冬にたまにある暖かい雨の日

温かな雨の一日だった。

コンビニの前に溜まる銀杏の葉

しとどに濡れた路面を埋めるほどに落ちた銀杏の葉が貼りついて暗い夜の道とコントラストを作っていた。風の強い日でもあったから、吹き溜まっていたと言ってよい。木一本分の葉が散り敷いていたように思うが、路面に目を奪われて木そのものは見ていない。それに雨でもあったから。

一斉に落ちたわけではないはずで、雨に打たれた、あるいは風に吹かれた先からすこしずつ、一枚一枚散っていったのだろうが、こうして溜まっているのを見ると前後の区別はつかない。ほんらいであれば風に舞い遠くへ運ばれていったものもあろうが、雨によって貼り付けにされてこうなったのだと思うとなおのこと感慨がある。雨の一日を締めくくる流麗な絵である。

消息を語り始めるのに季節の話題を先ず持ちだすは常套手段である。公私問わず手紙の語り起こしがそうで、また式典の定型的な挨拶もそうだろう。日常の場面においても出会い頭や世間話に漏れなく用いられる。
これは挨拶の受け手と共通の話題をもって距離感を縮める、いわば親しみの場を設けることにあるのだろうし、また本邦では風流の趣味もあるのだろう。天候・天文の話題ほど貴賤問わず通じる懐の広い種もない。そのうえ季節は刻一刻と移り変わるものであるから、なおさら同じい場を共にしている共感は高まる。

わたしはこうした閑雅な話題が好きで、むしろその後の本題だとか近況だとかにはいっかな興味が持てないので天候やら風向きやら季節の植物の話だけしていられたらいいと思うのだけども、巷間に生きていればなにかと息を切って立ち入らねばならない語るべき話題と言うのも常にあり、直截に本題に入りたがるのが世間人の都合らしい。

話が逸れたが、先には季節の話題からはじめることの、まあ一般的な効用をあげたつもりである。そこで、わたしはもう一歩踏み込んでみることもできるように思う。
語るに際して当節の季節に触れることは、相手にあたっては否でもその日・その時のようである世界におけることを思わされる。それは循環し何度も経めぐる地点としての世界である。季節というのは世界認識の方法であって、特に中国大陸から影響を受けた日本文化においては細分化された円環という極めて図式的な処理下にある。そのなかでの客観的状況つまり現在時点の自分の位置――俯瞰的、巨視的な把握というのとは違って、全体と部分を両の目で同時に見つめる視点を得て――を把握する。
つまりひとつの季節を取り上げることはその前後への言及も内に含んで、やがては円環の総体に繋がる世界全体への示唆なのであるが、他方では季節とは「移り変わる」ものである。
当節の季節への言及は、”やがてなにもなくなる”予知予見であり、それはいまこの時にしかないものであり同時に風前の塵のように既に散逸することが確定された比喩のようなものでもある。
ここに、あらかじめ季節を先頭に置くことの意味があって、季節の話をすれば次に話すことは「やがて来るもの」のことしかないが、仲春の話が切れて晩春の話を持ち出すのは野暮にすぎる。季節は一度絶えて、次に繋ぐには生まれ直さなければならないから、言わばわれわれが立つのは季節と季節とあいだの空白期間、そこにはじめて人間的な空間が生じる。
そこでわれわれは本題の、人間中心の話をするのである。すべては、やがて消去されあとに空白の場を残すための充溢した高まりとしての季節の話だったわけだ。

俳諧連歌の発句は挨拶の句であって、的確にその日の場と相手を見極め「それであなたはどうですか」と投げかけるような連衆への提起の含意を持つようだが、これとて先ず場を設定し、そして打ち払うための舞台装置だろう。いまから一緒にやっていきますよという意味での、バレーのトスのようなものだ。去就を問うのにこれほど打ってつけなことはない。打ち上げられているのは話題でもあり、またわたし達でもある。


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