「なぜ世界は存在しないのか」批評〜私の哲学的好みについて〜

前回の記事で、「なぜ世界は存在しないのか」の要約をした。

 したのだが、正直、この本の内容に対してモヤモヤが残る。主張したいことがうまく言えてないのではないかということ、そして、あまり私の好みではないということ。
 正直言いたいことはまとまっておらず、たくさん言いたいことがあるような気がするが、そのいくつかが、かなり重複しているような気もする。細かいことは気にせず、問題があると思うところを列挙してみる。

1.ライバルの説が弱すぎる。
 この本は「新しい実在論」を主張するため、さまざまな論と対比させ、自説が有力であることを示そうとする。だが、例示されている説があまりに説得力なく提示されているので、「新しい実在論」が真に素晴らしいものであることに説得力がない。そりゃ、こんな欠陥のある説と並べ立てられた「新しい実在論」は、単に不戦勝をしているだけじゃん、となってしまう。
 ここでは構築主義を例に挙げよう。構築主義とは、「私たちは事実そのものにはタッチすることはできず、認識機構を経て出ないと対象を把握できない」という考えだ。カントやニーチェがその代表とされている。世界の事実を知るためには、この認識を出発点にするしかなく、この認識の外に出ることは決してできない。このことを真剣に受け取る場合、「事実そのものにタッチできない」という現実離れした想定が、そう簡単には覆せないものであることはわかるはずだ。
 しかし、M.ガブリエルはあっけらかんとこう答える。「私たちが認識しなくても事実があるではないか」と。これだけで構築主義を退けてしまう。いやいや、たしかに現実に根ざして考えれば事実がないなんてことはありえないとも言えるのだが…。しかし、構築主義的な不条理がそんな現実的な感覚で退けられるのでは、哲学している意味がないではないか!構築主義に対してもっと真剣に議論してくれないと、それのライバルである「新しい実在論」が素晴らしいなんて簡単に言えないではないか!

2.「意味の場」が結局曖昧。
「意味の場」という概念には、2つの目的がある。1つ目は、構築主義から導かれる事実は存在しないという考えから事実を守ること。2つ目は、唯物論的から導かれる意味のない世界から、意味のある世界を取り戻すこと。それは結構な試みだが、結局目的ありきで導かれた概念でのため、よく言えば現実をうまく説明できているようだが、悪く言えば、中途半端な概念なのだ。目的別にもう少し詳しく見てみる。
 まずは1つ目の目的について。存在するとは、意味の場に何らかが現象することであり、現象するものはすべて事実である。このように主張することで、事実というものがあることを保証している。しかし、それは存在や事実をそのように定義しましたというだけのことではないか。それで事実が本当に守られているのかは、よくわからない。
 次に2つ目の目的について。唯物論的世界を唯一の正しい世界観と捉えると、たしかに世界は無意味になってしまう。そこで、唯物論的世界も「意味の場」の一つに過ぎず、そのほかの日常の「意味の場」や文学作品が生み出す「意味の場」と比べ、優劣の差がないという。
 この2つの目的を合わせていくと、唯物論的世界の「意味の場」も、日常的な「意味の場」も、文学作品の「意味の場」も共に事実として存在し、どれが優れた世界観ということはないので、唯物論的な無意味の「意味の場」にとらわれずに意味のある「意味の場」を選ぶことができるというわけだ。
こうなってくると、「意味の場」は何なのかわからなくなってしまう。意味というと、どうしても心というものを想定したくなる。それを生み出す主体が問題となってくるように思われる。しかし、認識するものがなくても「意味の場」があるとも言っている(さきほどの構築主義を論駁したとき)。しかし文学作品の「意味の場」なんかは、どう考えても、受け取る主体がないと存在しないように思う。唯物論的世界から文学作品まですべて「意味の場」で説明しきったというのは、あまりに都合が良すぎないか。
M.ガブリエル的には、「意味の場」はそのような哲学的偏狭な考えにはとらわれず、現実に即して考えているのだというのかもしれない。しかしそれなら、何度も言ってしまうが、哲学している意味がないではないか!

