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歴史的事象に関するメモ(随時追記)

転載・流用禁止

【縄文時代】
・縄文時代とは、土器の出現から灌漑水田稲作が開始されるまでの日本列島域において、狩猟採集漁労を主な生業とし、本格的な定住生活を始めた人々が残した文化群の総称。この時期を指す。p8
・「戦争」を「集団間による激しい争い」と定義するのであれば、東日本の中期以降のように人口が集中し定住性の強い地域には「戦争」があった可能性がある。p21
・縄文時代・文化は戦後の新しい歴史観によって新しい日本国民を育成するために設定された、極めて政治性の高い歴史概念。p54
・縄文時代をある種のユートピアとする論調の中に、「極端に少ない人口」という観点が抜け落ちている。人口の増加と集中による社会変化のあり方。p323
<山田康弘『縄文時代の歴史』講談社現代新書、2019

【弥生時代】
・開始年代はおおむね紀元前8世紀頃という議論が多い。一斉に開始したわけではない。弥生早期が認められるのは九州北部のみ。p120
・縄文時代ではイレズミは男女ともに通過儀礼だったが、『魏志倭人伝』によると3世紀に男性だけの装身へと変化。吉田晶によると、戦士の仲間入りの儀礼だと考えられる。p143
・後期初頭、漢系の遺物の流入は一度途絶え、舶載玉類の流入も減少。漢王朝を簒奪した王莽が華夷思想に偏った対外政策をとるようになったことと関連すると考えられている。中期末から後期初頭、広域で既存集落の廃絶や特定集落への集住など。p175
・後期に近畿中部の集団が鉄の流通を掌握したとする仮説は支持できないことが指摘されている。p182
・鉄という極めて価値の高い物資がいかに獲得されたのか。何を交換し、どの労働力の投入が行われたか。p195
・前期末、中期初頭、北部九州の倭人は鉄器に触れるようになった。p196
・工程や対象物に対して、石と鉄を使い分けていた。p198 日本海沿岸地域、農耕社会維持のために必要不可欠な木器生産の獲得のために鉄を必要とする。その交換は、瀬戸内海沿岸地域では容易になしえない手工業部門への労働力投下が行われた。その交換物が玉。北陸地方で生産された碧玉製管玉は特産品として西方地域との鉄の交易に対して使われた。p212 高度な鍛冶技術が広域に普及していったが、鉄素材生産量は博多遺跡がずば抜けて多く、前方後円墳成立以降もしばらくは北部九州が鉄素材の舶載や生産の拠点として維持された。鉄の管理が近畿地方に移行する様子は見られない。p217
<北條芳隆編『考古学講義』ちくま新書、2019>

【古墳時代】
・始まりは3世紀中葉の250年前後とする味方が有力。~4世紀後半。中期は4世紀末~5世紀末、後期を6世紀、終末期を7世紀。p222
・前期は鏡文化、中期になると鉄製の武器武具の文化に移る。p237
・中期に馬と馬具がほぼ同時に渡来した。p301
・騎馬文化は倭の社会の需要の高まりを前提とし、様々な地域と交渉をして取り入れていった。高句麗との軍事的な衝突が背景。脅威を共有していたので、半島南部から馬に関する技術が日本列島に入ってきた。p311
・前方後円墳が巨大化した理由。王陵という認識では矛盾する。先代の墓よりも大きい墓は僭越だから。p316 高句麗にとって、公孫氏政権や魏王朝への朝貢を行う倭は、半島南部への影響力を削ぎかねない明確な敵。p320 高句麗は有力5部族からなる連合政体であり、高句麗王は戦時首長だった可能性が高い。高句麗は東夷諸国のなかで最も早く律令制を整備し仏教を受容した。官僚制の確立。部族制と官僚制は本来相容れないがお仕着せで導入したものなので共存しえた。p322-324 倭人社会も首長制だったとすると、首長は民衆に惜しみない富の分配を強いられた。倭人社会の貨幣と租税は稲束と稲籾。古墳づくりに動員された人々に、膨大な量の稲籾が支払われた可能性が高い。これが富の分配。p399-340 前方後円墳が拡大したのは、人口規模が約1.3倍に増加した可能性があり、その分、富の総分配量も増加する。p341 また、倭王権内部の前代の大王と次世代の諸勢力との競合が、富の分配にも影響。大王位は世襲制のもとで継承された可能性は皆無に等しい。p342 当初、稲は鉄よりも劣る財だったが、寒冷化により稲の価値が変動した。水稲農耕に支えられていた倭人社会は寒冷期であっても相対的に耐性を備えていた。対して高句麗は穀物生産において常に不安定。鉄の流入や須恵器生産や馬の飼育など高度な技術が半島から日本へ移植されたのも、この背景があると考えられる。p344-345
<北條芳隆編『考古学講義』ちくま新書、2019>

【前九年合戦】
・背景 藤原説貞の子と安倍氏の婚姻をめぐるトラブル。婚姻を通じた安倍氏の勢力拡大に対する、安倍氏との結びつきが薄い勢力からの反発。p262
・この時期の東北地方 集落全体が濠などの防御施設で区画された防御性集落。富をめぐる争いの時代であったことを示す。p263
<佐藤信編『古代史講義戦乱篇』ちくま新書、2019>

【治承・寿永の乱】
・義経は頼朝の養子として保護下に置かれていたと考えられる。『玉葉』「父子之義」や『平家物語』「父子の契をして」。頼朝に男子が誕生しなかった場合、後継者となり得る立場。p36
<元木泰雄『源義経』歴史文化ライブラリー 吉川弘文館、2007>

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