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通り名

 自分には通り名があった。いや、厳密にいえば、自分で勝手に付けた通り名だから、世間には全く通用しない通り名。それじゃあ通り名じゃない、その通りだ。

 高校在学中、通学途中で見かけた見慣れない原付一目惚れした。いつか原付に乗るときが来たら絶対に手にいれることを心に決めた。その時は、不人気故に既に絶版、希少故に高価な原付である事など知る由もなかった。

 冷静に考えれば、見慣れないモノには何かしらの理由があるのは簡単に分かったのだろうが、その時は完全に心を奪われて気が付かなかった。とにかく、中古バイク店や情報誌を探しつつアルバイトで資金を貯めた。

 想いが通じたのか、程なくして相棒となる原付を入手することができた。その名はHONDAロードフォックス。初めて見た車体とは違う黄色い車体だったが、色なんてどうでもいい。一目惚れした相棒をこの手にしたのだから。

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出典:https://www.bikebros.co.jp/catalog/1/179_1/

 手に入れた車輛は写真とは異なり、ロードフォックスという名にピッタリの明るい黄色。狐の尻尾のイメージするマフラーカバーも黄色で、正に狐のようだった。その日から、お気に入りの相棒との毎日が始まった。

 このロードフォックス、出だしの加速が悪く狐のような俊敏さは感じられなかったが、コーナリングについてはこれ以上楽しいものはないと思えた。コーナーでは、ステップがアスファルトに擦れて火花が散るほど傾かせられ、後輪は跳ねながらドリフトする。それは正に飛び跳ねる狐のように思えた。
 そんな走りをする自分に"越後の黄狐"と通り名を設定し、時には警察に呼び止められたりもしながら夜な夜なドライブに出かけて楽しんだ。数年後、そんな相棒を失うことなど知りもせずに。

 相棒を失ったのは二度目の事故の時だ。

 その事故は、冬休みを目前に控えた時に発生した。冬休みには、趣味のスキーを堪能するため、新潟のスキー場で泊まり込みのバイトをする予定だった。余談だが、スキーの腕前はそこそこあるほうだ。気が付けば板を履いていた。小学生の時、一時だけスノーボート(ボードではない)に浮気するも、自分の道具を手にしてから再びスキーに戻って上達した。高校では、2泊3日のスキー教室で一班に所属し、1日目の夜に行われるイベント”松明滑降”のメンバーに選出された。イベント当日は黄色い声援にワキワキし、モテるかと思ったらモテたのは松明だけだった。話を戻そう。
 相棒のハンドルは曲がり、車体と後輪をつなぐシャフトが折れていた。製造中止のため直すこともできず、相棒と別れるしか道がなかった。自身は、相棒が身代わりになってくれたおかげで骨折こそなかったが、激しく頭を打ったため医者にはスキー場でのバイトを止められた。後に残ったのは、相棒を失った悲しみと保険金だけだった。

 事故に遭う前は姉妹と3人暮らしをしていた。姉と妹は東京、自分は厚木に通っていたため、その中間の川崎に賃貸マンションを借りて住んでいた。1年間は3人で生活していたが、手狭になり大学のある厚木に引越しをした。

 アパートは大学の近くだった。相棒がいなくても特に不便はなかったが、相棒のことが忘れられず、再び相棒探しを始め、2代目を八王子の中古バイク屋で見つけた。
 納車の前日、気持ちが昂りすぎてなかなか寝付けなかったのを覚えている。納車当日は、新たに手にしたヘルメットを片手に電車を乗り継ぎ八王子まで行き、帰りは昂った気持ちをスイングに変え自走して帰った。2代目の色は、高校時代に一目惚れした赤黒だった。 

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 出典:https://www.bikebros.co.jp/catalog/1/179_1/

 赤と黒といえばフェラーリかランボルギーニか。そして、カーブで火花を散らしながらドリフト走行する日々が再び始まった。

 自らを”厚木の赤い跳ね馬”と呼んで。


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