3.二元論がまったく考慮の値しないものとしてあしらわれている。
 これは1.と2.の合わせ技といった感じだが、二元論がまったく考慮に値しなとなることがよくわからない。二元論とは、世界は物資的実体と精神的実体で成り立っているという考えだ。M.ガブリエルは、世界が2種類の実体しか存在しないという考えは、まったくの恣意的な考えに過ぎないと一蹴する。
 しかし、そうだろうか?「意味の場」なるものを持ち出すからには、どうしたってその意味が立ち現れる主体を考慮しないわけにはいかないのではないか。心なるものを、真剣に考える必要があるのではないか。それは哲学的に凝り固まった考えだというのかもしれない。ではどうやって、心が無くして「意味の場」に何かが現象することを説明してほしい。もしかするとしっかり書いていてそれを読み飛ばしている可能性も否定できないが、少なくとも読んだ限りでは納得のいく説明がなされていない。
 補足を入れておくと、私は二元論こそが正しいといっているのではない。ただ「意味」というものと「存在」をくっつけて考えようとするのなら、心なるものを考えるのが筋ではないのかと言いたいのだ。

4.「新しい実在論」に対して、十分に批判的吟味がされていない。
 これは1.の裏返しで、主張したい「新しい実在論」に対しては十分な批判検討がなされていないと感じる。
 例えば、このような批判を思いついた。
 ある対象は、複数の「意味の場」に属するとされている。コーヒーは、喫茶店という「意味の場」、バリスタという「意味の場」、科学的研究という「意味の場」など、さまざまな意味の場に現象する。では、どうして複数の「意味の場」に属しているのに、それが同一の対象だと同定できるのか。いろんな「意味の場」に銘々勝手に現象しながら、どうしてそれがコーヒーという同一の対象だと考えられるのか。となると、なんの「意味の場」にも現象していない、透明な「コーヒー」というものの存在が仮定されないといけないのではないか。となると、すべてのものが「意味の場」に顕現するという考えはおかしいではないか、と言えるのではないか。
 いやいや、そのような透明なコーヒーも一つの「意味の場」に現象しているのだよ、と言えるかもしれない。しかし透明なコーヒーは、すべての「意味の場」に登場するコーヒーをすべて包摂するようなものでなければならない。でないと、それぞれの「意味の場」でそれぞれ現象するコーヒーが、同一のコーヒーだなんてことは言えない。しかし、それはM.ガブリエルが否定しようとしている「世界は実在しない」ということに抵触しないだろうか。となると、透明な「コーヒー」を想定することは間違いとなるし、複数の「意味の場」から同一のコーヒーなるものを抽出することもできなくなってしまう。

 以上挙げた問題点は、単に列挙したものであり、なんだかまだ話し足りないことがある気もする。しかし、かなり重複した物言いになりそうなので、これくらいにしておく。
 と思ったが、一つだけ。なぜあまり好みでないのか。このことだけ付け加えておく。

5.M.ガブリエルは、凡庸なツッコミに終始している。
 これが好みでない1番の理由だろう。私が哲学に求めているのはケレンなのだ。まったく馬鹿げた大ボケ。まったく馬鹿げているのだが、馬鹿げた大ボケだからこそたどり着ける真理もあるのではないのか。それこそ、私が求めていることなんだ。
 別に、ツッコミも悪くない。ただ、ツッコむのなら、そのケレンを跳ね除けて逆方向のケレン味を出すほどのツッコミでないと、全く面白くない。それを穏当に中庸に寄せたのでは、哲学している意味がない。
これはあくまで「好み」の問題だ。中庸も十分大事だし、それどころか、日常的な生活の真理は中庸にこそあるといってもいいと思う。しかし、しかし哲学をしているときぐらいは、馬鹿げたケレンを見たいではないか。

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