景には、彼女達なりの過去の積み重ねがある。だが朝はそれを知ることができない。
だから、彼女には「わからない」。
どうしてそんなことで傷つくの? 優れていることはいいことで、劣っていることは改善すべきことで、それで済む話ではないの? 極めて平明な二極化した判断が働いているのが、お分かりだろう。だがこれも朝ただ一人が自分を極端な特質を持たざるもの――普通の人間だと定義しているからこそ、その両極をフラットに見ることができるはずだ、という思い込みによるものである。
とりわけ朝のように善良で単純な人物が言うときに分かるように、「普通そうである」と言うとき誰も自分の主義主張を、自分の意見として相手に押し付けたいわけではない。彼等はそれを特段意見とするべきほどのものだと思ってもいない。それは「みんなが思っているはず」のことだからだ。そして観測できる範囲で異を唱えるものがいなければ、それは常識に直結する。極めて自律的に意味を作り変えながら、そのくせ発話される際には常に注釈もなく間主観的にたち現れる「普通」の概念の厄介さがここにある。

しかし朝は思い至る。優れたこと、劣ったことも、それぞれのみが持つ味があるのかもしれないと。
ここでまた砂漠のイメージが呼び出される。

「わたしにさみしく
見えた彼女の
砂漠は
わたしには蜃気楼のように
まぼろしめいて遠かったが
本当は豊かで 潤い
そしてほんのときどきだけ
さみしいのかもしれなかった」

一度目の折衝で彼女にも確認できた槙生の砂漠。それは自分の気持ちを分かってもらえないという、共に暮す人物との心理的な距離を測った体験だった。
今度はそこに「豊かさ」という質のイメージが加わり、そして自分はその豊かさのもたらす潤いの感触も、味も、それらからなる槙生の人間的な組成も”決して”知り得ないという発見が伴う。彼女の”さみしさ”は自分の”さみしさ”とそもそもの質が違うものかもしれない、と。
見えているのに近寄れず、彼女は槙生とは、そして他の誰とも、その恩恵を分かち持つことはできないのだった。

絶望も幸福も決して誰かのと同じ味はしていない。誰のそれも直接触れて確かめることはできない――ここにはある種の環世界的な発想があるが、ここで槙生が「あなたがさびしがりやに生まれたように」と言っているのは重要である。
ここには朝の寂しさも、槙生のストレスも本人の意志では変えようがない生得的なもので、という意図がある。
まさか彼女は、感情や性質は個々人が誕生にいたるどこかの段階で決定されてしまい、のちの発達段階で影響を受けることはない、と自説を開陳するつもりではないだろう。彼女にとってはそうした個々の「違い」の原因や程度の差が問題なのではなくて、違いがあるということ、違っていることが先験的にあるものだ、ということだろう。
個々の人間の間にあるのは優劣に基づく能力の差ではなくて、本質的に組成を異にする世界観のパラレルな違いであり、誰も比較する術を持たない。その根本的な差異のゆえ、私達の「わかりあえなさ」は決定的に自明なものである。
ただ、その差異は時に人格的、あるいは身体的特質の形を取る生得的な場合があり、またそうであると判断される場合もある。その結果として人間集団にあると、やはり優劣の形で評定をくだされることもままあるだろう。
そのどこかの地点において、他者が他人を評して「それはあなたに生まれつきのものである」と言ってしまうとき、それは非常に暴力的であり、越権的なものになる恐れがある。
そのように、他者の特質を多様性として肯定する身振りも時に、その誰かの個別性を否定してしまいかねない、その判断には厳密な慎重さが必要である。

槙生は恐らく、幾度なく直面してきた自分の「できなさ」をある種の諦念と共に引き受け、開き直っているがゆえにこうした表現をして話すのだろう。
しかしわかりあえないこと、個々人は当人以外の誰からも疎外されていることは、悲観的に捉えるべきことなのだろうか?

