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ユングを詠む(030)-ユング読書会から『モモ(その2)』

今回は、ミヒャエル・エンデの『モモ』をユング派の臨床心理学者河合俊雄先生が解説した本があったので紹介していく。

先回は私が『モモ』を読んだ感想をユング心理学的なレンズで大胆にも書いてみた。今回は本物の学者が書くとどうなるかという比較になる。

ネタ本はミヒャエル・エンデの『モモ』とミヒャエル・エンデ『モモ』 2020年8月 (NHK100分de名著) ムック – 2020/7/22[7]。

タイトルからわかるように2020年に放送されたコンテンツから文字起こしされた冊子。残念ながら、ビデオオンデマンドでは現在見られなくなっている。

『モモ』については、こちらを参照方。

1,物語を読むことの意義

 私は理系の出身なので、小説、漫画、アニメ、映画のうちでフィクション・非現実的な作品を架空で無意味なものと長年捉えてきた。非現実的だから実生活では役に立たないに違いないから時間を割いてまで触れる必要のないものに感じていた。

そんな昔の私の態度は『モモ』を読んだらわかるが、まさに「灰色の男たち」に時間を搾取されていたわけだ。

ところが、社会に出て会社やらなんやらの組織で仕事をしていくと、メンバーの心の課題・問題が組織の活動を阻害していることに気がついてきた。やる気のないやつ、自分のやりたいことがわからない人、鬱になる人、統合失調症になる人やら現れて文章や数字でしか表せない情報だけの論理的思考では片付かない話に時間を取られる方が多くなった。

というわけで人の心を感じられるようになりたいということで心理学を含めた文学ほかの芸術に対しても関心を持つようになった。言い換えると、文学ほかの芸術って人の心的活動の表出と痛感するようになったということ。

小説・漫画とかは一種思考実験的な見方も出来よう。実生活ではあり得ない環境で人の心はどう動くかとか作家がイメージした世界が描かれるのは面白く感じる。『モモ』でいえば時間が止められたらどうなる?という問いへの答えが描かれる。

河合俊雄先生は、こんな意義を書かれている。

この物語がファンタジーだからです。私(河合)が行っている心理療法では、夢や箱庭などのイメージの表現、つまりファンタジーを大切にします。クライエント(来訪者)が具体的に語る悩みの内容も大切ですが、それとは一見すると関係がないように思えるイメージやファンタジーを扱うからこそ、悩みや心の本質に迫れるのです。ファンタジー作品についても同じことが言えてファンタジーだからこそ、こころの深みや真実を見せてくれるのです。

二つ目もこれに関連することですが、『モモ』には、ファンタジーの描き出すこころの深層と現実、こころの古い層と、現代のこころのあり方の対立が見られるからです。前近代と文化と現代の文明の対立といってよいかもしれません。現代において、こころの深い層に関わるとはどういうことかをこの作品は考えさせてくれます。

[7]p7

2.相手の話を聞くということ。


 ミヒャエル・エンデ『モモ』 2020年8月 (NHK100分de名著) ムック – 2020/7/22[7]の中で、ユングを引き合いに出して解説されている箇所は2ヶ所だけ。この箇所はそれに当たらないが紹介する。

「『モモ』第2章めずらしい性質とめずらしくもないけんか」の中から。
 
モモにできることは、聞くことだけ。しかし、コンサル/コーチ、セラピスト顔負けの傾聴力なのである。

モモに話を聞いてもらっていると、ばかな人にも急にまともな考えがうかんできます。モモがそういう考えを引き出すようなことを言ったり質問したりした、というわけではないのです。ただ、じっとすわって、注意ぶかくきいているだけです。その大きな黒い目は、あいてをじっと見つめています。するとあいてには、じぶんのどこにそんなものがひそんでいたかとおどろくような考えが、すうっと浮かびあがってくるのです。
『モモ』[P23]
   あいての中にすっかり入りこんで、その人の考えや、そのひとのほんとうの心を理解することができる。『モモ』[p141]

