“人情”でコロナ検査しちゃいけないの?

私はいま、立教大学の映像身体学科という文系学科の常勤の員だ。つまりそこの正職員。もともと医者だったのだが、大学教員になるときにそっちを常勤として、医者としての仕事は非常勤にすることにした。

でも、こんなことを言うと大学の教員としてちゃんと仕事してないんじゃないかと思われるかもしれないが、非常勤医として医療現場にいる時間もけっこう長い。授業やゼミ、会議のない時間はけっこういっぱいいっぱいに診療を入れている。とくに病院には夏休みも春休みもないから、一年を通して考えると、大学と医療現場にいる時間は同じくらいかもしれない。

だから、あなたの仕事はと問われたら、やっぱりまず「医者です」と言いそうな気がする(大学はテキトウにやってる、という意味ではないです。そう聞こえたらごめんなさい)。

今年はとくに年頭から新型コロナウイルス感染症の問題が起きて、いろいろと私も巻き込まれた。精神科医は関係ないだろう、とよくツイッターでも言われるけれど、精神科医としても、あとは近年、勉強を始めた別の科の診療でも、なんだかんだとコロナとかかわる場面があったのだ。

だからツイッターでもこの新しい感染症に関して情報を発信してくれている同業者のアカウントなどをよく見たのだが、「えっ」と驚くことが多かった。世界的に猛威を振るうコロナに対して誰もが不安でいっぱいなのに、「熱があってもすぐに病院に来ないでください」「検査を受けたいというのは間違いです」などと言い放つ医師たちがあまりにも多かったからだ。

私は3月と4月、ほとんど毎晩のようにあるところで、コロナに関する心の悩み相談をチャットで受ける仕事にかかわっていたのだが、そこでも悩みのかなりの割合(今後、集計の予定)を占めていたのが、「心配な症状があるのに検査を受けられない」「保健所の相談電話がつながらない」というものであった。中には「それはたしかに検査を受けた方がいいですね」と言いたくなるようなケース(高熱、咳、呼吸の苦しさなどが続くなど)もあった。

ツイッターで「検査は必要なし」と主張する医師たちの理由はさまざまだったが、最近の医師国家試験にもよく出る「ベイズ統計(事前確率が事後確率に影響を与えるという 1763 年に発表され近年になって再注目されている理論)」を用いて、「コロナは有病率がごく低い病気だから、たとえ検査結果が陽性でも実際に感染している人の割合は数パーセント。多くの人は偽陽性なのだ」とか「逆に感染していないのに陽性と出てしまう偽陰性人もわずかだがいる」という意見もよく目にする。それをベイズ統計の公式を使って説明するものだから、専門知識のない人は「よくわからないけどそうらしい」と思ってしまうに違いない。しかも、それを説く医者はとても頭が良い人にも見えるだろう。

医療現場でこのベイズの定理は、「むやみに不必要な検査をいっぱいするな」「検査結果だけに頼らずに、きちんと有病率の知識や検査以外の診察を大切にしろ」という目的で用いられるのであって、コロナの流行が大きな社会問題になっている中で、「熱がある。咳もちょっと出て」と言っている人に「あのね、ベイズの定理というのがあってこれこれこうでね…だから検査に意味はないんですよ」と検査を断るために使うのは、本末転倒だと思う。

さらにいまは、個々の患者さんの診断以外にも、広く感染拡大を防ぐという防疫が必要な状況だ。沖縄県でPCR検査を積極的に進めてきた総合診療医の徳田安春医師はこう言う。

「いま戦略的にPCR検査を拡大しようとするのは、感染者の感染力を確認し隔離するためで、しかも無症状者が問題です。 

感染予防にとって大事なのは、Aさんに感染しているウイルスがBさんに感染伝播するかどうかです。Aさんが無症状なら咳も痰も出ません。その時の感染力の有無は唾液や咽頭液にウイルスがいるかいないかが決定的です。発声など唾液等から感染が起こります。

無症状者の唾液にウイルスがいるかどうかの検査感度が問題で、そう考えるとPCR検査は100%に近い高い感度を持つゴールドスタンダードです。」

これ以上、「医学的にもPCR検査は必要か」という話に足を踏み入れると、また議論のための議論になりそうなのでこのへんにしておく。

ただ、ごくあたりまえに考えて、ある感染症が世界的に流行っていて、自分ももしかしたらかかっているかもしれないと思った人が、「検査があるならしてほしい」と思うのは、”人情”ーーあえて科学的ではない言葉を使うがーーとしてあたりまえではないだろうか。もし、検査方法がないというなら仕方ない。しかし、新型コロナウイルスのDNAを検知する検査は実際にあるのだ。しかも、「おなかを切って細胞を取らなければできない」といった侵襲的な検査ではなく、インフルエンザのように鼻にスワブ(綿棒)を突っ込んでちょっとコチョコチョとやって粘膜を少しこぞげ取るだけの危険のない検査だ。貧血の検査などで腕に針を刺して血を抜く、採血なんかよりよっぽど簡単。

