どこだれ⑨虫に愛着を持つ日
その滞在場所はすぐ後ろに山があって、よく言えば自然が近く、表現を変えれば色々な動物が家の中に転がり込んでくる環境だった。
夜中、寝ようとして布団に潜り込むと天井のあたりでなにやらごそごそ音がする。パチッと照明をつけると、梁の上を走り去る後ろ姿が見え、大きさとしっぽの長さから察するにネズミだった。朝、リビングで作業をしていると視界の端に何かが動く。視線を落とすと足元を蜘蛛が駆け抜けていく。夕方、玄関の扉を開けると上から何かが肩をかすめて落ち、見るとすごい速さでかなりの大きさのムカデが走り去っていった。
最初のうちは、それらと出くわすたびにヒッと声を上げ、「ねずみ獲り機」や「殺虫剤」を身近に置き、姿が見えるとすかさず使用した。その動物たちはあくまで侵入者で、排除すべき存在だ。そんな考えに変化が訪れたのは、些細な出来事がきっかけだった。
滞在していた家は2階建てで、2階の廊下の床には等間隔に隙間があるデザインだった。歩くと1階からは2階が、2階からは1階が見えた。複数人が共同生活をすることを想定して、防犯上の面から見通しがよい設計にしたのだと思う。最初のうちは歩きながら下が見える廊下にひやひやしたものだが(結構高さがあったので) 、段々と慣れて何も思わなくなった。
ある時、その廊下を歩いていると、足の端になにかがこつんと当たる感覚があった。「あっ」と思ったら、隙間から黒い塊が落ちていった。コン、と音がして1階にある机の上で止まった。降りて見てみると、それは結構な大きさのカミキリムシだった。足を上にした状態で、立派な触覚が左右に広がっている。鉛筆でおそるおそる触ってみたがびくとも動かない。ああ、殺してしまった…。2階で私の足に当たったことで、丁度隙間に入ってしまったのだろう。人間でも高く感じるのだから、虫からしたら相当な高さを落下したことになる。そりゃあ致命的だ…。申し訳ないことをしたなあ、と思う反面、もし自分の足でしっかりと踏んでいたらと思うとぞっとした。パリっと虫の身体が割れる音がして、足の裏にその感覚が残っただろう。机の上でひっくり返っているその身体を見ながら、どうしようもなかったのだと自分に言い聞かせ、しばらくそのままにしていた。
その日の夜も、ひっくり返った虫の身体が乗ったままの机で作業をした。死んでしまって不憫だと思うけれど、私もそんなに虫が得意なわけではないから、どうしていいのかわからなかったのだ。翌日の朝、そのままになっている虫を見て「さすがにかわいそうだな」と感じ始めた。家の外の、どこか土のあるところに埋めてやるほうがいいのだろうか…。
そんなことを思いながら作業をし、昼食を作ろうと顔を上げた、その時だった。
カミキリムシが、足を下にしてたたずんでいた。
「えっ」
二度見した。よく見ると、触覚がかすかにひょろひょろ動いている。間違いない。カミキリムシは、生きていた。
「えっ…?」
声が出た。
「えっ、死んだんちゃうん…?」
気づくと話しかけていた。
「どういうこと?ただ気絶してただけってこと?」
カミキリムシはゆっくりと触覚を動かしながら、首をほんの少し傾けていた。その様子はまるで、起きたばかりで状況がつかめていない者が、ゆっくりと世界を確認しているかのようだった。
そうか、虫って気絶するのか……。
私は生まれて初めてその事実を認識し、同時になぜか目の前の生き物に感じたことのない愛着を持ち始めていた。この生き物は、廊下にいたら突然身体が宙に浮いて、つよい衝撃があり、長い間気を失っていて、気がつくと見たことのない状況にいたのだろう。そして、その現状をいま必死に認識しようとしているのだろう…。
ひょこひょこ動く触覚を見ていると、それまでこの家で出会った色々な動物のことがよぎった。
ネズミにしたら、丁度よさそうな寝床を見つけたと思ったのに突然電気をつけられて、びっくりしただろう。蜘蛛にしてもムカデにしても、心地よく雨がしのげる空間を見つけてのびのびしていたのに、人間によってその環境が破られ、相当驚いたに違いない。さささっとすばやく姿を消す動物たちの姿を思い出し、もしかしたら侵入者は自分なのではないか、と思った。私の方がよっぽど、自然の中に勝手に入り込んでいるのだ。
未だぼーっとしているカミキリムシを見ながら、近くのコピー用紙を1枚取り、その足の下に差し込んだ。虫はすこし動いたが、おおよそおとなしくしていた。私は扉を開けて家の外に出て、ちかくの茂みに丁度良い葉を見つけ、そこにカミキリムシを乗せた。達者でねとか声をかけたかもしれない。
それ以来、虫が現れても自分の心がざわつかなくなった。家の中で、町で、川辺で動物を見かけるたび、「ああ、そちらも色々大変そうだね」と思って見ることにしている。