2022/11/02

高校の時の文化祭でクラス対抗合唱コンクールがあり、高3の時に俺が指揮者だった。張りきった俺は当時はまっていたゆずの「からっぽ」を自作で合唱譜に起こしてクラスメートに配ってチャレンジしたものの、合唱のイロハもわかってない俺が作った楽譜は難しすぎ音域も変で練習もうまくいかず本番はクラスメートのボイコットが続出してダメだった。そもそも歌に興味ないクラスメートにそんな曲与える方がおかしかった。その時1位だったクラス(俺の友達が指揮してた)は水戸黄門のテーマをアレンジしててメロディーとリズム隊しかなくほとんど練習なしでもうまく歌えてしまうようなもので、それで歌い手には遊びを入れる余裕もあり本番参加率も高く、盛り上がって1位を取っていた。最も難しい曲を完成度高く演奏したものが一位になるという発想しかなかった俺は「あれでもいいんや…」と目から鱗だった。悔しいというよりは、自分にはあの発想が足りなかったのだ、歌い手が見えてなかった、と気付かされた。

気付かされたのだが、それからも全く変わっていない。俺はいつもそうだ。難しすぎる、ボリュームがあり過ぎるものにチャレンジしたくなる。状況判断よりも自分の願望を優先してしまう。同じ高校の文化祭で吹奏楽部のルームコンサートの選曲任された時も、新しい曲をたくさん入れすぎて全然練習が終わらず本番失敗した。大学の合唱団でイベントの選曲任された時も軽いイベントなのに当たり前の曲を選ぶのが嫌でいつもやったことないような曲を選んで団員に顰蹙を買っていた。OB合唱団で指揮者してた時も選曲難しくしすぎたり曲数を盛り込みすぎて失敗したことは一度や二度ではない。はこね音楽祭でも失敗した時は結局難しすぎる曲を選んでしまった時だ。その度に後悔するが、気づくとまたやっている。うまく行ったこともあるが、あらゆる条件がうまく行った場合のみうまく行く、というようなリスキーな計画の上で成り立ってたにすぎない。練習参加率が高いとは限らない、練習が台風で無くなることもある、そうなった時に計画が破綻するようではダメなのだ。他人に選曲相談された時には客観的に考えてベストな曲を提案することができるのだが、自分ごとになると途端に周りが見えなくなる。そうでない道があることをわかっているのに、そちらを選んでいない。

気づいていないが多分今の職場でも俺は同じことをしているのだろう。これくらいやろうぜ?その方が面白いじゃん!で、おそらく通常必要なレベルの倍くらいのボリュームのタスクを渡しているんじゃないか。それで困るのが俺ならいいが、相手を困らせるのは問題だ。ハードなタスクでも千尋の崖を登ってこれる奴ならいいが、そうでない奴が力尽きていくような職場ではダメだ。合唱コンクールなら失敗しても本番爆死すればそれでお終いだが、仕事はそうではない。「nkt_rarryさんのパフォーマンスは自分には真似できない」と言われたこともあるが、真似できない人でもやっていけるタスクは、と聞かれた時に客観的にちゃんと答えられるようにならないとダメだ。学ばなくては。

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