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2024.2.23「ヨイチの旅」

うるうアドベントカレンダー24日目。
今日は2024年2月23日。
4年前の今日は、うるう横浜公演5日目です。

私は世の中から完全にあまった。
私ひとりがいなくなれば、世界のバランスはとれるんだ。

私は旅に出た。

この世に彼の秘密を知る者が誰もいなくなったヨイチは、旅に出ます。



伊能忠敬の測量

とにかく、時間だけがあった。
数えられるものは、何でも数えた。
例えば東京日本橋から京都三条大橋までを歩いたら、964823歩だった。

ヨイチは旅を続ける中で、歩いた距離を歩数で数え続けました。
「数える」ことと共に日本中を旅するヨイチからは、江戸時代の測量のために行われた旅を想起させられます。

伊能忠敬(1745.2.11-1818.5.17)

はじめて実測による日本地図を完成させた伊能忠敬は、1800年から1816年まで17年をかけて日本全国の測量を行いました。

伊能忠敬が測量を始めたのは56歳の時でした。それ以前は家を継いで造酒業や米穀の取引を行っていましたが、49歳で隠居し、19歳年下の高橋至時に入門して天文学・暦学を学び始めます。

高橋至時は幕府天文方でした。幕府天文方は上の記事で取り上げたように、当時の暦を作る職業です。

当時、暦学者の間では地球の大きさが問題となっていました。暦を作るには地球の公転等に関する計算を行うため、地球の円周の長さを知る必要があります。そのためには、緯度一度の正確な距離を確定させなければなりません。
こうした状況を知った忠敬は、緯度一度の長さを知るために幕府に願い出て測量を始めます。

彼が最初に測量したのは蝦夷地、北海道でした。高橋至時は地球の大きさを知るためにはより長い距離を測る必要があると考え、忠敬に蝦夷地の測量を勧めました。
つまり伊能忠敬の測量もまた、「暦」に深い関係があるところに端を発していました。

寛政12年(1800年)閏4月19日に江戸を出発し、蝦夷地の測量へと向かいます。忠敬は180日をかけて往復3200kmを歩きました。

北海道の外周をぜんぶ歩いたら、6017522歩だった。

伊能忠敬の測量の多くは間縄(一間ごとに目盛りを付けた測量用の縄)で行われましたが、蝦夷地で行われた第一次測量のみは歩測、つまり歩幅と歩数を使って測量が行われたと言います。当時の忠敬と同じやり方で、ヨイチは北海道の外周を測ったことになります。
ちなみに第一次測量当時、伊能忠敬は55歳。1860年生まれのヨイチが旅に出たのは20歳、しかし実際の生きた年数は60年なので、近い年齢であったとも言えます。

忠敬の第一次測量では、北海道の北岸側と測量困難とされた場所での測量は行われませんでした。そうした未測量の地を引き継いだのは、伊能忠敬の弟子である間宮林蔵でした。

間宮林蔵(1780-1844.4.13)

間宮林蔵は第一次測量中の伊能忠敬に蝦夷地で出会い、その後幕府の蝦夷地御用雇となって測量に従事します。忠敬が着手した蝦夷図は間宮林蔵に委任され、彼が地図を完成させることになりました。

それにしてもヨイチが歩いた北海道の外周は相当な距離です。伊能忠敬も間宮林蔵も、蝦夷地全てを一人で歩いたわけではありません。
忠敬の第一次測量の際は、蝦夷地が寒くなる前に急いで測量を行う必要がありました。一方でヨイチが日本中を旅することができたのは、彼自身も言うように「時間だけはあった」からなのでしょう。


長く生きる者の「旅」

上の記事で取り上げた八百比丘尼は、日本全国を旅して回ったという伝説が残されています。その中で木を植えて回ったことから各地に八百比丘尼にまつわる木が残され、植樹伝説となっています。

長い命を得た者にとって、一番苦しいことは有り余るほどの時間なのかもしれません。
同じ時代に生きた者はこの世を去り、どこかの社会に属することも難しい。そんな状況で選択される道の一つに「旅」があるのかもしれない、と想像されます。

余った。
私は世の中から完全に余った。
私ひとりがいなくなれば、世界のバランスはとれるんだ。

ヨイチがこう言って後ろを向く瞬間、ほんの一瞬だけ彼が自ら死を選び取る可能性のことを考えてしまうことがあります。
実際にはヨイチは杖を手に取って旅に出るのですが、うつむいて照明の影になった彼の表情を見るたびに、そんな暗い想像をすることがありました。

八百比丘尼の伝説にはさまざまな形がありますが、その多くで「入定」といった形で自ら命を絶ったと言い伝えられています。
彼女もまた、長く生きることの苦しみを抱えていたのだろうと想像させられます。


さあ最終コーナーを曲がって直線コースに入りました、
日本は、先頭集団に、入っているぞ!
がんばれ日本! がんばれ日本!