ひとつの地理であり環境である砂漠は、これまでにありとあらゆる文脈で比喩として採られてきた。ゆえに、そのどれかと重ね合わせることも困難であるが、ここでは茫漠とした広大な領域と、人が住めない厳しい環境である、ということから発想されているように思える。加えて現実の地理に対応した砂漠ではなくて、個々人の心理的な領域を表した仮想の土地である。

言わば目に見える世界ではなく見えない世界――そこでは人間それぞれが孤独であり、領域を接するものとは分かり合えない、ということは繰り返し見てきた。この世界はそれでも、朝の現実の体験を反映するように、彼女の精神的な成長に従った少しずつの変化がある。
そのように、朝がその砂漠に飲み込まれずにいて、かえって見聞きし、考えたことをもって植物に水をやるかのように「砂漠」という場所を知ってゆく様を描いてゆくことこそが、一つの希望なのである。

槙生は朝を砂漠に取り残すことはなく、遊ばせているのだ。必要以上に近寄ってこないことを望んでいるが、それでも目の届かない範囲まで引っ込んでしまうことはなく、少し離れて見守っている。

朝が学校をサボったときは、知人をかき集めて連れ戻しに行った。その後は一方的に叱りつけることなく、理由を厳しく追究することもなかった。朝はそうして欲しかったのかも知れないが、槙生は絶対にそれをしないのだった。
槙生は朝に直接の答を与えない。彼女はそもそも、自分が朝を作り変えてしまうことに極度に慎重だ。「人道に悖らない限りは〜」とだけ前置いて、他に社会の良識や規範を説くこともしない。
その代わり、朝が語り始めるのを待っているよ、というポーズを取る。
そうすると朝は、粉飾した言葉から解き放たれて、砂漠の中で見つけた自分の言葉を紡いでゆくことができる。
何も与えず、してもらおうとも求めずにそこにあること。砂漠の境界を接する者として、本当に困ったときは声を掛けて、とする、その絶妙な距離感。何の意図も力もこめられていない、そっと肩を叩くような繊細な手つき――人間が共にある中で必須の、真に迫った穏やかさとも言うべき極限の地平がここにはある。

槙生と朝がそうしたように、ひととひとはお互いのわかりあえなさを、切ない痛みをもって確かめ打ち明けることで、相手を砂漠の地平線の限りに遠ざける。それは自分の不案内さという牙で傷つけないようにするための「リスペクト」――尊重の意思だ。
そのうえで共に生きていく(それは共通の利害に則った場合もあれば、愛着・憧憬・奉仕などといった切迫に駆られての場合もある)ためには、「歩み寄る」ことが不可欠である。
領土を侵さない―侵されないための約束。
理解してもらいたい―してもらいたくないことを伝えるきっかけ。
お互いがどんな形になってしまっても、どんなに遠く離れてしまっても見つけられるために、ふたりの間に打ち立てる記念碑。
そういった――、互いの領域の形を確かめ合う慎重なコミュニケーションを関係性の一番の基底に置くことだ。それは個人的な思惑や利害をまずは覆い隠して、はじめにあるものでなければならない。一人は一人の孤独を温めてゆくままで、結局は一人では生きてはいけないと誰かを探して出会ったものたちが、何度でも帰りまた歩き始めるために。
この物語ではそうした約束が年上の槙生から

まず対話することを 忘れないで

と、誠実な言葉で伝えられることが何よりも美しいと思う。

少し横道にそれるが、槙生はやはり朝に影響を与えることを恐れているのだと思う。難しい言葉を使う中では「覚えなくてもいい」という注釈を過剰に繰り返し、また自分が朝にとっての何であるかという現在の状況にも留保を置いている。
それは朝に対しても、そして朝を育てるバトンを手渡された彼女の姉に対してものリスペクトの素振りであろうし、また彼女の小説家という職業にも由来するだろう。
朝のような十代を読者に想定した少女小説家である槙生は、感性の柔い読者達に対して、自分の言葉や物語が影響を与えていることに常に自覚的で、責任すら感じている。であれば、フィクションという取り返しのつく、自浄作用のあるものを介さない現実の生活や生身の自分を朝にさらけ出すことは、甚だしいプレッシャーを伴うであろうことは察しが付く。
けれども槙生の意図に反して、朝は日々着実に、様々なことを槙生から吸収してゆく。
槙生の何気なく掛けた言葉から日記をつけ始めたり、日常会話においても朝のボキャブラリーになかった語彙を連発する槙生を見て、彼女は辞書を引いてノートに書きつけ、留め置こうとする。
そのノートに書きつけられる言葉は文字通り朝の知らなかった言葉であり、砂漠の世界を新しく拓いてゆく端緒となる。
これは他人同士が親密な生活を送る中に否応なく生成される境界の混じり合い、両者ともに作り変えられてゆくという、交流の場で起こりうる現象だが、同時に、実母のもとから朝を切断してゆく、自分で考えて世界を知ってゆく一人の人間へと旅立たせてゆく契機と言う形で、紛れもない「大人」の理想的なあり方を、象徴している。

