新説『恋人がサンタクロース』という歳の差百合文学
山下達郎の『クリスマス・イブ』と並びクリスマスの大定番で、冬の時期には嫌というほど街に流れている。そんな往年の名曲、松任谷由美の『恋人がサンタクロース』。あまりにも流れすぎていて、歌詞を聞き流したままこれまで生きていたことに、クリスマスイブの夜に気づいた。
例えば季節に合わせてカラオケの選曲を決めるのが旬の時期の食材を選ぶのと同じように、歌詞を読みながら曲を聴くのも料理をよく咀嚼して風味を楽しむようで趣深いものがある。これまでろくに噛まずに飲み込んでいた名曲がこのままではもったいない。
というわけでこの機会に歌詞まできっちり楽しみたいと思う。発見とは見過ごしがちな日常に多く潜んでいるものだ。
早速読んでいく
ぎゃあ!
初っ端からとんでもない登場人物が現れてしまった。「となりのおしゃれなおねえさん(以下:おねえさん)」である。
おしゃれなおねえさんが隣に住んでいたなんて、それだけでさまざまな物語の興りを予感してしまう。
昔の話ということから主人公の「私」が幼かったこともうかがえる。歳上というだけでも子供心にはたいそう綺麗に見えたことだろう。憧れやクリスマスの雰囲気が手伝ったことも想像に難くない。
(おそらく)魅惑的な美貌を讃え、ミステリアスな雰囲気の「おねえさん」は、幼い「私」にそう語る。
第3の登場人物、「サンタ」。午後8時に現れるというのは、世間一般に知られるこっそりプレゼントを置いていくサンタクロースとは様子が違う。一体何者なのだろうか。
徐々に「私」の性格もわかってきた。サンタクロースは絵本の世界の住人という主張を崩さない。なかなかリアリストなようだ。それに対して「おねえさん」はロマンチストな性格が見て取れる。大人になればわかるのよ、なんてアダルトな文句と共にウィンクではぐらかされてしまった。幼い「私」は「おねえさん」の話す「サンタ」が一般的なサンタクロースだと勘違いしている。今夜8時にやって来る。本当に何者なんだ……?
そう、「サンタ」の正体は「恋人」だったのである!
という大胆かつ王道な伏線回収(+タイトル回収)がサビとともに披露された。ひた隠しにされた謎が遂に明かされたことを思えば、“本当はサンタクロース”という歌詞も実に腑に落ちる。こんなに劇的な歌詞だったなんて。
すると「おねえさん」がこんな話をした動機も垣間見えてくる。
単なる恋人自慢と決めつけるには肝心の「サンタ」の情報が伏されすぎている気がする。優しい口調から推し量るに慈しみに富んだ「おねえさん」なのだから、たぶん「私」に伝えたいことがあったに違いない。“でもね大人になれば あなたもわかる”……。それはサンタクロースの正体と、そして恋する気持ちに違いない。実にロマンティックな一夜だ。
うーん。自慢臭くなってきた。足が速いらしい。
間違いなく恋人自慢だ。背が高いらしい。
聖母のように崇め奉ってしまったけれど、「おねえさん」のちょっと俗っぽい一面も知れたのはよかったと思う。
よくある曲名の勘違い
そういえば曲名を『恋人“は”サンタクロース』と勘違いしていたのだけれど、実際は『恋人“が”サンタクロース』である。この助詞のあしらいも良いアクセントではあるものの、妙に引っかかるのは私だけではないはず……。こちらのネット記事にこんなことが書いてあった。
明快な解説である。“は”は誰もが知る既知の情報を、“が”は未知の新しい情報を伝えるのに用いられる。この場合は「恋人=サンタクロース」という情報が新視点だということ。事実、『恋人がサンタクロース』によるバブル期の刷り込みによってクリスマスは恋人と過ごすものという価値観が形成された、なんて言説も少なくないようだ。あえて“が”とすることで、一体サンタって誰なんだ?! という興味への回答を強めている。
突然の失恋
曲名の勘違いも解消したところで話題を本筋に戻したい。曲は二番に突入する。「おねえさん」と「サンタ」、そして「私」はどうなったんだ。
今でも「私」は「おねえさん」を想っている。何度も冬が過ぎ、それでも健気な「私」は忘れることができない。しかも思い出しているのは彼女であって、聞かされたサンタの話ではないというのもまた良い。
