見出し画像

鎌倉期前後の日中関係

参考文献:榎本渉「宋元交替と日本」『岩波講座日本歴史』中世2、2014年

【特徴】
貿易の盛行とその国内経済・文化への直接的影響
平安期の大概興隆は海商や入宋僧だが、当局の管理下に置かれていた。
→12世紀後半から13世紀前半にかけて、博多の宋人社会や周辺部での生活文化が全国的に受容されるようになる。
鎌倉時代には、各分野で「宋風」が顕著(あくまでも日本文化)。

  • 平氏の貿易関与は院近臣の立場で行われたもので、院政期の貿易関与の枠を超えるものではないという考えもある。対外交通自由化の意図は平氏にはなかっただろう。

  • 日宋間のメインルートは、博多(貿易の中心)~東シナ海~慶元(寧波)。荘園内密貿易論は否定されているが、これ以外のルートでの宋海商の活動自体は否定し難い。

  • 12世紀後半から14世紀半ばの2世紀は日中仏教界の直接交流が前近代で最も盛況。鎌倉時代の宋風文化は日中間を往来した僧たちによる。

  • 13世紀なかばには宋僧が日本に来るようになる。蘭渓道隆が初め。禅僧は中国的教養のため、外交面でも日中間をつなぐ存在となった。

  • 南宋の降伏に関する情報は、1277年に伝えられた。大宰府から幕府への報告あり(『建治三年記』6月8日条)。文永の役は1274年。元は日本貿易を制限していない。

  • 一方で、元は日本再征の準備。この間、幕府は高麗・元にスパイを送り込んでおり、1281年4月頃の襲来を予測する(実際は5月)など、意外と情報戦にも長けていた。

  • チャムパ、大越・ジャワ、カンボジアは元に抗戦したり返答しなかったり、元の実効支配を拒んだ。日本の抵抗も同じ文脈にある。

  • 1284年頃から全国各地に、商人でも高僧でもない在日宋人の事例が20件以上表れる。九州では見られず、内陸部まで広く分布。弘安の役で捕らえられ処刑を免れた捕虜とみられる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?