最果タヒについて考えている

ここ3日ほど、最果タヒについて考えている。

こんな辺境のエントリーを読む奇遇な方はとうに知っているかと思うけれど、最果タヒとは詩人で、6つの詩集といくつかの小説を本として出版している。
ついこの間、2月3日にもNHKでドキュメンタリー番組が組まれるほどの注目を集めている。
(そしてこのエントリーもその番組の影響の産物である)

私は読書はわりあい好んでするものの、その中に基本的に詩は含まれない。
詩の楽しみ方が分からないというか、一般的に行われている詩の楽しみ方にかなり強めの疑念があって(音読して言葉の響きを…みたいなものとか、お気に入りのフレーズを暗唱できるほど書き留めたりとか)、そもそも詩って、日本語のような助詞が文末にまとわりつきがちで、頭韻も脚韻ももったりする言語でやる言語芸術じゃなくない? みたいな拒否反応がいまだに払拭できない。

そんな人間が、なんで最果タヒとその詩に言及しようかとしてるかというと、恐らく現代日本で最も最果タヒこそが現代における「詩の言葉」の限界性の輪郭を探り当てている感じがするからだ。
「感じがする」で留まっているのは私の現代詩に対する視点の広がりのなさと低さのせいで、他にも同様の理解ができる現代詩人はいるのかもしれないのだけれど。
とにかく、その「感じがする」おかげで、最果タヒの詩は手に取れてしまう。


愛が愛という形をしているのはおかしい。まっくろい箱でなきゃおかしい。心が下か上かはどうでもいいから、私が見てきた生活すべての、見えてなかった部分を埋めて、早くオールOKにしてくれよ。

最果タヒ 「雪」より

この詩の中の世界では、愛は均一の、恒常的に信用できる概念ではない。気がする。同じ二人の間であってさえ、1秒後にどんな温度になってどんな表情になってどんな手触りになっているのか分からないものだ。
愛について唄うポップスが世界に満ち満ちていくほど、本当に一様にそうやって愛って言葉は便利に使っていいの? という疑問も膨らんでいく。
愛って、どれくらい信用していいものなのか、どれくらい命綱にしていいものなのか、分からない。そんなもん頼りにしてたら、いざというとき死ぬのでは? 現にこうしてる間にもいくつもの破断して、落下している愛たちがいるのでは?

その違和を切り取るさえざえとしたまなざしが、言葉を扱う手つきが、たとえばロマン派詩人やその系譜の詩歌を一切理解し得なかった私の中にどうやら響いているらしい。


一方で、SNSを通じてミニマムな語りが無限に増殖している現代において、どうやって詩の言葉を広げていくか、最果タヒは非常に意識的だ。
インベーダーゲームの敵キャラを詩の一字一字に置きかえる「詩ューティング」というゲームを作ったり、美術館を使ったインスタレーション作品を作ったり、他のジャンルのアーティストとコラボレーションをしたり……

なんかこのまま文章続けても面白いドライブが出来そうにないので、とにかく、結論として話みんな「水野しずの詩」を読んでみて欲しいということだけである。最果タヒの「水野しずの詩」、最果タヒの「水野しずの詩」どうかよろしくお願いします。あ、沿道の皆様ありがとうございます。どうかよろしくお願いします。

http://tahi.tumblr.com/post/101263784897

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