最初は不慮に飛ばされてきて、旅行気分で違国=槙生の生活を見ていた朝の世界が、着実に自立した世界に塗り替わっていく様を描くのが、この物語なのだ。親愛と信頼からなる癒着によって、融和した母との閉じた、ある種の呪縛的な世界から人間はいつか離れ、言葉の世界――それは時に自分に固有の世界であり、時には他者の存在を許容した世界――へと、絶え間ない旅を始めてゆくのである。

こうしたゼロから始める関係性――、槙生と朝にしてからがそうだが、友人間、かつての恋人間、親族間で新たに出会い(直し)、繋がってゆく関係性が描かれてゆく。そのうえで結実するのは必然的に既往の形式的な、つまりあまねくある現行の、旧来の価値観を踏襲した家族観や男女観から逃れたオルタナティブである。
多くの人間と交わることを避け、実姉や実母とも疎遠になった槙生はマンションを購入し独り暮らしをしているし、エリートコースを着実に歩んでいく「男性性」を押し付けてくる実父を毛嫌いしている笠町とは同じく独居の状態で恋人関係にあった。
槙生の友人であるコトコは恋愛しないことを公言し、もつは離婚歴がある。彼女らはみんな、パートナーがいなくとも一人で生きて友人たちとたまに会う生活を純粋に楽しんでいる様が描かれる。

既存社会の価値観では男性は働いて、女性は家事・育児に徹することで役割を分担し、「家庭」を守ることを第一に置いていた。
そしてそれに忠実に徹する存在、つまり成果を上げて利益を伸ばし、社会に貢献している男性の元で、その利益を享受して資産を蓄え、洒脱かつ能率的に振る舞う妻と、高度な教育を受け最高学府に進学し、同時に未来のパートナーを見つけられる子供たちこそが偉く、立派だとされてきた。
現在の国家の人口、年齢分布や経済状況、就労・進学状況では全員がそれを保持することが実質的に不可能な一方で、社会制度や同調圧力がそれを奨励し続け、個々人の人生設計や価値判断は抑圧を受けてきた。

そこにおいてしかし、或いはそれだからこそ、「違国日記」ではそれに抗するように、そこから降りた登場人物達はなお快活で人間らしく、どこか時間の止まったような、開放的で明るい世界の中に暮らしている。
それはまさに彼らが、誰かが誰かを支配することなしに、個々で独立し尊重し合う、孤独に端を緒する紐帯で繋がる「横の社会」に住んでいるからだろう。
それが輝くのはきっと、まだそこに行けない私の憧れがそう見せているだけなのだ。


2.おジャ魔女どれみ

おジャ魔女どれみは前世紀末から今世紀初頭の4年間に渡って放映された、東映アニメーションオリジナルの小児向けTVアニメシリーズで、いまの30代前半から20代半ばの成人には馴染みが深い作品だろう。
平凡な小学3年生の少女・春風どれみがある日偶然出会ったマジョリカが人間とは違う生き物――魔女だと見破ってしまったことから、自らも魔女見習いになり魔法の力を手にする。
小学生ならではの日常に起きるささいな、しかし当人たちにとっては切実な出来事を、魔法の力で仲間とともに解決してゆく筋書きを持つ。

基本的に1話完結の短い物語の中で起きるのは、先述のように他愛なく平凡な出来事だ。
仕事で参観会に来られない友達の父親の姿を、なんとか友達に見せてあげようとしたり、嘘が発端で仲違いしてしまったクラスメイト同士の仲直りのきっかけを作ってあげたり、背が高く物怖じしない性格ゆえに少女らしい格好に憧れている友人に、ワンピースを見繕ってあげたりと……、舞台がどれみの住む街の中にほぼ限定され、登場する人物も彼女の小学生としての交友範囲に絞られており、その中心にいる彼女の目線から描かれることに、この作品の大きな特色がある。
魔法という超自然的な力も、日常を大きく変革する「手段」でもなければ、敵対する存在を打ち負かす「力」でもない。あくまで「誰かのために」、顔見知りの、どれみたちが直接にその悩みに向き合う様を見て何かしてあげたい、と思った「願い」を補佐する役割という、ファンタジーの絵筆に留まる。