ヨイチがラジオをつける時、「がんばれ日本」と言って応援をし続けていることがずっと気になっていました。
正式な戸籍を持つこともできないであろうヨイチは、きっとこの先日本を出ることはないでしょう。152年間この国で生き続けてきた彼は、今でもなお「がんばれ日本」と言って応援を続けます。

ヨイチは日本中を旅する中で、いろんな景色を見て、多くの人々と出会ったのだろうと思います。彼が愛した家族やコヨミさん、呉村先生といった人々がこの世を去ってしまった後でも、ヨイチにとって自分の住むこの国が応援するべき場所となっているのは、こうした旅の日々の記憶も深く結びついているのではないでしょうか。

この世でたった一人余ってしまった時に選び取ったのが「旅」であること、その旅を経た彼が今でも森の中で生き続けているということを思うたびに、ヨイチという人の愛の深さや美しさに心を打たれます。


[参考文献]
渡邊一郎『伊能測量隊まかり通る : 幕府天文方御用』NTT出版、1997年
鳴海風『星に惹かれた男たち : 江戸の天文学者 間重富と伊能忠敬』日本評論社、2014年
渡邊一郎『伊能忠敬の日本地図(河出文庫 ; わ9-1)』河出書房新社、2021年


【うるう日記】2020.2.23 横浜公演5日目

一階後方通路側。さえぎるものがなく、道が続いている。
このまま森に入れそう。
静まり返る時、波のように右から左に、前から後ろに、広がっていった。
通路に体が向く席だったので遮るものがなくて、グランダールボが現れた瞬間に風を感じた 本当に風が吹いたように感じた。
 
 
・「じゃあもうオバケでいいです、それはすべて私が、おばけの、うるう? だからです! ガオー」
・あんたがたどこさ、後半に子供が笑っていて嬉しい。
・「おもちだ! おもちだ! 棟上げ式だ!」長め→「これだけアピールしたんだから…」
・「いつもひとつたりない」チェロが響きすぎず声と対等。狭く、近い。
・「足りそうだったのに!」のあと6つ。6つ目をとった時に「いいの?!」隣の人が息をのんでいた。
・串と串を重ねる時、「想像して!これはだれに向かって言ってるんだ、想像して、森の小動物たち」
・「じゃあね! また明日」の時、暗転直前に少し膝を曲げながら手を振っていたのは、マジルの姿を遠くまで見つめていたのか、穴に落ちて膝を痛めたからだったのか。
・コヨミさんのことを考えて泣いた。
・畑について、正面でちょっとまって、という感じでマジルを止め、畑を広げる。
・ふくろうオバケ、映像増えたのいつから?
ふくろう顔→ふくろう顔コマ4分割→ふくろう顔コマ8分割 間に木々
木々→松ぼっくり→木々、葉っぱ 木々もより細かい絵が増えていた。
・左手を取られて強く引き寄せられて抱きしめられ、頭に手を添えて抱きしめるものの、すぐに引き離す。これ以上はいけないというような引き離し方 。
・「まだわからないのか!」の声、脅しの構えを作ってはいるのだけど、感情の迸りが感じられて 、顔に赤味が差していたのが強烈に記憶に残っている。再再演において脅しのポーズの中に影を潜めていた彼の苦しさが戻ってきたような感覚。
・今日は木の上での「あ、本物がないた」はあった。 「危うく友達になっちまうところだったぜ」のニュアンス、横浜から戯けたように聞こえなくなっていて、言葉尻はそのままでも悲しくて仕方のない響き方をするようになった。
・待ちぼうけ、「ころり転げた木の根っこ」が消え入るようだった うるーう、の直前のうるう、が泣くように引き伸ばされて震えていて、声が裏返っていた。うるーう、はほとんど慟哭のようだった。
・うるーうの慟哭、確実に以前よりも地声の部分が増えていて、本当に苦しい声だった。あの声のことを多分永遠に忘れられない。
詩が出た瞬間は静止していた。木から降りる時も一瞬羽根を閉じてふくろうのように身を縮めていたし、森の奥に入る時も羽根を広げて飛ぶようにしていた。
・カレンダーのシーン、大木が切り倒される瞬間に青弦さんが正面を向いており、やはりその瞬間を彼がじっと見つめているように見えた。
・待ちぼうけの楽譜が出てきた時、「ああ」という声は漏れず、黙って本に挟み、早足で棚にしまった。アルブーストは「ねえ〜大丈夫?」と言っているようだった(かわいい)。
・マカを捕らえて右耳、左耳、を捕まえた時、両手も耳の動きとともに上下に動いていた。
・上手側だったからか、再会までのカノンの間、ヨイチが駆けてくるのを待つ彼の気持ちと、彼を探し続けるヨイチの気持ちが同時に襲ってきて、呼吸が荒くなった。

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