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誕生日を儀式から感謝の日にしたい。ただ、その考え方が偏屈か?(笑)

先日誕生日を迎えたのですが、それに伴う思いが年々変わってきていることに気づきました。

誕生日メッセージ

今、Facebookをはじめ登録しておけばフォロワーの方に〇〇さんが誕生日です。と表示される機能もありとてもコミュニケーションが図りやすい時代だなと感じています。なかなか会えない友人や、何かきっかけがないとやり取りのない友人にも誕生日をきっかけに連絡を取ることができたり、私の中では年賀状のようなメリットもある。今までともに過ごした時間を振り返り、お互い年とったなぁなんて思ったり今でも繋がってくれてありがとう。という思いを伝えられるきっかけでもある。

しかし、数年前から私自身としては誕生日を非公開にしています。なぜかというと、おめでとう!と喜べる歳ではなくなってきた…というのもありますが(笑)事務的なメッセージというか、そのような内容を感じることが増えたからです。(もらっておいてなんですが)

それでもコメントをくれるのは有難い。でもなんというか、「お誕生日おめでとう」ただそれだけの言葉が、むなしく感じてしまう時があるのです。Facebookでお知らせが来たから、ただそれだけ。というのがものすごく伝わってくる。

だから非公開にして、私から誕生日が過ぎた後に、今までの年月の想いを私からみなさんへ伝えてる。この歳までなんだかんだ過ごせてきたのは、時に相談に乗ってくれたり、一緒に笑ってくれたり、叱ってくれたり、一緒に過ごしてくれた皆さんのおかげで今があり、そしてその私はこれからこんな風になっていきますよ。ということを伝える機会にしたい。その上で、これからも一緒に過ごそうね、とか長生きして頑張れよ、なんてコメントもらえたほうが断然嬉しいのです。偏屈でしょうか(笑)

それはプレゼントでも同じ気持ちがあって、10代や20代のころは高価なブランドのものなどをいただくことが、自分の存在価値を認めてもらえているようで嬉しかったけど、ここ数年はどんなものでも、プレゼントを選ぶにあたって私のことをどれだけ考えてくれたかが伝わってくるもののほうが断然嬉しい。

歳を重ねていくほど、時間が有限であることをひしひしと感じてるから。大切ではない人のために、あまり時間はかけられないし、ほかの人からの頂きものを使いまわしちゃう?なんて思ってしまうことだって、私もあります。そんなことをしている私自身がいるからかな。相手のために取り寄せた、とかショッピングモールを歩き回った、とか聞くと貴重な「時間」も一緒にプレゼントしてもらった気持ちになって、とても嬉しいのです。

大げさに、しかも偉そうに言わせてもらえるのであれば、ただ、プレゼントが欲しいのではなく、私が生きていることをあなたの人生の時間を使って祝福してもらえていることのほうがよっぽど嬉しい。時間を使ってくれているときは、考えてくれていると思うしね。

もちろん、それが高価なものだったりすればそれはさらに嬉しいけど(笑)

メッセージを送ったり、プレゼントをすること時点で、どんな形でも多少なりとも相手のことを思い、数分でも相手のために時間を割いているのだから贅沢を言うのではない!と叱られそうだけど、だとしたら割いていただかなくても大丈夫と伝えたくなっちゃうんだよね。

やっぱり偏屈かね。。。

迷惑とか、嫌とかそういう話ではなくて、おめでとう。と思った時にその言葉を言ってくれるだけで十分だし、これがいいと思う!と思ったものをプレゼントしてくれたらどんなものでも喜ぶし、なければ無いで全く問題ない。事務的であったり、儀式的なやり取りが苦手なだけ。そう、儀式的な感じがとても違和感なんだ。

歳を重ねてきて、今こうして生きて過ごしていることも奇跡と思うことが増えてきた。その中でいつもそばにいてくれたり、時に思い出してくれるだけで十分なのです。いつもプレゼントをもらっているのです。

そんなことが理由で誕生日を非公開にするような偏屈な私にも、誕生日を知っていてくれて覚えてくれている人がいる。それは感動の域を通り越してものすごく幸せに思います。人間関係が増えていく中で人の誕生日を覚えていたり、気にかけてく行くことは大変だと思うから。

それだけで十分。

誰も何も言ってくれなくなったら、誕生日を公開に切り替えるかもしれないけど(笑)

同じ時代に生まれ、私の周りにいてくれるだけで本当にありがたい。だからいつもありがとうって伝えたい。そして誕生日には生まれてきてくれてありがとう!って心からやり取りができる日にしたいだけなんだ。

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