『モモ』

その理由を、河合俊雄先生はこう解説している。

話し手、すなわちクライアント側が、聞き手に何かを託すことができる行為だからという。聞き手がなんの抵抗もなしに話し手の話を受け取ってくれることだといいます。これだけで話し手は楽になる。心理療法の現場ではこれが何をおいても第1歩になる。

次の段階として、相手に託せたことで何かが話し手に返ってくると、変化が起こることを目指すことになるという。

やってしまいがちなダメがことは、ついつい聞き手は話し手にアドバイスしてしまったり、評価や決めつけをしてしまうこと。私も分かってはいてもつい口に出てしまうことがあるので今でも未熟。

善意からでも提案や聞き手の体験などを返してしまうと、話し手は「自分を受け取ってもらえた」とは実感しない。それほど聴くとは難しいこと。

私の体験では、セッションやセミナーとかで聴く立場になったところを動画に撮って文字起こしをしてみるとわかるが、生で聞いているときには相手の話の3割ぐらいしか聞いていないことに驚愕したことがある。要するに耳の右から左に抜けていった相手の言葉の方が多いということだ。聴くということにいかに集中力がいるか認識しているつもりだ。

相手がどんな話をしている時に、注意力、集中力を全開にするかの技術を習得するにはやはりトレーニングが必要だった。気を抜いていると今でも失敗する。

で、モモに話を戻して、なぜモモは優れた傾聴力があるかについて、河合俊雄先生はこう解説している。

 優れた傾聴力は、モモがある豊かさとして、彼女の心の中にある宇宙、星空と天体の奏でる音楽にひたすら聴き入ることから来ているからと。

友達がみんな帰ってしまった夜、モモが一人で円形劇場跡の一画に座って長い時間を過ごす印象的なシーンがあります。「頭の上は星をちりばめた空の丸天井」で、彼女はそこで「荘厳なしずけさ」にひたすら聞き入るのです。[7]p23

こうしてすわっていると、まるで星の世界の声を聞いている大きな耳たぶの底にいるようです。そして、ひそやかな、けれどもとても壮大な、ふしぎと心にしみいる音楽が聞こえてくるように思えるのです。『モモ』p32

自分の中に星々や音楽が満ちているからこそ、相手の話をいつまでも聴くことができたのです。[7]p24

[7]p23-p24

蛇足だが、傾聴力はセラピストやコーチが使う手法にはラポールの関係を築く第1歩でもある。

3. 「4章 無口なおじいさんとおしゃべりな若もの」

  この章は私も取り上げている。

そして、河合俊雄先生は対立の概念として「老vs若」の構図が見られると指摘している。
やはりモモの仲良しのおじいさん道路清掃夫ベッポの部分に注目している。

とっても長い道路(の清掃)を受け持つことがあるんだ。おっそろしく長くて、これじゃとてもやりきれない、こう思ってしまう。(中略) いつ見ても残りの道路はへっていない。だからもっとすごいいきおいで働きまくる。心配でたまらないんだ。そしてしまいには息が切れて、動けなくなってしまう。『モモ』[p52]

いちどに道路ぜんぶのことを考えてはいかん。わかるかな?次の一歩のことだけ、つぎのひと呼吸のことだけ、つぎのひと掃きのことだけ考えるんだ。いつもただつぎのことだけをな。
するとたのしくなってくる。これがだいじなんだな、たのしければ、仕事がうまくはかどる。こういうふうにやらにゃあだめなんだ。『モモ』[p53]

『モモ』

先生はこう解説している。

この考え方は、禅の修行にも似ていると思います。禅の修行では「早く悟りを得たい」と考えてはダメで、目の前の庭を掃き、廊下を掃くことから修行が始まります。庭を掃くときに「あそこまで行ったら終わりだ」などと考えてはいけません。なぜかというと、先のことを考えると自分が「今ここ」にいなくなるからです。「ここ」にいないから、「今」がつまらなく、むなしく感じるのです。(下線筆者)(中略)
ベッポが生きる時間は、社会学者の真木悠介が『時間の比較社会学』*)の中で「現時充足的な時間」と呼んだものです。

