「なぜ世界は存在しないのか」の要約

「なぜ世界は実在しないのか」(著:マルクス・カブリエル)の要約。


この本は、「新しい実在論」というものを主張する。

この立場を明確にするために、哲学的によくある二つの世界の捉え方を見ていく。唯物論と構築主義だ。

唯物論とは、この世には物理的な実在しか存在しないという立場だ。科学が発展した現代にとって、唯物論はかなり説得力を持った世界認識だろう。かつては宗教などが世界の原理を説明してきたが、いまでは科学がそれを担ってくれる。個人の偏った見方を排除し、すべてのものを唯一の客観的視座で説明することができる、これほど世界を統一的に把握できる考えは、なかなかないだろう。
しかし、唯物論にも大きな欠点がある。一つは、感情論的な欠点、もう一つは、理論的な欠点。

まずは感情論的な欠点から。
唯物論的な立場を貫徹すると、人生の生きる意味というものがなくなってしまうということだ。この世に存在するのは素粒子の集合体であり、人間は広大な宇宙という空間に存在する、ほんの微小な素粒子の集合体にすぎない。そんな塵芥のような存在に生きる意味が果たしてあるだろうか。唯物論的な立場を貫くと、意味がないとしか言えない。果たして、それでいいのだろうか。これが感情論的な欠点だ。

こんな欠点では弱い、という方には次の理論的な欠点を。
唯物論では、同定の問題が解決できない。同定とは、ある事物をそれとみなすことだ。あまり説明になっていないので、具体例を。今私の目の前には、コメダ珈琲の、たっぷりサイズのアイスコーヒーがある。樽を模したかのような銀色の容器、その中にはコーヒーと氷、そしてストローが刺さっている。私は目の前にあるものを、このように容器、コーヒー、氷、ストローと分類した。なぜそれが可能なのだろうか。なぜ、素粒子の戯れを、そのように整理できたのか。すでに容器、コーヒー、氷、ストローの観念がすでに私の中に存在しており、だからこそそのような分類が可能だとは言えないだろうか。本当に物理的物質しかないとしたら、そのように事物を分類することなど、できなくなってしまう。
さらに理論的問題点を挙げるなら、唯物論という考え自体が物質ではないということだ。これに対して、唯物論を生み出すニューロンの付置があり、それが唯物論なのだといったとする。とすると、なぜ唯物論は正しいのだろうか。ほかの、例えば観念論を生み出すニューロンの付置と比べて、何が優れているのだろうか。唯物論の世界観では、二つの物理配置に対して、どちらが優れているという決定を下す審級は存在しない。

では次に、構築主義に目を向けていく。
構築主義の立場によると、私たちはこの世界そのもの自体を見ることはできない。なぜなら、この世を認識するには、必ず私たちの感覚器官・脳を通してでなければいけないからだ。このようなフィジカルな場面より、何か芸術作品を享受するときの方が、この構築主義の考えは顕著になるだろう。同じ作品を見たとしても、人々の感じ方・考え方は異なっている。同じものを受容しているのに。このことを説明するには、構築主義はうってつけだろう。
しかし、構築主義にも至らない部分がある。それは、この世に事実と呼べる確固たる基底がなくなってしまうことだ。全てが各人が受容・解釈したものだとなると、いかにして私たちは他者と共同生活を営むことができるのか。そのことが説明できなくなってしまう。

唯物論は確固たる唯一の存在を規定することで、構築主義は全てを均く並べてしまうことで、自らの説を瓦解させてしまった。

そこで持ち出されるのが「新しい実在論」だ。
まず「新しい実在論」は、科学によってもたらされる唯物論的な見方を、唯一の正しい世界だとはみなさない。科学というのも、ある一つの物事の見方に過ぎないのだ。
となるとこれは構築主義的な考えに行き着くのかというと、そうではない。構築主義では、この世界そのもの・事実にタッチできないと考えられた。しかしそうではない。たとえ歪んだ認識であっっても、それを認識しているのなら、それ自体事実と呼べるのだ。

