「世界の独在論的存在構造 哲学探究2」を読んで part10

 またまた久しぶりにnoteに書いていきます。それもだいぶ前に書いたシリーズの続きを。面倒になって手つかずになっていましたが、中途半端も気持ち悪いので書いていきます。


 第10章のタイトルは「人計から東洋の専制君主へ」です。となっていますが、永井さんの議論は以前書いたことの注釈をし、さらにその注釈が続くみたいなことが日常茶飯事であり、今何が議題になっているのかを一つに選び出すのがかなり困難な側面があります。なので全てを取りこぼさず進んでいくというよりは、それぞれ琴線に引っかかったところを要約・敷衍していきます。とはいえ、できる限り拾っていきます。

 まずは前章の続きで自由意志の話題から始まります。自由意志とは、「多数の身体の中になぜか一つだけ現実に動かせる身体が存在している!という驚くべき事実である」と書いてあります。これは自由意志をタテ問題としてではなく、ヨコ問題として捉えるということです。

 ここでタテ問題とヨコ問題の区別を確認していきます。
 タテ問題とは、「私たちvs私たちの外部」という対立構造を持った問題意識です。例えば「認識vs外界」。私たちの認識は決して外界には届きえないよね、という問題です。他に言えば「自己vs他者」。自己は明確に自覚できるが、他者のそれは全く捉えられないよね、と言う問題です。
 対してヨコ問題とは、「この私vsこの私以外」という対立です。先のタテ問題の例をそれぞれヨコ問題的に捉え返していきましょう。まず「認識vs外界」。認識と言っても実際に認識できているのはこの私のものしかありません。それを決して認識できない私以外の他者の認識も一緒くたにひっくるめて外界をいうものと対立させているタテ問題は、ヨコ問題のを歪曲したものではないのかというものが永井さんの洞察です。「自己vs他者」の場合、少し問題が捉えにくいかもしれません。ですが、構造は同じです。自己と言ってもそれは交換可能な相対的な自己です。これを書いている私にとって私は自己ですが、これを読んでいるあなたもあなたにとっては自己です。ということはこの自己という表現は「私たち」陣営に属する言葉なのです。
 まぁ、ヨコ問題として「この私」というふうにして際立ててみても、結局タテ問題的に理解するしかなく、言いたいことが決して言えてないという問題もあるのですが。というか、それこそが問題というか。

 ヨコ問題的に捉えていくと、自由意志というものは幽霊的な存在でしかありえません。つまり無寄与成分であるということです。もう一つパラフレーズすると、実在的(レアリテート)的ではなく現実的(アクチュアリテート)であるということです。

 また前回で、デカルトの「我思うゆえに我あり」を自由意志問題として捉えれば神に勝てるのか、という問いを立ててありました。〈私〉問題として捉えれば、神でさえ私に勝ちえないとなりましたが、自由意志問題的に捉えれば神は十分勝ちえると書いてあります。自由意志は身体と意志との結合問題であり、「お前は自分の意思で動いているつもりかもしれないが、それは実際に身体を動かす原因になっておらず、私の意志で動かされているのだ」と神は言えるからです。もちろんこれをヨコ問題的に捉え、「でも実際動かせていると感じているというこれ自体は神でも疑いえない!」と反論もできます。

 自由意志問題とは、受肉の不思議の表明とも捉えられます。「複数の身体があるのに、この身体だけからなぜか全てが始まっている!」という驚きです。この受肉を言語にスライドして考えることができます。「複数の言語があるのに、この言語だけがなぜか意味を持っている!」という驚き。

 ここで身体と時計の針の役割の類似性を捉えた「人計」という概念についての考察があります。
 時計の針には、現在を指す意味と特定の時刻を指す意味という二つの意味があります。後者はどの時点でも成立するものですが、前者はこの時点でしか成り立ちません。しかしこれは一般論でしかありえません。後者の「この時点」という表現もどの時点でも成り立つといえるからです。ここでも現実性の次元が介入してきます。後者の現在は、他の時点とはあらゆる意味でも比較できない現実的な現在が存在しており、これが全ての始まりであるという点です。
 人間の身体もこの時計の針と類比的な関係を持っており、それを捩って「人計」と表現しています。私にはこの人を指す表現と特定の人を指す表現の二つの表現があります。後者はどの私にも成立するのですが、前者はこの私でしか成り立ちません。しかしこれは一般論でしかありえません。後者の「この私」という表現もどの私にも成り立つと言えるからです。ここでも現実性の次元が介入してきます。後者の私は、他の私とはあらゆる意味でも比較できない現実的な私が存在しており、これが全ての始まりであるという点です。

 ここまでは複数のものを前提として、なぜかこの唯一性があるという方向で議論が進められていたが、逆方向から捉え直してみましょう。この唯一性から問題をスタートしていくのです。
 なぜかこの私だけが今現在見えているという現実がスタート地点。これは他の時間とは比較にはならないはずです。しかしこの見えているのは具体的な時刻がどうしても引っ付いてきます。これがいわゆる受肉というものです。他の時刻とは比べられないはずが、時刻という性質を持たざるをえない。時間も私もこの矛盾を持たざるをえません。

 ここで現在の唯一性を一般化できるのかという問題が立てられます。これに対して、すでに一般化されており、私たちはその次元でしか考えられないため、そんな問いはそもそも立てられないという返答がまずあります。そしてもう一つ、もし一般化できなければ時間という概念が成立せず、時間がないということはありえないので、一般化は可能であらざるをえないという返答です。
 人計は時間と類比的に捉えられてきましたが、ここでは類比が崩れます。現在の場合は唯一性を一般化しないと、時間というものが崩壊してします。対して、私の唯一性をは一般化しなくとも矛盾なく成立するということです。もちろん自然な形とは言い難いですが。それがタイトルにもなっている「東洋の専制君主」です。

 ここで今回は区切ります。次回は「東洋の専制君主」についてです。

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