『三体』 - 劉慈欣

評判が良かったのですごく期待して読み始めた。

東アジア情緒

文革によって暴き出された人間の醜さが実に東アジア的で、魂に良く馴染む気がした。利己的で卑怯。日本人には親しみ深いであろう、良く見知ったあの醜い感情の機微。日中韓あたりの人たちはこのドロドロとした同じ性質を共有している気がする。だから国や言語が違えど、同じ人種の作家が書いた小説は共感できる度合いが強いのではないかと最初に思った。…という感じで出だしは良かった。

読みやすさ

内容よりも、とにかくすぐ気が付いたのはこの妙な読みやすさの方だった。

例えば割と最初の方で、ある人物が「頑固な小娘め!」という捨て台詞を吐いて去って行くシーンがある。僕はこのセリフに大層感心してしまった。なぜかって、これは無くてもいいセリフなのだ。人物の役割を強く印象付け、このシーンが読者の記憶に残るように、わざわざ入れてあることに気が付いたからだ。素晴らしい。とても感心した。

セグメント方式

また構成の方も、或る情景を一単位として短く区切られていて、その連続によって物語全体が成り立つ形になっている。一セグメントが終わった後、読者の頭にはただ観念だけが残っていれば良い。極端な話、シーンが切り替わる度に今読んだことを忘れていいのだ。僕はこの構成方法を大変モダンな、現代的なものだと思った。「最近の小説はこうなっているのか…」とさえ思った。

ステレオタイプな登場人物

更に登場人物も分かりやすかった。単純な濃い味付けで隠し味なんてものはない。ステレオタイプな人物像そのままだ。キャラクターが単純なおかげでとにかく覚えやすい。しかしこれでも入り組んだ人間関係や物語展開があると十分に複雑になってしまうのだろう、或いは他にフォーカスしたいところがある為に、敢えて人物の方は単純化することを選んでいるのに違いない、と思った。

小説を読む時に一番面倒な「人物を覚える作業」が無いというだけでこんなにも快適になるのかと思った。おかげで物語に集中できたのは事実だった。

映画

まるで映画のスクリーンに映ったことを、文字に起こして説明されているかのような、そんな印象さえ受けた。作者の認知機能がただ視覚優位なのかも知れないし、或いは本当に映画化を意識して書いていたのかも知れない。悪く言えばビジュアルイメージに頼りすぎだとも思った。

なんとなく僕の今まで知っていた小説と違う。よくよく考えると、シーン分割も単純なキャラクターたちもみんな「映画的」だったことに気付く。

良かったところ

話の見せ方は大変上手いと思った。最初に材料を用意して、この順番でこれを見せて…と、部分部分を効果的に使いながら、少しずつ読者の頭の中に全体像を投影していく。中盤すべてが明らかになるまでは程々に新しい要素が出てくるし、話が展開していくので飽きない。

確かに中国人が書いたのだろう(そうでなければ書けないだろう)という描写がそこそこにあり、自分の人生の断片を惜しみなく描き込んでいるという印象を受けた。時々現れる転移修飾を含んだ描写なども悪くなかった。

後半少し飽きた

後半少し飽きた。

三部作

三部作らしい。正直言うともう続きは読まなくていいかなと思ってる。途中から根本的な設定に対するどうしようもないツッコミどころ(間違いとは言い切れないけど、割と妥当性のあるやつ)が気になってしまい、その疑問が解消されないまま読んでいたのでいまいち入り込めなかった。何かしら“それがそうでなければならない理由”が欲しかった。フィクションの設定に必然性を与えるためのサイエンスじゃあないのか。

SFを読むのは初めてだったが、物理の守備範囲以外はそれほど科学的でもない気がした。つまりこれは人文学の積み重ねが一切ない、理系一辺倒の人が書いた「小説のような何か」であって小説ではないと感じた。

僕が予想していたSFってやつは、科学的に裏付けのある(ありそうな)世界を用意して、そこで長大な思考実験のような、ガチガチの人間模様を繰り広げる…というやつだった。SFでしか仮定し得ない特別なシチュエーションがあるはずで、或いはただ学術研究からモチーフを借用し、しかし舞台がどうあれ、やはりそれは人間の物語であることに違いはないのだ。だから要は宇宙を舞台にドストエフスキーやシェイクスピアをやるのがSFなんだろうと思っていた。というわけで割と想像してたのと違った。

小説的になりそうなところと言えば、葉文潔が村で生活していた辺りのことだろうか。読み終えても気になっているのはその辺だけだ。これは第二部第三部で描かれているのかも知れない。

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