もう少し「新しい実在論」を説得力を持って説明するために、何かが存在するとはどういうことかを考えてみる。

先ほど例に挙げたアイスコーヒーも、のこりほんのわずかになってしまった。またこのアイスコーヒーを例にとって、存在するとはどういうことなのかと考えてみる。
アイスコーヒーを、この場にいる口実としてみている。もう少しここでゆっくりものを書いていたいので、すべて飲み切らないように、チビチビと飲んでいる。
対して、店員にとってアイスコーヒーは単なる商品として存在している。対価としてお金を得ることができるものとして存在する。
はたまた科学者にとって、コーヒーは化学記号で表記されるような分子の集合体として存在しているだろう。
つまり、ひとことで存在していると言ったところで、どのような場で存在しているかで、存在のあり方が違うのだ。付け加えるなら、科学的立場の存在が唯一の正解というわけではなく、どれもがそれぞれに真に存在している事実なのだ。
この本の用語を導入しながら説明しよう。コーヒーという「対象」は、さまざまな「対象領域」に属している。私にとってコーヒーという対象は、その場にとどまる口実として存在しているため、カフェオレやその他食べ物、椅子や机が親和性を持った対象領域として現れてくる。一方店員にとって、コーヒーは利益を生み出す商品として存在しているため、その他の商品、客、設備、お金などが親和性を持った対象領域として現れてくる。
同時にそれは「意味の場」にも現れてもきている。例えば、私にとってコーヒーはその他の飲み物や机・椅子と並列して持ち出されたが、「その場にとどまる」ということを意味している。対して店員にとってコーヒーは、その他商品やお金と並列されたが、そこで「お金を儲ける」ということを意味している。
このように何らかの意味を持って対象が現れてくる場を「意味の場」と表現する。こう捉えると、すべてのものは、何らかの「意味の場」に属することになる。

この「意味の場」というキーワードをもとにして、タイトルの「世界は存在しない」ということは導き出せる。
ここでいう世界とは、すべてのものを含み込んだ全体性のことだ。意味の場という用語を使えば、「すべての意味の場の意味の場」と言えるだろう。
しかし、すべての意味の場を包摂するような世界を考えてしまったとき、問題は起こってしまう。その世界が考えの中に収まってしまっているということだ。すべてを包摂するはずの世界が考えの中に存在するのでは都合が悪いだろう。そこでその外部にそれをも包摂する世界を想定したところで、すぐさまその世界も考えの中に飲み込まれてしまう。
つまり、どこまでいったって、「すべての意味の場の意味の場」たりうる世界なんて存在できないのだ。

「世界は存在しない」なんていうと、なんだかとてもセンセーショナルなことを主張しているようだが、そんなことはない。逆に言えば、そのほかの意味の場はしっかりと存在している。しかも無数の意味の場が。単に、すべてを包摂してしまうようなものが存在しなというだけなのだ。そういう意味で、私たちは、多様な意味の場の中の開けに、存在することができているのだ。

まとめよう。
この本が書かれているモチベーションは何だったのか。それは、人生の生きる意味を取り戻すことだ。
科学的世界像が唯一の正しい世界像であるという考えは、かなりの説得力を持って受け入れられている。しかしその考えを推し進めると、私たちは、広大な宇宙空間の中にいるちっぽけな存在にすぎなくなる。
しかし、そうではないのだ。科学的世界は、たしかに広大な宇宙を対象領域に持つが、そのことで世界のすべてを包摂することはできない。
何かが存在するとは、ある意味の場に何かが現象することであり、つまり現象していたら、すでにしてもう意味を持っているのだ。存在するものは意味の場になくては存在できないから。
その意味というのは、必ずしも、幸福なものではない。もしかすると、大変辛いものかもしれない。しかし、意味の場は無数に存在する。たとえ道のりは険しくとも、私たちは、無数の意味の場から何らかの意味の場を選び出すことによって、変化していくことができる。
このことは、人生にとって一つの福音となるだろう。


要約終了。

自由にパラフレーズしたが、文脈には割と忠実に書いたつもりだ。
今回はここまでにして、別の記事でもう少し私の考えも織り交ぜながら、内容を検討していきたい。

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