【ネタバレ】ミッドサマーはダニーの救済の物語


Mid sommarを観てみたいフォロワーがちょこちょこいるようなのでネタバレ全開の感想を纏めてみる。(2019年11月ごろに北米版Blu-rayを入手して英字幕で見たのでニュアンス掴めてないところあります)
読書感想文で成績が下がった人間だから期待しないで読んでね。


最初に

この映画は自殺教唆に成り得るって話されてたと思うけど結論から言うと私もそう思います。心が疲れていたり何かに追い詰められていたりして精神的に不安定な人は観ない方が良い。

へレディタリーと比較すればコメディなんだけどね!アリ・アスター監督の画面の美しさ!歌に踊りに素敵な儀式!突然始まるダンスバトル!今まで観た映画の中でぶっちぎりに気持ち悪いセックスシーン!これは夏至のフェスティバル!
へレディタリーでもそうなんだけど画面の仕込みがめっちゃくちゃ多いので背景にも注目するとすごく楽しめるよ!


あらすじ

「大学生が論文の研究テーマとして訪れたスウェーデンのド田舎の村でひどい目に遭う」
以上です。いやほんとここからブレない。大筋としてはそれ以外特にない。じゃあどうしてそれが救済の物語になるのか。それは主人公ダニーを取り巻く状況と彼女の精神状態にある。

主人公のダニーは冒頭、妹の巻き込み自殺により家族を失う。
これが真冬の出来事で、嘆き悲しむダニーを彼氏のクリスチャンが抱きしめて慰める。真っ暗な空から降りしきる雪のシーンはパッと明るい夏の空に変わる。
この黒い画面からパッと真昼に切り替わる効果は確かへレディタリーでもあったんだけどすごい目を引く。掴みは十分だ!
季節は夏に変わるけれどダニ―は未だ悲しみの中に居て、元気を取り戻せずにいる。

そんな折り、クリスチャンは友人と共に(文化人類学部らしい)スウェーデンに行くことに。
勿論ダニ―とは口論になるんだけど話し合いの末ダニーの同行も決定する。行き先は友人のひとり、ペレの故郷の村。もうこの時点でめちゃくちゃ怪しいね。
ペレは両親を亡くしているそうで、ダニーの気持ちも分かるよと彼女を慰めるものの上手く届かない。
そうこうしているうちに場面は変わってスウェーデンへ。この時、カメラが一回転して天地が逆転するカメラワークがあってそれが非日常への始まりっぽくて相変わらずカメラワークがすごいなぁ…という気持ち。
へレディタリーでは「どうしてそこ映すんですか?やめてください」って恐怖を覚える度に言ってたんですけどミッドサマーでも元気だった。やめてください。

道中ダニーはドラッグ(マッシュルームティー)をキメることになり自身の手から草が生えてる幻覚や皆に笑われている幻覚を見る事に。この辺ホラーっぽかった。
村では歓迎の印に花っぽいもの渡されるけどこれもどうせドラッグなんやろ(猜疑心)
というのもこの村、儀式等でめっちゃくちゃドラッグを使う。事あるごとに色んなドラッグを使う。
冗談かと思うんだけど「この粉を吸え!」もあるし「この煙を吸ってね😍」もあるし「このジュース飲んで♡」もある。ドラッグまみれ。

ホルガ村でのんびりしつつ明日は大切な儀式があるのだと伝えられる。
一行は大切なお客様なので村人に歓待され歓迎される立場。のんびり過ごすんだけどもクリスチャンを見つめる怪しい視線。
ペレの妹、マーヤである。この子、めちゃくちゃ逞しい恋の狩人です。
あの手この手でクリスチャンにアプローチするのでダニーは気が気じゃないし、クリスチャンも割とまんざらでもない。

この村の大切な儀式は姥捨て山的なもの。ただし捨てるわけでなく老人たちは崖から飛び降り死を選ぶ。
ここのシーンがグロい。真っ昼間だし画面が明るいのですごくよく見える。くっきりはっきり。
ひとりは頭から落ちた事で即死できたものの、もうひとりは足から落ちたせいで死ねず、痛みに苦しむ。この痛みに苦しんでいる様を見て、村人も痛みに苦しみ泣き叫ぶ。
そして死ねない彼の頭をめっちゃでかい木槌で叩いてとどめを刺す。
まぁ~~外部から来た一行には到底受け入れることはできない儀式。なのでダニーやペレの弟が連れてきたシモン、コニーは村を出ようとする。
しかし結局は出て行けず。
ダニーは「崖の下に倒れた両親と妹の死体」「クリスチャンたちが自分を置いて逃げ帰る」悪夢を見る。
どうもこの前にクリスチャンと口論になっていて「ひとりで帰れば?」みたいなことを言われたようで。ディレクターズカット版に入っているとか。クリスチャンお前…。

