威徳院 旧蔵とされる「魔像」について③
これまで、「魔像」の説明文について筆者が感じた疑問を述べたが、「魔像」そのものに疑問がないわけではない。しかも、説明文では「魔像」が信仰の対象となっていた可能性を示唆しており、既存の仏像や神像の様式と比較することにより生じる疑問点も多い。今回は「魔像」そのものに感じた疑問について書いてみたい。
「魔像」群は、その異形の頭部をのぞけば、座像は如来形、立像は牛頭馬頭様の裸形を基にしているように思われる。仏像の様式から完全に逸脱している訳でもないと思われる点から、却って以下のような疑問が生じる。
なぜ顔・頭部だけが特徴的なのか?
通常、仏像の特徴は、顔・頭部だけでなく、手印、契印(持物)、衣、装飾、台座等の特徴により、その尊各が表現される。例えば、同じ明王であっても、五大明王はそれぞれ手印、持物、腕の本数、台座等に異なる特徴を持つ。この点で「魔像」は、顔・頭部だけが、それぞれの特徴を持ち、それ以外は雛形に基づくかのように同一様式で表されているという点が奇妙に思われる。不動三十六童子でさえ、手印、持物等がそれぞれ異なることを考えれば「魔像」群の表現は異様である。
顔、頭部の特徴が「図像的」なのは何故か?
仏像の顔・頭部の特徴は、例えば「憤怒形・怒髪」「三面三眼・宝冠上に馬頭」などと言葉で言い表すことができるものである。「魔像」の場合、その顔・頭部の特徴は、言葉で言い表すことが困難な「図像的」とでも言うべきもので、顔・頭部以外の特徴が、言葉で言い表せる単純なものであるだけに不自然に思える。
顔・頭部の図像的な特徴が妖怪絵に酷似しているのは何故か?
既にSNS上では「魔像」の顔・頭部が、江戸末期から明治にかけての妖怪絵に酷似していることが指摘されている。
氷厘亭氷泉氏は「魔像」の顔・頭部とよく似た妖怪絵として主に以下のものを挙げている。(「魔像と似たひとシリーズ」氷厘亭氷泉 2017 Twitter)https://twitter.com/hyousen/status/1138087169036210177
落合芳幾「東京日日新聞」 明治七年(1874)
歌川国貞「高尾丸劔之稲妻」文化七年(1810)
勝川春英「妖怪一年草」 文化五年(1808)
歌川豊国「善知安方忠義伝」文化四年(1807)
勝川春英「化物の娵入」 文化四年(1807)
河鍋暁斎「暁斎百鬼画談」 明治二十二年(1889)
鳥山石燕「画図百鬼夜行」 安永五年(1776)
鳥居清長「化物一代記」 享和二年(1802)
富川房信「妖怪雪濃段」 宝暦十三(1763)
恋川春町「妖怪仕内評判記」安永八年(1779)
氏によって例示された妖怪絵は、江戸末期から明治にかけて出版されたものであり、上記すべてを網羅的に「魔像」の図像的特徴として参照したとすれば明治以後でなければ不可能である。しかも相当な好事家でなければ、当時これらすべてを蒐集することはできなかったと考えられる。
威徳院が江戸末期には既に無住であり、明治4年に破壊された寺であることはすでに見た。「魔像」は何故「玉光山威徳院にあったもの」とされたのだろうか。
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