魔法を自分だけのために繰り返し使い、どれみ達を困らせていた瀬川おんぷが終盤に自分を犠牲にしてどれみたちを助け、またどれみ達によって助けられたことで改心し、仲間になったことで第1シリーズ(無印)は終わり、魔女界で生まれた魔女の赤ん坊「ハナちゃん」を彼女達が人間界で育てる使命を告げられることから、第2シリーズ「♯」ははじまる。

ハナちゃんは魔女といっても人間と同じ生理現象、生活サイクルを持ち、赤ん坊としての発達もまた人間に倣う。当然生後まもない彼女の養育は多忙と困難を極める。尽きることを知らない赤ん坊の活力に振り回され、時に意見の衝突を繰り返し、それでも協力し合って小学生の魔女見習い4人はハナちゃんを全員の「子ども」として育て、成長を見守る。

どれみを始め、魔女見習い達がハナちゃんに注ぐ眼差しは常に愛情深く慈しみに溢れ、赤ん坊の健やかな発展を願う混じりけのない、育児を担う親としてはまさに理想的なものだ。
ここになんの留保や条件も、あるいはネガティブな感情も描かれていないことが、やはりこれは小児向けのフィクションであると、成人した視聴者である私としては一歩引いて見てしまう。
本来であれば他人の(のみならず魔女の)赤ん坊に対して直ぐにそうした母親らしい役割を構築できるかは怪しいものだし、あるいは子供らしい無責任さや気まぐれさがあってもよさそうなものだ。
また、アニメシリーズを通して、玩具メーカーとのタイアップありきの作品構成が見られることにも、女児を対象にした教化的な要素(レジスターや商品陳列といったお店屋さん遊び、製菓用品はパティシエ、手芸用品は長く女性の仕事とされてきた紡織に関連する)が強く出ていることを念頭に置くべきだろう。
つまりいずれ視聴者がそうなるであろう母親像を擬似的に体験させることを、♯は企図している。
テレビ放送という巨大メディアに乗った商業作品がターゲットを広汎に設定し、わかりやすいコンセプトをもとに視聴者との強い結びつきを得るそうしたマーケティングを採ることは、なんの問題もない。ただ一方で、ここで強調される母親像には厳しい注意が必要である。
ハナちゃんを育てることになり早速、初めての赤ん坊の世話に行き詰まったどれみが自分の母親に助けを求めるシーンがある。幾つもの複雑な手順を手際よく同時にこなす様に、子育ての経験者としての母親をどれみ達は素直な憧憬を持って眺める。そして母は、どれみを育てることを通じて自分も救われ、彼女の母であることが喜びであり、幸福であったと告げる。
この心象の吐露がどれみの母親の来歴に由来する、パーソナルなものであると読み取ることは難しくないが、こうしたさりげない描写が、全ての子どもは望まれて生まれ、その養育を通じて女性は母親になり、それを見守ることこそ母親の幸せである、というある種の母性神話と読み替えられる恐れはある。
この非常に広く根付いた思想はそうなり得なかった母子関係・家庭環境を疎外してしまう恐れがあり、また育児は母親が一身にその心理的、実務的に負うべきとするのは、社会的なイデオロギーが要請する限定的なものだと、本来であればこの思想を相対化しての視聴を促す注釈も必要であろう。

とは言え、ここで描かれる母子関係も(献身と愛情を惜しみなく注ぐような)、常に一方的なものではない。
ある種の可逆的な効果がそこにはあって、私としてはむしろそうした固定的な母性神話を背景に、それを超えてくるような人間関係をここから見てみたい。

♯で描かれるのは、ハナちゃんの育児にまつわる大小の出来事だけではない。
おジャ魔女どれみシリーズの本旨とも言うべき魔法が介在する日常ものといった回もかなりあって、先述のようにクラスメイトや家族の間での事件を魔法で解決してゆくのだが、この♯は仲間内での諍いを扱ったものが不思議に多い。