書くのだるくなってきたので省くんですけどその後ダンスバトルがあってダニーが優勝してメイクイーンになったりとんでもセックスがあったりしてクリスチャンはクマの生皮を被らされて生贄として燃やされることになります。

~ハッピーエンド~


ダニーの心の旅

この映画の事ホラーって言いたくなくて、何でかって言うとこれはダニーが真冬の悲しみの淵から蘇って真夏に生き返って彼女の心が救われる話だから。

ダニーは家族に死なれて、自分ひとりだけ置いていかれたことが耐え難い苦しみ、悲しみになっている。彼女にはもうクリスチャンしかいないのに彼はダニーを重く感じていて頼れず、だからこそ追い詰められて不安で助けを求めている。
クリスチャンとダニーの関係ってこの時点でもう破綻寸前で、クリスチャンは劇中でメンヘラ彼女重いよね的な事を友人に言われても否定しないし、ペレに言われるまでダニーの誕生日も忘れてる。ペレはダニーの似顔絵をプレゼントしてくれるんだけどね…。
元々ダニーには精神的に不安定なところがあって、クリスチャンはそれを重く感じているわけだけど、冒頭で家族を失ってしまったダニーを見捨てて別れることもできずここまで来てしまった。
ペレにも「クリスチャンはダニーを安心させてくれるの?」的な事を言われるけど、ダニーもおそらくはクリスチャンの気持ちが離れていると勘付いているのか、ペレの問いには答えられない。

別にクリスチャンも嫌な男ってわけではなくて、(嫌な男ってだけなら仲間のひとりであるマークの方がよっぽど嫌な男)ここが絶妙だなぁって思うんですけどダニーのことが嫌いではない。彼女のことを大事にする気持ちがないわけじゃない。
でもそれがダニーの救いになるか?って言われたらそうじゃない。何故ならクリスチャンはダニーの悲しみに寄り添いきれないし、自己の意思を捻じ曲げられていたとはいえダニーを裏切ることになってしまった。

ホルガ村の人たちは宗教的な価値観としてどうも「他人(家族)の感情を共有する」っていうのがあるようで、飛び降り自殺のシーンで痛みに泣き叫んだように、ダニーがクリスチャンの裏切りを知り、悲しみに泣き喚くシーンで一緒になって泣き叫び、悲しみを共有する。
ダニーがしてほしかった事ってきっとそれで、彼女は悲しみを共有してほしかったのだと思う。悲しみを共有して寄り添って、一緒に悲しんで泣いてくれるひとが欲しかった。そしてホルガ村の人々はダニーを「家族」として取り込もうとする。Familyって結構な回数、彼女に言ってたりする。
途中ダニーに食事の準備を手伝って、って話しかける女の子がいるんですけど、ダニーが「お客様」=「生贄」のままなら村のことは手伝わせないように思うので、あの時点で既に彼女を家族として取り込むことは決まっていたのではないかな。
例のダンスバトルに誘われるのもダニーだけ(タイミング的にコニーはもう無理なんだけどね)だし。
ちなみにダンスバトルはダンスバトルなのであれは決闘です。バトル中に相手と心が通じ合うシーンもあるぞ!

村の人々はダニーに選ばせる。クリスチャンを生贄にするか、村の男をひとり生贄にするか。メイクイーンであるダニーにはその選択の自由がある。

クリスチャンではなく、家族に置いていかれてひとりになってしまったダニーをひとりにさせず、悲しみを共有し共に泣き、家族として、村の一員として愛情を示して取り込もうとするホルガ村のひとたちを選んでしまうのは仕方がないというか、ダニーの心を思えばそれを選ぶのも当然で。
最後にダニーは劇中で初めて満面の笑みを見せる。本当に無邪気で朗らかな笑顔。
あの瞬間、彼女は救われたのだと思う。



おわりに

この映画が自殺教唆に成り得るって言われてたり、主演俳優陣にカウンセリング行ったほうが良いって言われてるのはこのダニーの心の旅の部分でなんだと私は思ってます。
客観的に観てもダニーの心が救済される話なんだなぁと解釈してる以上、この映画に主観的な救いを見出す時、その人は間違いなく心が疲れているんだと思う。
最近ジョーカーを観たんだけど、あの映画で危ういなぁと感じるところがアーサーとの「怒りの共有」だとするとミッドサマーの危ういところはダニーとの「悲しみの共有」なのだと思う。
共感して一緒に悲しんで一緒に苦しんでくれて寄り添ってくれるひとたちがこの映画には確かに登場する。
けれどそれで救われるのはダニーであって、鑑賞している私が「救われた」と、彼女に同化したと感じた時は潔くカウンセリングに行くよ。