*)1981年刊。さまざまな時代・社会にみられる時間概念を比較し、近代的自我に特有の時間意識の形成過程を考察した。

[7]p28-p29

4.人に何かを話すということ

 聞き手がなんの抵抗もなしに話し手の話を受け取ることで、話し手は楽になる。次の段階として、人に話せたことで何かが話し手に返ってくるとか、変化が起こることを期待することになるという。

 補足的な説明がある。

 ここで話すことの意味について考えましょう。話というものは、一人で持っていても話にはなりません。必ず誰かに語られる必要があります。何十年も経ってから犯罪を告白する人がいるように、自分の中にある話は人に語らないと自分にとって真実にはならないのです。

 心理療法でも同じことが言えます。クライエントが抱いてきた思いは、語られることで重要な意味を持ちます。自分さえわかっていれば、人に言わなくても同じだと思うかもしれません。しかしそうではない。誰かに語って共有されることによって、初めてそれは本当のことになるのです。

[7]p34-p35

とある。しかし、私は半分賛成で半分懐疑的。話す相手は、自己の中にいるペルソナやアニムス・アニマであってもいいのではないかと感じている。

確かに他者に話すことで,私も何か解放されたような気分になることもあるから半分は同意なのである。

私は自己の中のペルソナやアニムス・アニマに語ることでも真実になり、本当のことになると思う。逆に自己の中のペルソナやアニムス・アニマが私の自我に隠し事や嘘をついていることも気づいたこともあるのだけどね。

5. 「6章 インチキでまるめこむ計算」

時間を人々から盗むというか詐欺で時間を取り上げる「灰色の男たち」についての解説は当然ある。「灰色の男たち」は「時間貯蓄銀行」という怪しい組織のメンバーである。

こんなふうに解説されている。

灰色の男たちは、「モモ」における文明批評の核心部分です。物語では、灰色の男たちは人生にふと迷いを感じたフージー氏に狙いを定めてやってきて、時間の貯蓄を持ちかけています。

しかし見方を変えれば、これはフージー氏の心に生まれた隙間、あるいは虚無が、灰色の男を呼び込んだと考えることができます。

つまり灰色の男は、われわれの心の虚無が生み出した存在なのです。

フージー氏は時間の倹約に励みましたが、不思議なことに手元に時間は残りませんでした。あとでわかることですが、その時間はすべて灰色の男たちに盗まれていたのです。

[7]p40-p41

“虚無が、灰色の男を呼び込んだ” という考え方には初読では馴染めなかった。しかし、時間を節約、あ、いやもっと端的にいうと時間を盗まれているから「今」を感じていることもできないのだろう。すると、こうなる。

先のことを考えると自分が「今ここ」にいなくなるからです。「ここ」にいないから、「今」がつまらなく、むなしく感じるのです。

[7]p28

に通じてきて腑に落ちた。

私としては、時間=金として、お金換算ができないことについて価値が認められなくなった拝金主義的生き方に囚われる者というか煩悩に囚われていく者に「灰色の男たち」はつけいってくるともイメージしている。

お金を儲けている時間だけに価値がある。とにかく仕事をしていないと価値がない病的な感覚こそ「灰色の男たち」に時間を盗まれた人たちではないだろうか?私自身はサラリーマンとして90年代グローバル経済に日本も飲み込まれたあたりからこんな洗脳に染まっていた時期があった。

6.遊べなくなった子どもたち

自分で創意工夫して遊べないこどもが増えた話。『モモ』にも出てくる。この物語が執筆された頃(1970年代)には社会的問題として言われていたことは覚えている。

 受験競争に追われて、学校、塾、習い事に縛られて子どもたちが自由に遊べる時間を奪われていく。遊び自体も遊び手側に遊び方の自由度の少ないおもちゃやゲームに席巻されて子どもたち自身での工夫ができなくなっていった。

 物語『モモ』の中ではビビガールという決まったセリフしか喋らない人形が登場している。モモの遊びたいよう対応してくれないのですぐに飽きてしまった。

先生はこのように解説している。

 私(河合)が専門とする心理療法においても、遊べない子どもと出会うことが増えています。大人としがって子どもには、言葉で自由に話してもらうことが難しいので、その代わりに自由に遊んでもらうプレイセラピー*)を行うのですが、そこで「自由に何をしてもいいよ」と言ってもあまり盛り上がらないのです。