どれみとはづき、あいことおんぷが些細なことから不和に陥り、周囲の助力を得て仲直りする形だが、仲直りのきっかけとなるのは、魔法が相手の心象を覗き見させたり、過去の思い出を想起させたりしたことだった。
ここで教えられるのは、喧嘩のさ中においては自分のことしか見えていなかった人物が、相手の立場に直接に触れ得る、特別な地点に立って見たときにそれまで気付けなかったものに気づいた、そうした発見が改めて二人の仲を取り持つこの形式である。
視覚優位に物語が展開するアニメにおいては、魔法によって主人公たちが透視的に体験する、常識的な力を超えた視点をうっかり作品内の現実として処理してしまいそうになるが、これは「他者への想像力」の比喩と見てよいだろう。
彼女たちは自己の葛藤や常識的な判断を乗り越えて相手が本当はどう思っていたか? 、喧嘩の原因はなんだったか? と探るなかで、相手を慮る視線が欠けていたことに気付く、その時彼女は既に「誰かの」存在を取り込んだ人間として、一歩成長しているのだ。

このような、相手を対象化した上できちんと関係の修復を図る過程は友人間に留まらず、親子間でも有効であると実践される様が何度も描かれる。
アイドルとしてステップアップを望む自分を、母親から説明もなく一方的に押さえつけられてしまう瀬川おんぷ。習い事を勝手に始めさせる母親に怒り、うんざりしているものの、彼女がそうするのは自分への溺愛ゆえだとわかっているからこそ何も言えない藤原はづき。ピアノを教えてもらいたいのに、姉であるどれみの一件から母親に言い出せない春風ぽっぷ。彼女らはみんな自分の存在形成に――また生活上の決定権を持つ存在として――、一番の影響力を持つ母親の下で、それぞれに自分の意思を理解してほしいと、あがいている。
この時彼女らはまたも魔法の力を借り、あるいは周囲からの応援や助言を得て関係修復を図るのだが、この過程にはハナちゃんの存在が大きな役割を持っていると見える。

彼女らは既にいたいけで儚い赤ん坊という存在に接して責任や自分の時間や行動が他者に左右され得ることを学び、少女としての自分が、同時に母親でもあることに気づいていた。そして今まで一方的であった親→子という関係性が、「親もまたかつての少女であり、一人の人間であった」気づきによって反転するのである。
絶対的な存在であった親が、また夢も理想もあり、そこに届かない現実との間で悩める存在であった過去を受け止める。彼女たちの水平的に広がっていた世界が、言わば世界の基礎を作る親の側から裏返しに見られるような、急激で根本的な価値観の発展によって、彼女らの世界観は立体性を帯びる。
そして今度は、親を「理解してあげる」――これはほとんど「許し」の構造だが――側に彼女達が立つことになる。その上で踏み出す関係修復のドラスティックな一歩は非常に大きな一歩のために、改めて築かれる家族の形……仲直りの帰結は、それぞれの母子ごとに大きく異なる。
家族の形を作り直したのが、ただ守られる側であった少女の成長がもたらしたものだった。かつてレフ・トルストイは幸福な家族の形はどれも似通っていると言ったが、それは彼の見た特権階級に属した貴族的家庭像がそうだったからなのであって、現代に生きる市民が独力で築いてゆく家族の形はやはりそれぞれに異なってゆきながら、幸福の形を模索するのだ。
そして、一般的にはもっと年を重ねた段階に訪れるこの大きな飛躍が、彼女たち小学生の時間に訪れるという言わばいびつな構造によって、作品はさらなるラジカルな表現へと突き進んでゆく。

おジャ魔女どれみのオリジナルな世界観である「魔女界」において、呪いの概念を導入し非常に大きな影響を与えている「先々代の女王様」という存在がいる。
マジョリカがマジョガエルという異形に化せられたのも、魔女が人間と交流を持った戒めとして発動した彼女の呪いだった。4年に渡るおジャ魔女どれみテレビシリーズは、大局的にはこの人間に対して強い憎しみを抱く先々代の女王様を相手に魔女と人間の間の不和を取り除くことを目している。
♯終盤、ハナちゃんがその女王様の怒りを買い、生命の危機に瀕する呪いを与えられてしまう。魔女見習いの4人は呪いを解くため、命懸けで先々代の女王様の元へ赴く。

