ジョジョリオンのオラオララッシュ

 ジョジョリオンにおいてオラオララッシュは必殺のキメ技ではなく、常に悪あがきのような形で繰り出されてきた。なぜジョジョリオンではオラオララッシュを爽快なフィニッシュブローとして演出しないのか?今回はこのことを起点にジョジョリオンの演出方針、また、作品全体の方針について考えてみよう。ということで、”昔のジョジョならオラオララッシュでブッ飛ばしていたところだがジョジョリオンではそうではなかった”例として、田最環との決着を振り返ってみよう。

 かつてのジョジョなら田最環のような奴はオラオララッシュでぶっ飛ばされて再起不能になっていたことだろう。東方鳩の恋心を利用し、踏み躙り、己の利益の為に利用した男だ。それはもうスティーリー・ダンくらい殴られたことだろう。しかし田最環がオラオララッシュで裁かれることはない。田最環へのとどめの一撃はジャブみたいな地味なパンチ一発だけだ。しかも絵的にさほど大きく描かれず、地味な一コマの中で。田最環の最期のシーンとして大きく描かれたのはむしろ通行人たちが、「なんだ、フィギュアか」とか言いながら方々へ立ち去って行くシーンだった。ジョジョリオンはゲスな敵キャラを(それこそスティーリー・ダンみたいに)爽快にブッ飛ばす漫画ではない。田最環のような利己的で冷酷な悪役であってもその存在には哀しみがある。行き交う人々は田最環の最期を、『フィギュアが破壊されたようだ』としか認識しない。『今、ここで一つの命が失われた』と認識されることは決してない。岩人間はその最期すら、命が失われたことすらも認識してもらえない。岩人間はあくまで悪役として描かれているが、しかしその種族としての宿命的悲しみを決して無視しない。むしろ、その悲しみをこそ描いて行く。それがジョジョリオンだ。

 たとえ主人公と敵対する者であっても、その存在には悲しみがある。ジョジョリオンでは、決してその点を蔑ろにはしない。ゲスな敵キャラを爽快にブッ飛ばしておしまい、という快楽原則には持っていかない。そのためにオラオララッシュをフィニッシュブローとして用いない。おそらくそういうことだろう。

 だからジョジョリオンは(過去のシリーズと違って)爽快感が薄くて面白くない。そう感じる向きもあるだろう。それはそれでいい。でも俺は思っちゃうね。第5部あたりからシリーズのテーマとして掲げてきた「存在の悲しみ」が徹底して表現されたジョジョリオンはジョジョシリーズの一つの集大成であり、旧シリーズとは違った静かで趣深い面白さが有り余り散らかしてるなって。違いますか?

【終】

小遣いとして使う