『悪魔の飽食』 - 森村誠一

読んで良かった。特に興味深かったのは部隊長の石井四郎軍医中将の話だ。彼は今の世ならMENSAにでも入れるような生まれついての天才だった。

一八九二年(明治二十五年)六月二十五日、千葉県山武郡千代田村大里(現在の芝山町)に生まれた石井四郎は、地元の私塾「池田学校」在学中に、一夜にして教本を暗記するなど頭脳優秀で教師を驚かせ、千葉中学に進学した。
京都帝大在学中、抜群の成績を収めたため、時の京都帝大総長が石井四郎の将来を属望、愛娘と結婚させたというエピソードがある。

にも関わらず、その他の愚将と同じく酒色に溺れ、戦争の混乱に乗じながら私利私欲のために動いた。「石井式濾水器」の発明や、ペスト・ノミの研究などで確実な実績があるにせよ、平生から放恣な勤務ぶりで、汚職と公金横領が発覚し部隊長を一時解任されている。どうして石井のような天才まで、その腐敗ぶりで知られる陸軍上層部そのものという行動様式に落ち着いてしまうのか。やはり官僚制組織の根幹が腐っているのはそれだけ致命的だということなのか。

口に愛国を唱える憂国の士が、裏へ回れば好色遊蕩、不正腐敗の士であることは、珍しくない。七三一は不正の格好の培養基であった。もっとも軍上層部における腐敗は第七三一部隊だけの現象ではなかった。陸士、陸大出身の将官にとって他国は侵略すべき対象であり、軍は自己の栄達を図る手段であり、愛国、祖国防衛の表看板の裏で軍を食い物にしていたのである。
職業軍人や高級官僚、死の商人らの戦争を利用した腐敗と蓄財が公然と横行する一方、前線では何十万人という将兵が「肉弾」として砲火の中で死んでいった。「一機一艦」の合言葉のもとに多数の前途有為の若者が特攻作戦の中で人柱とされた。

戦史を少し紐解くと(まるでネズミ講みたいだな…)という感想が頭をよぎる。ネズミ講は数世代目で確実に破綻するが、しかし上流に近かった者だけは黒字になって終わるのだ。ここに戦略性があって「もしも自分が上流で逃げ切れたら…?」という期待のために、破綻する事が分かっているにも関わらず度々発生したのだと言われる。負けると分かっている戦争を始めた上層部は、少なくとも自分だけは勝ち逃げできると無意識に期待していたのではなかったか。

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8月9日にソ連が南下を始めたことを知ると、慌てて証拠隠滅を図り、引き揚げ列車の優先通過手配をして一目散に逃げ帰った。その後は良く知られている通りだ。終戦直後、石井は731部隊の研究資料をアメリカに提供する見返りに、戦犯として処刑されることを免れた。

当時世界最新の細菌戦データの山を入手したアメリカ軍当局は狂喜し、すでに中国・上海で捕虜収容所に捕われていた北野政次(一九四二年─四五年の間第七三一部隊長)を、こっそりと日本に帰国させた。GHQ当局による石井四郎訊問の前に、日本の某所で石井─北野会談が極秘に行なわれたという。犯罪もみ消しのためのアメリカ軍当局の〝温情〟であった。石井と北野は、丸一日のたっぷりした情報交換と相談打ち合わせの機会を与えられ、口裏を合わせて秘匿すべき事項を守り、来たるべき訊問に備えたのである。この結果GHQ当局の訊問は形式だけのものとなり「石井四郎以下の所在は不明。七三一は戦犯に値しない」とする見解がソ連側に伝えられた。世界史上空前の細菌戦を実施し、三千人以上の人間を抹殺〝消費〟した第七三一部隊はほとんど無傷のまま戦後の日本に生き延びたのである。

日本軍による組織的戦争犯罪の中でも群を抜き、まさに悪魔の所業であったにも関わらず、731には何故か “実在しない幻の部隊” というイメージが付きまとい、戦後になってもほとんど語られることがない。これはひとえに「アメリカにとっても都合が悪いから」に他ならないだろう。

731の特異なのは、その所業が日本の戦争犯罪であると同時に今やアメリカのそれでもあるということ。石井は研究成果を全面的に提供することで、事後アメリカを共犯関係に引き込んだのだ。もしも、敗戦を予見した石井が、ここまで全て計算に入れて、最初からこのゴールを目指して立ち回っていたのだとしたら…? そう考えると二匹目の悪魔の存在に気付いたような慄然たる思いがする。デタラメの犯罪などではなく、自分一人助かる為にコツコツ交渉材料を作成していたのだとしたら…? 彼の並外れた頭脳をもってすれば、あながち有り得なくもない話ではなかろうか。

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最後に付記としてアメリカの内部文書から得られた証拠が示されていた。

中国生まれの米人ジャーナリスト、ジョン・W・パウエル氏が「歴史の隠された一章」と題して米国の情報公開法に基づき入手した最高機密資料により、終戦直後GHQが、同部隊の研究成果を米国に全面提供する見返りとして、同部隊員を戦犯から免罪した裏取り引きの詳細を公表した。
米陸軍細菌化学戦基地フォート・デトリック研究所エドウィン・ヒル、およびジョセフ・ビクター両博士は「石井部隊の資料は何百万ドルの出費と長年にわたる研究成果であり、このような資料は人体実験につきものの良心の呵責に阻まれて我々の実験室では得ることができないものである。我々のそのデータを入手するための支出は二十五万円(当時約七百ドル)のはした金にすぎず、格安の買い物である」として石井以下の部下の免罪嘆願をしている。

また当時ソ連を意識していたことも分かる。

日本軍細菌戦部隊の技術情報はソ連にはほとんど流れておらず、戦犯裁判を行なえば、このノウ・ハウがすべてソ連側に対しても明らかにされてしまうので、米国の防衛と安全保障上、公判は避けるべきである。

大変興味深い内容で、読んで良かったと思っている。歴史の面白いのは改竄と隠蔽の痕跡がそこかしこに見つかるところだ。そして嘘をつき通すのにもコストがかかるので、歴史には原則的に「意味のない嘘」は存在しない。そこには必ず誰かの意向が存在するのだ。


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