*)遊びを通して行われる子どもを対象とした心理療法。「遊戯療法」とも。自分の気持ちを言葉によって十分に表現することができない子どもにとって、遊びは表現手段の一つとなる。信頼できるセラピストとの遊びを通して、子どもは自らの葛藤とこころの世界を表出することで変化していく。

おそらく「何をしてもいい」という状況に慣れていないのでしょう。『モモ』で描かれているようにゲームなどその目的に特化したおもちゃが増えたため。想像力を使って自由に遊ぶことが難しくなってきているのだと思います。[7]p45

(中略)

遊びに限った話ではありません。物事があらかじめすべて決められていると、人間の想像力は次第に失われていきます。つまり、想像力を育てるのは自由な時間なのです。

(中略)

ですから、町の子どもたちが遊べなくなったことには、灰色の男たちが時間を盗み始めたことと密接なつながりがあるといえます。[7]p45

[7]p45

遊ぶことすら自らできなくなってしまえば、自分のやりたいこともわからない人が育つ土壌がしっかりと増えていることが容易に理解できる。
 
どうしていいかわからないから、他に依存し判断も人任せで責任を負わない人が増殖していくわけだ。自主自立型人材の輩出など夢のまた夢の現代、残念!

7.時間とは「いのち」である

 
マイスター・ホラ、日本語にすると“時間親方“とでも訳すとよさそう。英語にすると多分Mister Hour。彼の住んでいる「時間の国」には亀のカシオペイアにモモは連れられていく。
 
マイスター・ホラは人間に時間を配っている者。生きている時間を与えているということでは「いのち」を与えているともとれる。神とはどこに書かれていないがそんな存在にも私は感じた。
 
a.「時間の源」

「時間の源」とは何かと河合俊雄先生の[7]では一つの章が建てられている。

時間の源とは、人間の豊かさの源泉であると考えられます。源からくる時間は、一瞬でありながら無限でもある。

これは仏教、特に華厳経*)の時間と宇宙理解に近いかもしれません。華厳経は「仏の一毛孔の中には、一切世界がはいり」と説いていますが、時間についても「永遠の時間が一瞬におさまり、一瞬が永遠の時間を包む」としています。

*)華厳経 正式には「大方広仏華厳経」。一塵の中に全世界が宿李。一瞬の中にも永遠があるという「一即一切」「一切即一」を華の美しさに例えてといた経典。「仏の一毛孔(いちもうく)のなかには、一切世界がはいり」は、悟りを求めれば微細な毛穴に、仏の巨大な世界が入っていることがわかる、よって全世界を見るには毛穴一つを見ればいいという教え。

[7]p62-p63

時間と空間がフラクタルなイメージになっているようだ。

哲学書のイマニエル・カントに言わせると宇宙は無限か有限かとか、宇宙にはじまりはあるのか終わりはあるのか?という問いに思いを馳せるのは理性の暴走という。というのは答えを検証することはできないから。

 時間も宇宙の始まりと共にスタートするならはじまりを探求するのは理性の暴走ということになる。だから時間がどんなものか観察することには意味があるが、どっからきたとかいつから始まったのかとかは立ち入らないことにする。

という一方で、私は空想し妄想するのは自由だと思う。

話を変えて『モモ』の中で「時間の花」として描かれているものについて。『モモ』p239-p240の文章をもとに生成A I、ChatGPT4oにその情景を描いてもらった。

モモの心の中の情景『時間のマンダラ』
(ChatGPT4oに筆者がプロンプトして作成させたもの)

これがモモの心の中の情景『時間のマンダラ』。「時間の花」が咲く池のほとりにモモがたたずむ。振子が中央で触れている様を描いた。花はさまざまな色と種類を描かせたかったがAIは理解してくれなかった。

