義江明子『つくられた卑弥呼――<女>のと国家』筑摩書房、2005年

「卑弥呼=神秘的巫女」「政治は弟が行った」というイメージ、男女聖俗二元論に対する疑問。古代の女性のあり方と、卑弥呼像はかけ離れている。
・「魏志倭人伝」における「会同」は単なる宴会ではなく、政治的意味合いを持つ共同体的集会だった。そこでは着席順やふるまいに「父子男女」で区別がなかった。
・ほぼ8世紀ころまでの日本は、男女がゆるやかに結びついて簡単に離合する社会だった。流動的な家族関係は戸籍ではなかなか捉えられないことに注意。
・外国からの使者に王は面会しないというのは、日本の古くからの伝統であり、初めて面会したのは文武天皇だった(@藤原宮大極殿)。中国では皇帝が外国の使者と面会する。
・卑弥呼は外国の使者以外の人々には「見える王」だったかもしれない。
・卑弥呼の行った外交は、ワカタケル大王とそれほど変わらない。
・日本の伝統では、性別・年齢を問わず国の命運をかけた戦に王が親征する。例えば、百済救援の際の斉明天皇。
・「魏志倭人伝」の「男弟有りて国を佐け治む」と稲荷山古墳出土鉄剣の「吾(ヲワケ)、天下を左治し」の用法が同じであるなら、邪馬台国で政治の補佐をしたのは卑弥呼の弟ということになるのでは。
・もし卑弥呼が神に仕え、夫のいない処女であったなら、食事の世話をするのは老女でなければならないが、「魏志倭人伝」によればその役目は男性だった。公式には夫はいなかったが、男性有力者が「夫」として存在していたと考えられる。
・古代の男女の名前は区別が曖昧なので、「~~ヒメ」「~~メ」ではない名前の中にも女性が含まれていたことに注意。例えば、「~~カヤ」「~~ヤ」も女性。もしかしたら、「タケル」という名前でも女性だった可能性もある。
・平城京時代では、女性についても「皇子」「王子」「王」の称号で記載されていた。
・5世紀までの王の名前は、鳥獣などにちなんでいる。
・ヤマト王権の初期王に関わる箸墓古墳の被葬者が卑弥呼かどうかは不明だが、女性の墓として語られていることは重要。
現代の卑弥呼像は、明治43年の内藤虎次郎と白鳥庫吉の論文によって定着していった。この時、古代の女性天皇たちは宗教的役割を負っていたり、中継ぎとしての認識がなされるようになった。
宗教的君主、生涯神に仕えた処女、姿を見せない神秘的巫女、政治は男弟が行ったというイメージは、近代日本が要請し、過去に投影した女性統治者像だった。

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