例えばそれは少年と呼んでくる近所のお姉さん。例えばそれはどう生計を立てているのかも判らない親戚のおじさん。そういうジュブナイルな時期に確かに存在したであろう、やたら心を惹きつける人物に、今なお「私」は囚われてしまっているのだ。単なる親しさや憧れの域を出て、愛情や恋心を抱いている可能性だってもちろんある。二人の関係性に否応なく妄想も膨らむというものだ。
“思い出すけど”と逆説の接続詞に繋がっている点にも注目したい。この後に続く内容を想像すると、いまだに「私」は「恋人=サンタクロース説」に納得がいっていない、ということなのだろうか。あるいは信じかねているとも考えられそうだ。
しかしなぜ“思い出す”なのだろうか。隣に住んでいるのだから頻繁に顔も合わせるだろうに。不穏な雰囲気が漂うが……。
あああああ!(発狂)
残酷だ。毎年切ないクリスマスを「私」は過ごし続けていたのかもしれない。「おねえさん」には幸せになってほしいが、彼女をつれて行ってしまった背の高くて足の速い「サンタ」が今は憎い。おかしくないか? サンタはプレゼントを置いていくべきであって、何かを連れ去ってしまうなんて、ハーメルンの笛吹き男に匹敵するホラー童話ではないか。
とはいえクリスマスが「私」にとって寂しいイベントに変わったとは思えないのが続く一節。
素直に読むならば成長した「私」に恋人ができたということだろう。クリスマスイブの夜、恋人がやって来てくれることを想って眠りにつく。昔「おねえさん」の語った話は本当だったのね、そんなオチを想像させて曲はサビのフレーズの繰り返しに入り終わりを迎える。
新説「歳の差百合文学」
うーん。どことなく切ない気持ちを抱いてしまった。このまましっとりとしたクリスマスを過ごすのは本意ではない。
そこで提唱したいのが「私」を迎えにくるのは「おねえさん」仮説である。
というのも、一番の段階で「私」は既に「恋人=サンタクロース説」を聞いているわけで、二番で助詞“が”を用いた歌詞にするには未知の新情報という驚きに欠けている。「私」が半信半疑でいるにしても一番のサビと同等かそれ以上の劇的さを演出するには、もはや「サンタクロース=おねえさん説」という余地しかありえない。
さらにこの説を裏付ける情報はまだまだある。
この曲におけるサンタクロースはいつも“雪の街から来る”。現在の「おねえさん」の所在地はというと、昔に“遠い街へとサンタがつれて行ったきり”……。なんら歌詞に矛盾を生じさせるものではない。
“寒そうにサンタクロース”という歌詞も本来は不自然であろう。雪国生まれ雪国育ちのサンタクロースが防寒を疎かにするとは思えない。それすらままならない喫緊の事情に迫られているサンタクロース。恋人に捨てられ故郷へと帰る姿が目に浮かぶようだ。「私」と同じく“雪の街”出身ではないであろう「おねえさん」を示すのにこれ以上ない描写だ。いや、この表現にもう一歩踏み込むならば、傷心な「おねえさん」の心そのものを表していると読むことだってできる。
“背の高いサンタクロース”だって、今となればその表情をがらりと一変させている。一番の時点では「おねえさん」から見た恋人が高身長なのだろうという早合点をしてしまったが、「私」から見た「おねえさん」も文句なしに“背の高いサンタクロース”であるはず。たしかに今がどうなっているかは定かではない。成長した「私」の身長は久しぶりに再会する「おねえさん」の背を追い越しているかもしれない。しかし、幼い記憶の中の憧れのその人は、いつまでも背の高い「となりのおしゃれなおねえさん」というわけだ。
結び
こうして、寒空に煌々と輝く冬の大三角が如き「恋人=サンタクロース=おねえさん」という大劇的方程式が浮かび上がった。
都合のいいシンデレラストーリーも令和となった今や古臭いと思われて久しい。迎えに来てくれたサンタにつれて行かれたところで、待っているのは寒そうにしながら故郷へ帰るほろ苦いストーリーかも知れない。しかし帰れば待っている人がいたのもまた事実。
往年の名曲は、望郷の趣を漂わせる心温かな歳の差百合文学でもあったわけである。メリークリスマス。
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