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夢だと思ってください、一

灯りが見えた気がした。
赤レンガの続く細い道、曲がり角になっている薄暗がりの向こうに。
彼女はもう一度フードを深く被りなおし、足を早めた。もうこれ以上、”この”氷に道をはばまれる気はなかった。この、頭の中にある霜に。胸の底にある泥のような霙(みぞれ)に。足に張り付く樹氷のような氷にも、彼女はもううんざりだった。
「逃れられないものだよ」
頭の中でいつかの声が響く。
一歩進むごとに氷は重くなっていくように感じる。
「諦めることは悪じゃない」
「本当に?」
彼女は、届かないことなど気にせずに、声を上げた。
もう、何が価値あることで、何が価値のないことかがわからなくなってしまった。あるいは、それらを求めること自体が間違っているのかもしれなかった。
それでも、彼女は氷を融かさなければならなかった。他に道はなかった。冷たさに痺れ、重さに身体を引き摺られながらも、灯りに向かって進んだ。

曲がり角に着いた。
彼女は、春の夕暮れを思わせる街灯のほのかな灯りのもとで、しばし休息することにした。もうここまで随分と長く、歩いてきてしまった。歩けなかったときもあった。ここまで来るつもりはなかった。それでも時は彼女を許さず、ときには地獄の鬼のように、ときには羊を囲い場に追い立てる牧羊犬のように、ひと時たりとも彼女を引くその手綱を緩めることはなかった。
「あれが私でもおかしくなかった」
勇敢だったかつての友人を思い出しながらひとりごちる自分がおかしくて、彼女は薄く笑った。いま、これまでで一番暖かいところにいて、それでも氷が完全に融けることはなかった。
頭の上、全力で跳躍して触れられるか触れられないかのところにある街灯の灯りを見て、彼女は感謝していた。何に価値があっても何に価値がなくても、彼女が見ようとしてきた世界そのものは、変わらないのだった。そのことが、妙に暖かいことに思えた。
「誰がいてもいなくても、何も変わらずある」
そのことは祈りのように響いた。救いのようにも思えた。
彼女は、蜃気楼のように、立っては消えるひと時の夢で在りたかった。
—また、時が暁を寄越した。




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