苦痛や虚無の予期から乖離した純粋な死

 死が怖いのではない、死に伴う苦痛が怖いのだ。

 これはつねに私の中にある命題だ。もちろん死にはたいてい苦しみが伴うものであり、だから死が怖いというふうな言い方も、全くの間違いではないと思う。しかし、苦痛を伴わない死があるのなら、死を喜んで選べる気がする。

 例えば、今日眠りに落ちたあと、一生目を覚さないことを想像する。それはなんと安らかなことだろうと夢想する。

 他にも、こんな安楽死制度を想像する。
 これから私は一年のうちでどこかで死ぬ。しかしその一年の中でいつ死ぬのかについて、私は全く知らされていない。私はこの一年間は全く無軌道に享楽的に生きる。嫌なことは全くせず、思いのまま生きるのだ。
 そんな極楽な生活のある日、夕食に致死量の睡眠薬が混入されているかもしれない。それと気付かずに夕食を終え、気持ちのいい満腹感のもとに眠りに入る。しかしそれは永遠の眠りとなる。
 もしくは眠っている間に苦痛を伴わない方法で殺してもらうのもありかもしれない。
 どんな方法でもいいから、そんな死があれば何ていいだろうと思う。

 またこんな議論を聞く。マトリックスのようなヴァーチャル世界が確立されて、そこで快楽に満ちた生活をする、これはよいことかどうかという議論だ。
 多くの場合、そんなヴァーチャル世界での満足は架空のものにすぎないため、ヴァーチャル世界を虚しいものとみなし、この苦痛を伴う現実世界を生き抜くことこそが目指されるべきなのだと結論づける。
 しかし私はそんな世界があったらいち早く飛び込んで行きたいと思う。ただし、一生元の世界に戻らないことを条件にね。虚しがが生起するのは、目覚めた時の現実世界との対比においてにすぎない。となると、現実世界に戻らないなら、虚しくならないのであり、ヴァーチャル世界は理想の世界となるだろう。
 ヴァーチャル世界にいながらいつの間にか苦痛を伴わず現実世界の自分がいなくなる、そうなればいいなと空想する。

 今ままで列挙したどの夢想も、苦痛と乖離した死と関係するだろう。

 しかしもう一つ重要な要素があることに気がついた。それは死のタイミングがこちらには知られないということだ。
 例えば眠りに落ちたときにそのまま目を覚さない例。これを「今日眠りに落ちたらあなたは一生目を覚ましません」と宣言された場合どうかと考える。眠りに落ちるその瞬間、なんとも言えない恐怖が襲ってくるのではないだろうか。せっかくお望みの苦痛を伴わない死がお膳立てされているはずなのに、それが目の前に用意されると、恐怖が現れてくる。

 ここで死に伴う苦痛以外の、別のネガティブな要素が現れてくる。苦痛でさえも感じられなくなってしまう本当の虚無。そんな虚無に対する恐怖が現れてくる。どんなに現実世界の苦痛を忌み嫌い、死を希求したとしても、死を選べば本当の虚無がそこにはある。想像の中に決しておさまらない虚無が。そこに対する漠然とした恐怖が押し寄せてくる。生とは認識である、なんて誰かが言っていたが、認識がなくなることに対する根源的な恐怖が拭いされなくなる。理想の死を想像して安堵感を感じているこの認識自体も消滅してしまうのだから。
 しかしそのような根源的な虚無でさえも、この私の認識から生まれてくるものにすぎない。その恐怖は「予期」の恐怖にすぎないのだ。だから死からその予期の恐怖も分離することが可能だろう。

 具体的に予期の恐怖を拭い去るには、ランダムに殺してもらうしかない。死のタイミングをこちらに知らせないようにしてもらえばよい。

 このように苦痛や予期の恐怖から乖離した純粋な死なら、喜んで受け入れられるのにな。


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