たけのこの皮のおやつ

4月も後半になり、そろそろ春の暖かさに体が慣れてきた。起きがけの布団の心地よさでそこから出たくなくなる時期も過ぎたことを知ると、あれもある種の旬だったのだと思う。

今日は小雨の中、道の駅へ買い出しに行った。
定休日の翌日で、新鮮な作物が並べられている。苺、ワサビ菜、わらび、ほうれん草、葱など。

何を買おうかと、足元のコンテナにゴロゴロ入った筍に目が留まる。
長さは30センチ以上、黒々としてずっしり重そうに見えた。採れたて特有の湿気を帯びて存在感がある。

筍のあく抜きを炊飯器で下処理しようか、筍は足が早いハズだがこの大きさで腐らせずに食べ切れるだろうかと、思い巡らせつつ手に取る。持つと案外軽かった。着痩せするタイプらしい。

レジに持っていくと、糠もあるけど付けますかと聞かれた。親切に用意された小分け袋の糠が、筍と一緒に新聞紙に包まれていく。最初から筍に糠の袋が括りつけてあるのもあったが、レジで受け取るスタイルも筍をおいしく頂く人間の連帯感のようなものが一瞬生まれて味わいがある。

家に戻り、一緒に買ったつやつやの苺をつまんでから下処理をする。
皮ごと大鍋で糠と鷹の爪を入れて煮るのが主流らしいが、私は炊飯器の窯
に入れるため皮をほぼ剥いで嵩を減らす。
剥ぐたびに爽やかな竹の香り。美しく縦に流れる繊維と、緻密な細かい毛の手触りにとらわれて捲るのが惜しい。

ふと、皮も何かに使えないかと調べてみた。
そこで初めて聞く情報に出会う。産毛を取った皮で梅干しをくるんで、中身を隙間から吸って食べる昔ながらのおやつがあるらしい。包む形も様々だ。

早速どんな感じの味なんだろうかと小さな皮で試してみた。
長さ15センチ位の柔らかい皮に潰した梅干しを中央に置き、先端を被せ左右も包んでバチ型のようにして、中身が出ないよう輪ゴムで短い端の方を留めてみた。
一時間もしないうちに、皮が発色のいい赤ピンクに染まっていく。なんともいえない鮮烈な竹の色である。

鮮やかさに目を見張りながら、やや広がった端の方を咥え、パピコのように吸ってみた。清涼感のある竹の香りと梅干しの酸味が合わさり、不思議な美味しさだ。

何度も吸っていると竹のほのかな甘さと旨味も感じ、梅の酸っぱさは若干まろやかになる。滑らかな皮は舌ざわりもいい。はて、どこか懐かしい何かの味と一部似ている。とても酸っぱくて独特の風味のある、芋茎の漬物だ。意外な発見ができた。

一日置くとまた味がなじむらしいが、私には待たずに食べてしまった。

昭和の初期頃に子供時代を過ごした方の中には、この春の時期に竹を吸うおやつを楽しみにしていた方もいたのだ。
確かに現代よく出回るような砂糖の甘さのあるおやつではないし、地味というか素朴ではあるかもしれない。しかし、なんだか響きが好きなのだ。

そういえば小学生時分に近所の友達と遊んでいて、おやつだよ、と母親が出してくれた時のこと。お皿には夕飯用のおでん。そのお裾分けを配りおやつというのだ。おでんじゃんと内心思った。

おやつっぽくないし所謂普通のおやつじゃないしはずかしいと思いながらも、既製品でも砂糖でもないそれを”おやつ”と言って出してくれた感覚はなんかいいかもと、どこか奥底で子供心に思って仕舞っていた。

それを今日、竹の皮の梅の”おやつ”と呼ばれている情報に出会い、こういうのをおやつと呼ぶ感性にまた再会した。この島に点々とあった同じような”おやつ”の思い出。
ほころぶようなくすぐったさが、幼い多感なあれこれが、控えめな配色の風景と単純な仕組みが、かけがえのない温度でずっと在りつづけてくれるのはありがたいことと思う。

残りの竹の皮は乾かしてみて、何かに使えそうならおにぎりなど入れて出掛けてみたい。竹の香りが連れてくる”おやつ”のような思い出を今度は自分でつくれたらいいと、ただそう思った。


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