記憶からのてがみ

四季の自然を感じていると、突如として昔の記憶が断片的によみがえったりすることがある。

特に思い出されるのは、誰かに何かをしてもらったことや、当時は理解がままならぬままうまく受け取れなかったことをである。本当にそれは突然やってきて、記憶の旅へとさらっていく。

その度に、こんなこともしてもらっていたんだと、今更ながら与えられていたものやそこにちゃんとあったものに気づかされ、静かにトクトクと流れる感謝を感じるのだ。

以前より増して、私の中でそんな現象が起きている気がする。

たとえば、春のタラの芽の天ぷらの香りやトゲトゲの食感、贔屓のお寿司屋さんの持ち帰りの寿司折の甘い包装紙のにおいなど。食べることへの執心は記憶の中でも健在である。

最近は、鳴き始めたアブラ蝉の大合唱によって盛夏を感じ、昔母親に作ってもらった素麺のつゆの味を瞬時に思い出した。

エアコンのない家だったから、少しぬるめの、昆布と鰹の香るつゆだった。
今ほど色んな会社のめんつゆが普及していなかったと思うが、手作りのつゆより市販のつゆの方が大衆受けする作られた旨味があって、小学生の私にはそちらの方が煌びやかにみえ、手作りの味がやぼったく感じてしまう何も知らない子供なのだった。

暑い夏に台所に立ち、素麺を茹でる傍ら一からつゆを沢山作ってくれて、美味しくて安心できるものを食べさせてくれていた。手作りのつゆは氷を入れるとたちまち出汁の薄まり加減が目立ち、そんな些細なことに子供の私はもやもやしたが、市販のガツンとした旨味には到底かなわないものが、母の作った素朴な味にはしっかり詰まっていたのだ。

記憶がふとよみがえるのは、私だけではないらしい。

先日、実家に寄った際、いつものように酔っ払った父が、オレの話を聞けとうるさく言う。
記憶力がよく、当時の感情や情景を写真のように事細かく覚えるのが父は得意である。あまり昔話自体も自分からしたがらないが、珍しく押しが強い。少し熱中症気味でダウンした体にもかかわらず酔いながら、自称いい話だからとにかく聞いてくれ、と。

父は大工である。
昔、母と結婚するずっとまえ、親方のところで働きながら修行していた頃の事。
仕事場のすぐ隣に、とある若い夫婦が結婚して家を建てることになり、その仕事を請け負った。夫婦の間には、かわいい女の子が生まれた。

その子が歩けるようになると、父のいる仕事場に1人でやってきては、うろちょろしながら遊びまわった。本当にかわいらしい子だったが、時には少し仕事のお邪魔虫に感じることもあったそう。しかし、仕事をした家の娘さんでもあるし邪険にはできなくて、扱いに困りながらも仕事場での癒しになっていたのだ。

その子が4、5歳ごろか、その辺ははっきり分からない。
やがて父は母と結婚することをきっかけに、父が親方の元を離れる時がきた。
その時、あまりきれいではない紙きれに、まだおぼつかない字で手紙を書いて父にくれたのだそう。

それが嬉しかったんやと思い出しながら、父がくしゃくしゃの顔で息を詰まらせて子どものように泣き始めた。
ほっこりエピソードの感動にひたっている父とは対照的に、私は、よかったねと、クールすぎる返事をした。赤い顔で半分酔っている様子に、シラフ時でない感動話をそのまま受け取るにはあまのじゃくな娘になるのである。直情的で短気で外面がよくて荒っぽくて理解しがたいことが多くてわかりづらかったけれど、実はすごく恵まれた人だった。

その子からの手紙が今後の糧になったんやと、父は最後にぽつりと言った。
大工職人として私を含む子供三人を育ててくれたのは、父が若かりし頃にもらった手紙とその小さな女の子の存在のおかげもあったのである。


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