で、マンダラについての解説も河合俊雄先生の[7]には宗教学者の中沢新一*)を引用して説明されている。

 古代インドにおいて洞窟でのメディテーション(瞑想)によって発生したものと説明しています。瞑想中に下から立ち上がってくるエネルギーが、洞窟の天井に当たって四方八方に幾何学的に広がった図像であるというのです。

 これと同じように、『モモ』で描かれる時間の源は立体的なマンダラと言えそうです。さらにそれは、振子にあわせて花が咲いたり枯れたりする動的なものであるため、時間のマンダラと呼ぶこともできるでしょう。

[7]p66

マンダラについては、ユングの「黄金の華の秘密」をいずれ読むのでそこでまた書きたい。
 
c.死と再生

『モモ』の初読の際に人に時間を与えるマイスター・ホラとモモの会話で意味を取れなかったところがある。それがこの部分。

「あなたは死なの?」
マイスター・ホラはほほえんでしばらく黙っていましたが、やがて口をひらきました。
「もし人間が死とは何かを知ったら、こわいとは思わなくなるだろうにね。そして死を恐れないようになれば、生きる時間を人間からぬすむようなことは、誰にもできなくなるはずだ。」
「そう人間に教えてあげればいいのに。」
「そうかね?わたしは時間をくばるたびにそう言っているのだがね。でも人間はいっこうに耳を傾ける気にならないらしい。死をこわがらせるような話のほうを信じたがるようだね。これもわからないなぞのひとつだ。」
「あたしはこわくない。」
モモは言いました。

『モモ』p237-p238

 希死念慮を誘うようなことは言わないように書かないようにしているのですが、「死は怖くない」。これは死にかかった経験のある私も同感なのです。

 ただし、この会話の中で、“そして死を恐れないようになれば、生きる時間を人間からぬすむようなことは、誰にもできなくなるはずだ。”とあるところは論理がつなげないでいたのだが、死にたくないから人の時間を奪っているとこれを書いていて腹落ちした。

 要するに、死は怖くないので、灰色の男たちは時間を盗んでまで生き延びる理由がなくなるってことだ。

 死の後は再生して新しい生命を得る、それを新しい花が咲くことで物語では隠喩していると解説しています。確かに輪廻転生を解く宗教もある。だから怖くないということか?

 上座仏教では解脱して転生しない方が望まれることで、転生はまたこの世で暮らすという苦を味わうこととされている。転生は人間に戻らず虫や獣になることもある一種罰でもあるのに、それでも転生したいものかね?

d.「星の時間」をつかむ〜共時性

『モモ』の中では共時性という言葉は出てこないが近そうな概念が「星の時間」。こんなふうに説明されている。あることが起きるタイミングが「星の時間」。関連するイベントがはかったように同時に起こる時のことをそう呼ぶ。

 私は全く知らないが占星術でそんなことを占っているのだろうか?

 河合隼雄先生が『ユング心理学入門』[8]p275でカイロスという時間を紹介しているがこれが「星の時間」にあてはまる。カイロスというのは恋人に出会うとかアイデアが浮かぶような出会いとか人物にてあるとか大きな変化が起きる時のこと。

一見偶然のような出会いとか体験をするとき、共時性、カイロス、「星の時間」は共通しているように感じる。

 カイロスに対応する概念、それは何気ないいつも通り過ぎゆく時であってクロノスという。クロノス、クロノメーター要は時計のこと。

今カイロスが来たって感じられるかどうか、感性を磨いておかないといけないと河合俊雄先生も書いている。ユングのタイプ論でいう心的機能「直観」が求められる瞬間と思う。

では、そうしたカイロスに気がつくにはどうしたらいいのか?日頃からの行動習慣に工夫は必要でしょう。参考になるのはJohn D. Krumboltz の『その幸運は偶然ではないんです!』あたりだ。起業家向けのポジティヴな行動が求められる内容。

8.「みずから」と「おのずから」の結節点

モモは、「灰色の男たち」に実質奪われた時間を持ち主たちに返すために立ち上がる決意をし、首尾よく成功する。そこのところを河合俊雄先生は「自然(じねん)」という概念で解説する。