暗い森の中で彼女たちを待ち受けていたのは、彼女たちを惑わす幸福な幻である。
藤原はづきの前には自分と趣味を同じくする母親が自分のために洋服を選んでくれ、妹尾あいこの前では父母が和解し、3人で暮らそうと提案してくれ、瀬川おんぷの前には単身赴任で一年に一度ほどしか会えない父親が、どれみの前には階下で夕食の仕度をしている家族が、自分を呼び掛けている何気ない日常が。
彼女らそれぞれがこうした無条件に訪れる優しい日常にいて、そして希求していたことは作品全体を通じて繰り返されてきただけに、死地においてこれが甘い誘惑として改めて描かれる惨たらしさは計り知れない。
しかし4人ともが「ハナちゃんを救うためにはここで立ち止まっているわけにはいかない」とその幻をはねのける。
ここでの彼女たちのセリフのどれもが印象的であるが、取り分けあいこの

「おとうちゃんとおかあちゃんが仲直りしたんやったら、あたしもう心残りない」

と、おんぷの

「パパ、ごめんね。あたしもうパパやママに会うことができないかもしれないの」

のふたつは、現世の未練を断ち切った別れの言葉として目を瞠るものがある。
強大かつ無慈悲な先々代の女王様の領土に踏み入ることを決めた時点で、彼女達は命の危険があること、戻ってこられない可能性が高いことは年嵩の魔女から再三忠告されていた。
それを引き受けてなおハナちゃんの呪いを解く、と決めた地点に彼女たちはいるわけだが、その決意と引き換えに自分を待つ家族との別れをあえてする――もはや生きて帰ってくる望みなど捨て去ったかのように、文字通り決死の存在として自らを塗り替える。小児向けの中でも戦いをモチーフに組み込み、生死を懸ける瞬間を描く作品は多々あるだろうが、誰かを救うために命を捨てる、その無償の奉仕において死のうとする少女を描くこのショッキングな様は、そうあるものではないように思う。

そもそもにしてこの甘い幻想は何だったのか? と問う、入念な読解が必要に思う。女王様が仕掛けていた、彼女達を足止めして引き返させる「罠」であった可能性も捨てがたいが、その発動した突然さや前後に女王様の意思をうかがわせる描写がないことからして、死地に赴く心理が見せた走馬灯、そして永訣を告げ、過去を絶ち切るための猶予として……それぞれが自発的に見た「幻覚」だったようにも、思う。

この擬似的な死のモチーフは、ハナちゃんを救うことと背中合わせにある。表現を替えれば、ハナちゃんの人生に自分の人生を賭けている、とでもなろうか。
この幻が女王様の森に入った直後、つまり生死を分ける瞬間の遥か序奏の段階で、彼女達は既に決断と決別とを済ませていたことを考えると、正確には賭け終えていた――つまりハナちゃんと送った優しい子育ての日々のどこかで、ハナちゃんの為なら自分を犠牲にできる、と程度の差はあれ決めていた瞬間が、実際にあったのかも知れない。