もちろん、そうやって取ったブツ(検体という)をインフルエンザのようにすぐその場で判定できるわけではなく、多くの場合は保健所や臨床検査の民間会社に取りに来てもらって解析してもらわなければならない。そして、もし陽性だった場合は、医師は指定感染症として保健所に届けを出したり、保健所は「さて入院するかホテルか自宅か」と決めて手配したり、といろいろやっかいなことはある。また、検体を取るときもそれを行う医者や看護師は、ビニールのガウンを着たり手袋をはめたり、簡単な装備をしなければならない。そのあとは椅子などの消毒も必要だ。

つまり、検査することじたいはたやすいのだが、それにまつわるあれこれがインフルエンザよりずっとずっとたいへん。それが新型コロナウイルスのPCR検査なのだ。

とはいえ、「必要かな」と思う患者さんがいて、本人も検査を希望し、しかも検査はあって「やろう」と思えばできるのに、なぜむずかしげな計算式などを持ち出してまで、やらないように、やらないように、という方向に持っていかなければならないのか。

しかも、そういう医者はふだんから「先生、めまいがするんで脳梗塞にでもなってないか、CT撮ってみたいんですが」などと言ってくる患者さんに、「脳梗塞という病気は人口あたりどれくらいいるかの有病率はご存じですか?ベイズの定理というのがありまして」などと説明し、「CTの前に末梢性か中枢性かなど、くわしくさぐっていきましょう」としっかり診察をしているのだろうか。これはただの憶測なのだが、もしかすると問診もほとほどに「CTとあとMRI、頸動脈エコー、血液検査はあれとこれとそれと…」とたくさん指示を出しているのではないだろうか(ほかの病院から紹介されてくる患者さんでよくそういうパターンがあるので)。

これはいったい何なんだ。しかも、アメリカでもヨーロッパでも莫大な数のPCR検査が行われている。何かといえば「なんとかジャーナルによると」と欧米の医学誌の論文をあげて語るような医者までが、今回は“日本独自”の検査不要論にこだわっているのも不思議だ。

単に、PPE(個人防護具)の装着や保健所への連絡などの手続きなどが面倒くさいからか。

それとも、東京オリンピック開催の可能性に賭けて、「国内の感染者数を増やしたくない」という国の事情に乗っかってしまい、今さら「やっぱり検査しよう」と切り替えられないからか。とくに医者としていったん声高に主張したことを変更するのは、プライドが許さないからか。

あるいは、これはあってほしくないことだが、お隣の韓国が早くから徹底したPCR検査の方針を打ち立て、ドライブスルー方式の検査などで世界の注目を集めたことで、“嫌韓感情”なるものが立ち込めているわが国としては「やっぱりあのやり方が正しかったんだ」とどうしても認めたくないのか。

いずれにしても、これらの理由は患者さんたちの利益にはこれっぽっちもなってない。病床も準備できてないのに検査をして陽性者がたくさん出たらどうするんだ、という意見もあるが、逆に感染者が検査も受けずに入院どころか通勤したり外食したりしている方が問題なのは、言うまでもない。

もちろん検査において出遅れたわが国では、まだ検査技師や検査機などの準備が整わないというのはわかる。その状況をなんとかしよう、と各自治体や地区の医師会もがんばっている。

せっかくそういう流れの中ができつつあるのに、ネットでは一部の医者たちがいまだに「PCR検査を拡充しても意味なんかないですよ」「どうして医者のくせにベイズの定理も知らずに、検査検査って言う人がいるの?何かの利権でもあるのかな?」などと発信し続けている。

「ある伝染性の病気が流行っている。とても心配。自分もなっているんじゃないかと気になる。だから検査を受けたい。もしかかってたら早く治療したいし、家族などにもうつしたくない。検査が100%あてにならないのもわかってるけど、まずは受けてみたい。」

こんな素朴であたりまえの“人情”を否定するようなどんな公式や定理も間違ってるし、それを振りかざして不安でいっぱいになってやって来る人たちを追い返すようなものは、とても医療とは呼べない。私はそう思っている。