 自然の「自」という感じには二つの意味があって、「みずから」と「おのずから」です。「みずから」は主体的な意志を表し、「おのずから」は物事が勝手にそうなることを意味します。

 自然とはその二つが合致する時のことなのです。「みずから」ばかりだと空回りし、「おのずから」を待っていると何も起こらない。しかし、その両方が合致する瞬間というものがある。それが自然であり、ホラのいう「星の時間」でしょう。

[7]p82

ユング心理学のレンズで見るとこうなると補足がある。

「みずから」は自分の意識=自我、「おのずから」は自分の心の全体=自己に相当するとも言えると思います。

[7]p82

ユングが自己といった場合は、自分の領域を超えて集合的無意識や元型も含んでくるので広い領域からの「おのずから」を捉え合致させることになる。

9.時間を止めることの意味

モモとマイスター・ホラは、「灰色の男たち」を消滅させるために時間供給を止める作戦にでる。それにはマイスター・ホラが永い眠りに一旦着く。「灰色の男たち」は「時間貯蓄銀行」の金庫に蓄えた時間で生きていかねばならなくなるよう追い込む作戦。

その金庫は時間の花一輪をもらって時間が止まっても動くことができるモモが閉鎖してしまう。時間の補給ができなくなった「灰色の男たち」は次ぐ次と消えてしまい全滅してしまう。

マイスター・ホラが眠りにつくことはこう解釈できると説明されている。

 時間の源にいるホラが眠り、少女であるモモが主体的に努力すると言う作戦は、通常考えられる役割分担からは全く逆でしょう。時間を止めて灰色の男たちを消滅させるは、本来はホラがすべき仕事のはずです。

 この転倒は、ラジカルなイニシエーションとして解釈できます。イニシエーションとは人類学用語で、若者が成人として社会に承認される手続きや儀式のことです。その過程はしばしば死と再生になぞらえられ、現世を生きていた若者が一時的に神の世界に導き入れられ、現世の存在としてはそこで死に、神の世界に開かれたものとして再びこの世に蘇ると捉えられます。これが通常のイニシエーションです。

  ところがイニシエーションにおいて本質的に生じているのは、新参者が神の世界への参入を通じて死んで再生するだけではなく、それを通じて神の世界そのものが死に、再生することなのです。『モモ』で生じているのも、まさにこれに当たります。神の世界を具現しているホラが眠り、時間そのものが止まってしまい、その後にホラが再び目覚める。

[7]p88

「灰色の男たち」が全滅して、世界が時間を搾取されないように生まれ変わったことを意味する。

ただ、この物語は今なのか、これから起こることなのか、昔のことなのか定かでないと終わりにミヒャエル・エンデは添書きしている。人々の心に虚しさや煩悩が蔓延ればまた「灰色の男たち」が目覚めることもありそうと示唆して終わる。

実際、現実には「灰色の男たち」はたくさんいる。実世界では物語は終わっていないし始まってもいない。

今回はここまで。

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参考文献[2] MBTIタイプ入門 タイプダイナミクスとタイプ発達編https://amzn.asia/d/70n8tG2

参考文献[3] 『タイプ論』https://amzn.asia/d/2t5symt

参考文献[4] ユングのタイプ論に関する研究: 「こころの羅針盤」としての現代的意義 (箱庭療法学モノグラフ第21巻) https://amzn.asia/d/aAROzTI

参考文献[5] 『元型論』https://amzn.asia/d/eyGjgdX

参考文献[6]『ユング――魂の現実性(リアリティー) (岩波現代文庫)』https://amzn.asia/d/cUEvxPS

参考文献[7] <ミヒャエル・エンデ『モモ』 2020年8月 (NHK100分de名著) ムック – 2020/7/22>

参考文献[8] 『ユング心理学入門』https://amzn.asia/d/0gCq7JP9

背景画像:原案:ティールコーチ小河。作画:ChatGTP4o。
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こころざし創研 代表

「コーチやめました」
経営をかたるユング研究者 小河節生

E-mail: info@teal-coach.com
URL: 工事中
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