その決断に至る過程で何が起こっていたのか。そしてその後には何が起きたのだろうか。

ハナちゃんを助ける唯一の手段に手を掛けた、女王様の試練の真っただ中においてどれみは、ハナちゃんへ「わたしをママにしてくれてありがとう」と漏らす。
恐らくここで言う「ママになる」という言葉は、愛情を含めたケア全般を担う子育ての主体である母、つまり既往の家庭観の中で繰り返されてきたイメージである「母という役割」になった――という意味ではない。
むろん、どれみは♯を通じてハナちゃんに対してそうした役割を引き受け、そうしたママであることを第一優先に行動し続けてきたのだが。
ここで再び確認しておきたいのはハナちゃんがどれみ達とは一切の血族関係になく、そもそも魔女は誕生に親を必要としないという設定である。どれみ達がハナちゃんを「娘」と言うとき、そこからは自ずと従来の、少なくともどれみが自分の母とそうであるような血縁上の親子関係とは違う意味が表れてくる。
その上でどれみが考える「ママになった」ことの意味は、先の親子間の諍いのくだりでも触れたような、「それまでの自らを超えた自分」になれた、ということになろう。既に彼女は子ではなく、少女でもなく、新しいアイデンティティーを得た後だった。そしてそれはハナちゃんから与えられた――先の膨大な子育ての過程を通じて得られた自意識に他ならない。
妹の世話や例えば小動物をペットとして飼うような「家族」の責任の範疇の外で生まれる、慈しみとかけがえの効かなさ。
そしてまだ自意識の概念を持たない新生児からは、養育者に思いを返すことができないゆえに意思の疎通はなく、お互いを思い合う友人同士の交流ともそれは異なる。
それでも相手が恵まれた未来を享受することを願って、一つ一つ人間が備えるべき基本的なことを教えてゆく――それらは、自分が母親から与えられたことを改めて確かめてゆく、学び直しの過程である。この中で彼女は不可避的に、自分という存在を改めて確認するのである。
この過程を経て再び向かい合うことになる他者――ハナちゃんは、自分の世界の外から来た何か、同時にそれまでの自分と、新しい自分を映し出している鏡である。その意味からハナちゃんとの出会いは、どれみの人生史上、過去とも未来からも切り離された最大の一事件となる。
あいことおんぷが揃って家族との別れを強調し、またはづきとどれみを含めた全員がもう戻ってこられない危険をあえて引き受けたきっかけが、ここにある。
まったくの未知の世界を切り拓いてくれたハナちゃんへの返礼として彼女達は我が身を捧げる。それ以上に、捧げきることができなければ、真にハナちゃんがやってきた世界――他者の中に自らがあり、また自分がそこに映る自分ではなく、母―娘になれる無辜の極点とも言うべき世界――の方には、行けないのである。

この強烈な世界像の革新。過去も未来も捨て去った上で結ばれる人間同士の繋がり。おジャ魔女どれみ♯は、この計り知れないダイナミズムを描いたという点によって、傑作と呼びうる。
そして、生まれ直したのは彼女達のみに留まらない。この後に生まれてくる世界もまた新しい様相を呈するはずである。
結果として先々代の女王様の呪いにあてられたどれみ含めた魔女見習い達は、ハナちゃんの強大な魔力によって一命を取り留めるのだが、こうしたハッピーエンドがもしなくても、ハナちゃんだけが救われ、生き延びてゆく未来の中で、世界はまた変わってゆくはずだ。
4人の母親の時間を身の内に宿しながら生きてゆくハナちゃんは今後、彼女達の愛情と切り離せない生涯を送るであろうし、また呪いをハナちゃんの生と引き換えに被った母親達を見届けた魔女界、並びに現実の世界は、その記憶を留め置くだろう。それがあった世界となかった世界では根本的に、何かが違っているはずなのだ。
そこに名残る記憶こそ、この♯最終話で繰り返し語られてきた「無償の愛」が結ぶ形なのである。

どれみ達が自分達をハナちゃんの「ママ」であり、ハナちゃんを「娘」と言う時、繰り返しになるがそこには血の繋がりや出産という経験がない。
その上で以上のような母―娘関係、或いは母親観が描かれることは、彼女達のケースが極めて低年齢向けアニメとして簡略化し、都合よく描かれたフィクションであり、現実の子育ての苦労を反映していないことを差し引いても、或いはそれだからこそ、ここにフィクションなりの、新しい母親観、または家族観を提示しているように思う。
つづめて言えば、先の親子の関係修復の項と同様、おジャ魔女どれみ♯が描いているのは、親―子関係の解体である。
結局はそれぞれの少女達は元の家庭に帰り、ハナちゃんとは晴れて母娘関係になれたとしても、それは既往の家庭観、親子観の再生産、或いは強化ではなくて、むしろ弱い者から与えられることがあることを強調したオルタナティブの再構築である。
どれみ達の場合であれば誰でもが「母」になれること、その「母」の再構築という形で、ある種誰でもが母になりうるだろうことを予見した、二重の表現でもあろう。(ここで父親が出てこないことには注意が必要であるが。)

