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『真説?「忠臣蔵」ー 忠臣蔵の真の魅力は、主君の仇討ちにあらず ー①』

(結文の章の一部を有料公開に変更しました。良い作品作りのため、支援可能でしたら、よろしくお願いいたします。)

序文

近年『忠臣蔵』(『赤穂浪士』)の話が映像化されるのは珍しくなりました。
むしろ、敬遠されている傾向です。

その理由は、「主君の敵討ちは現代的ではない」、「古い価値観だ」という意見が散見されます。

しかし、その見方は、浅いと言わざる得ません。『忠臣蔵』には深い魅力があると感じています。これから詳しく解説していきますので、是非、ご一読ください。
「忠臣蔵」は、一般的には「赤穂事件」として知られています。
発端となったのは、元禄年間の1701年江戸城内の松の廊下にて、赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が、朝廷と幕府の仲立ちを担う役職の「高家」の吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)に切りかかり、傷を負わせた事件でした。
それが切っ掛けで、浅野内匠頭は、即日切腹となり、領地であった赤穂藩は取り潰されたのです。
一方で、吉良上野介は、全くの咎めなしでした。
その徳川幕府の裁きに納得がいかなかった、残された赤穂浪士たちが、刃傷事件が起きてから約一年九ヶ月後に、吉良上野介の首を討ち取るため、その邸宅へ討ち入り、本意を遂げたという流れです。



敵は幕府にあり?

ですから、「忠臣蔵」と言えば、主君が敵を討ち果たせず、切腹に追い込まれた無念を、代わりに家臣団が敵を仇討ちするという、武士道の鏡のような美談として広く知られている印象です。
ただ、それは、明治時代以降ということになるようです。

本来の「忠臣蔵」の話の魅力とは、別のところにあると思う訳です。

そのことは、その事件が起きてから数十年後に、初演された人形浄瑠璃(文楽)の『仮名手本忠臣蔵』で指摘されてされているところです。
ただ、こちらでは、男女の情愛や、親子の情など、義理人情の話に重点を置いているように読めます。

ちなみに「忠臣蔵」は、一般的には「赤穂事件」の名称で知られる事件ですが、その『仮名手本忠臣蔵』公演によって、「忠臣蔵」として知られるようになりましたね。

さらに、この時代は、事件が起きてから同じ徳川幕府の治世でしたので、登場人物などを明確に名指しすることは不敬の意味にも取られかねないという風潮があり、架空の人物として、また別時代の人物に置き換えられています。

例えば、敵役の吉良上野介は、室町幕府の将軍・足利尊氏の側近だった高師直(こうのもろなお)に置き換えられていたり、赤穂浪士たちの主君である赤穂藩主・浅野内匠頭は、「塩冶判官高定」と置き換えられたりしているのです。


さて、今回、筆者が注目した観点とは、

「忠臣蔵」を、浅野VS吉良 の争いとして見るのではなく、

浅野家+支援者(西日本の諸藩が主体かと思われるのですが) VS徳川幕府

という見方をすれば、大きな視点で見ることができ、当時の政治の動きが見えてくるというものです。


端的に言えば、「忠臣蔵」とは、
当時の国家政府である「徳川幕府」の決めた裁きに対し、赤穂藩の浪士たちが異議申し立てを行った訳です。つまり「抗議」、「デモ」のようなものだったと言えるということです。



赤穂浅野家の取り潰しの謎?

そもそも、藩主が江戸城の殿中で刃傷を起こしたことで、なぜ赤穂藩は取り潰されなければならなかったのでしょうか?

確かに、武士の習いによって、藩主が切腹になるのは、当時の価値観として自然な流れと言えるでしょう。

それは、赤穂藩の家臣一同が、家老の大石内蔵助を始めとして、納得できていたことだったではないでしょうか?

しかし、徳川幕府の裁きは、赤穂藩取り潰しを即決したというものです。
これは、あまりに非情ではないでしょうか?

「取り潰し」とは、領地を没収する訳です。

家臣団は、城を明け渡し、家も職も同時に失うということです。

無職でホームレスにするようなものです。
それが徳川幕府の判決であり、しかも即決だったのです。
刃傷事件が起きてから、一ヶ月程度の超短期間で、お城は明け渡さざる得なくなったのです。

なかなか納得できるものではないでしょう。

ですから、赤穂藩浅野家の家臣団が、幕府の判決によって、無職・ホームレスにさせられたことに対する抗議の意味で吉良邸に討ち入りした!
という見方ができるというものです。

本来なら、判決を決めた幕府の中心の江戸城へ直接抗議しに向かうことが筋ですが、無勢すぎて困難という判断になったのでは?ということです。
そこで、矛先は、吉良上野介に向けられたのです。

殿中の刃傷事件では、当時の武士の習いであった「喧嘩両成敗」の裁きのはずのところを、一方的に浅野内匠頭を切腹に処し、相手の吉良上野介に対してはお咎めなしであったのです。
それを「喧嘩両成敗」にさせるため、吉良上野介を死に追いやり、幕府への抗議の意思を間接的に示したということなのです。

ただ、ここで注目すべきこととして、
「藩取り潰し(改易)」は当時において珍しくはなかったということです。

徳川将軍家は、幕府の力を強めるために、反抗しそうな勢力などを、次々と何かしら落ち度を見つけては責め立て、藩取り潰しを、頻繁に行っていました。

初代将軍・徳川家康の代以降、「忠臣蔵」の時代(元禄年間)を生きた五代将軍・徳川綱吉の代までに、約200藩が取り潰しの目に合っていたのです。

ただ、その綱吉の代では、幕府への抵抗勢力となるような脅威のある藩は、ほぼ一掃されていたようなのです。

それでは、なぜ、赤穂藩は取り潰されたのか?
その真相を究明していきましょう。



狙われていた赤穂藩
ー 塩を制するものは天下を制す? ー


単刀直入に申し上げると、赤穂藩は、徳川幕府に、特産物による収益があるため狙われたと言えるのです。

その特産物とは「塩 」です。

「赤穂の塩」は現代でも日本を代表する特産品として知られています。

そして、赤穂での塩田は、浅野家が赤穂を統治する前の池田家による統治時代から始まっていたと伝わっています。

諸説では、吉良上野介の治める「吉良庄」 (三河。現在の愛知県)でも塩がとれたことから、浅野と吉良との間に、塩の利権争いが起きていたとも言われています。
しかし、それは信憑性に欠けるとの意見も幾つも見られます。

今回、筆者が注目しているのは、

「赤穂の塩による収益を徳川幕府が独占したいがために 、赤穂藩取り潰しを即決したのでは?」
ということなのです。


塩は、人間にとっての必要な栄養源ですから、古来、それが採れる地域は重宝されたのです。
また、山国と言われる内陸の地域は、海と面していないので、塩を採る手段に苦労した訳です。

例えば、有名なのは、戦国時代の雄として知られる、甲斐の武田家は、塩を得るため、周辺の、海と面している国々、つまり、駿河の今川家や相模の北条家と上手く関係を作っていく必要性に悩まされたとも言われています。
結果、甲斐は、武田信玄の代で、駿河の今川家を滅ぼすことで、海と面する領土を手にいれたので、その不安はなくなったのです。

話を戻すと、それでは、なぜ、徳川幕府はそのような貪欲に見える行為に出たか?

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