「意識(だけ)高い系にだけにはなるな」

タイトルにも書きました「意識(だけ)高い系だけにはなるな」ですが、これは落合陽一さんの著書『これからの世界をつくる仲間たちへ』(小学館, 2016)を読んでいて出てきた言葉です。

ここでいう意識(だけ)高い系とは、本人に専門性がなく「人脈」か「評価されない活動歴」「意味のない頑張り」程度しかアピールできるものを持っていない人だと説明されています。

このような人たちは広く浅い知識しかなく、人から聞いた情報しか持ち合わせていないため何の独自性も専門性もない歩く事例集とも評されていました。

言葉にすれば確かにその通りですが、しかし落合さんのように研究者としての道を進まれていたり、プロフェッショナルとして何かしらの分野で活躍されていたりする方以外の多くの人たちは(意識が高いかはさておき)この通りなのではないでしょうか。

なぜ今回このことを取り上げたかというと、この内容がこれからの教育に非常に重要なテーマだと思ったからです。

この発言の文脈をもう少し詳しく説明すると、コンピュータが社会を動かすようになることで社会には「コンピュータに使われる人間」と「コンピュータを使う人間」に分かれていくことになるとおっしゃっています。

つまり誰かが作ったサービスや道具を使うだけの人になるのか、自らサービスや道具を作っていける人間になるのかということです。

これは資本主義的な観点から言えば「搾取される側」と「搾取する側」とも取れます。
つまり時代に適応できるだけの能力がなければ苦しい生活を余儀なくされる可能性が大いにあり得るということです。

私はこれを教育で解決していかなければならないと思っています。
今の子どもたちが社会に出ていく頃には、今の私たちが経験してきた以上に社会の変化が激しくなっていくと思われます。

教育で非難されがちな「受験のためだけの勉強」から脱却し、まさに新教育指導要領で示されている「生きる力」の養成を目的とした「主体的・対話的で深い学び」を実践していかなければなりません。

そして同時に、親世代(あるいは教師世代)の持ち合わせている「いい大学に入学し、いい企業に就職できれば、幸せな人生を送れる」という価値観を時代に即したものにシフトしていく必要があります。

教育する側がその方針に基づいている限り子どもたちに必要な教育は提供されません。
彼らの方がよっぽど敏感に社会に馴染んでいても、それを否定してしまうことにもなりかねません。

中高生のうちから自分の頭で考える力やそれを実行・表現する力を身につけさせていかなければなりません。
そのためにはどのような授業・学級経営・生徒指導を行っていかなければならないかを学年や学校単位でしっかりと考え、話し合っていかなければなりませんね。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?