あくまでどれみに代表されるような、平凡な小学生の日常をベースに置いているおジャ魔女どれみの世界観において、例えば家庭、学校と言ったような既往の上下構造を前提にした舞台装置は不可避的なものである。
しかしここでは、ある種そういった構造を内側から作り変えてゆくような物語を、短い物語の畳み掛けの中に見出すべきであろう。
広く知られた無印のOP曲「おジャ魔女カーニバル」の中で

テストは3点笑顔は満点

という一節がある。
これとても、ことさらに反学校、教育装置を目したものではない。
ただ、特に有用性もなく、実質的な利益も生み出さない「笑顔」というモチーフが、ここではテスト――つまり能力の数値化、優劣化によって他者に評価を下されるための実社会の指標よりも対立して、まして優越することでどれみのいる日常といった世界が友人や家族との親愛に満ちた交流それによってこそ円滑に回っている、という、社会という強固な世界観を溶解させてゆく、この世界での「魔法」を比喩的に表すものだろう。

そもそもにして、魔法少女ものの系譜に位置を占める「おジャ魔女どれみ」の物語としての発端は、どれみがマジョリカに掛かっているマジョガエルの呪いを解くために、魔法の力を手にすることにある。
それ以前、或いは同時期の魔法少女ものでも、およそ平凡な少女があるきっかけから魔法の力を手に入れるケースが多い。その形式によくあるように、正体不明の存在が目的のために少女を使役する形で力を授け、敵対する集団や組織と戦うために魔法を使う、というケースが、「おジャ魔女」にはないのである。
マジョリカは自分を元の姿に戻すためにどれみを魔女にする必要があり、どれみは思い通りにいかない日常を改変するために、超自然的な力を求めていた。ここに2人の利害が合致する形で、物語が始まる。そこには一方的に力を与えるものと与えられるもの、という上下の構造がなく、なんらの「契約」もなかった。
強いて言うならマジョリカを縛る先々代の女王様の呪い――それは魔女界においては不問の規律であった――に立ち向かうための共助関係である。
この「呪い」そのものが非常に象徴的で、言わば人間という異なる存在の前で正体を晒した隙のある者に対して発動する、落伍者の烙印であり、以後二度と魔女界において従前の力を振るうことができないばかりか、落伍した者達が集められる集落に閉じ込められることになる、実質的な社会的な追放処分である。
しかし、その姿を見破ったものが成長し、魔女となった暁に魔法をかけることによってのみ、元の姿に戻ることができる。
言い換えれば、加齢や疾病、欠損から存在資格を失ったものが、新しく来た若い者の尽力によって再び「元の自分」に戻る。その時社会は失われていた年長者の力を取り戻すと同時に、新しい若い者まで取り込んでいて、再び活性化し秩序は保たれる。
こうした呪いを前提にした秩序が維持されてしまうことは問題があり、実際おジャ魔女どれみのシリーズ終盤によって解体されるのであるが、このシステム自体が、若く秩序の外からきた新しい者と、力を持ちしかし落伍した年長者の協力関係を前提にしており、非常に寛容な社会設計であり、どこか理想的な新陳代謝を目しているところがある。
そしてこの内側から新陳代謝を促してゆく構造は、おジャ魔女どれみの世界観全般に渡っている。


既存社会や母子関係といった強固に構造化された枠組みの中で、与えられた役割以上の存在になりえなかった他者同士が、日常における温かく繊細で、時にダイナミズムを伴う真率な交流によって関係性以前のところから、人間関係を始めることができる。そして清新な共同体の輪が広がってゆく――平凡な少女達が空想する、ささやかで他愛のない「魔法」が、そうした小さな奇跡を巻き起こしてゆくのだ。


終わりに

私達が手を取り合い、繋がる瞬間の中に、テーゼや主義主張は必須のものではないのだ。
それはフォロワーを生み、拡散してゆき、いつしか上下関係を作ってしまう。
あくまでクローズドな関係性に暮らし、水脈を引くようにちいさな約束を見つけてゆき、他の誰にもわからない言葉を交わすこと。それだけが、私達の強度を作るだろう。
それは物語ではなく、粛々と唱えられる訓示でもない。ただ神話として、私達の世界のなりゆきを語り始めてくれる。
その内部で正義も悪も形を変えてゆき、また私達もその度に、違う誰かになれる――旅が終わることなく、新しい景色を拓いてゆくのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?