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見送り

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「黄色い点字ブロックまで離れてください!」怒号にも近い勢いのアナウンスが、終わらない。中々離れないのをみかねて、向かいの新幹線の車掌さんが走って注意をしにいってた。

思えば、いろんな土地にいくようになって、ほんとどこでも近いもんだな。と思うようになった。もちろんお金さへあれば、ではあるが、どこへでかけるのももうそんなに代わらない。むしろ、公共の交通手段があまり無いところなんかは、たとえば同じ兵庫県であっても、車のない僕にとっては遠いところになる。

みたいな事をフワフワと思つつ、しかしまー、何かにつけて母親を思い出す自分は、マザコンなんだろうなとつくづくおもったりもしながら。


母親の涙はほんと数える程しか見たことがない。

6人兄妹の末っ子だった母の人生の前半はもちろんあまり知らない。
20才前後で田舎から、兄と2人で仕事を探すために関西へでてきて、美容師になった。
 就職列車の話なんかをした記憶があるけど、それに乗ってきたのかどうかは聞いたことがないような気もする。
 母が生まれた当時はいわゆる戦後で、今とは違い、子沢山がわりと当たり前なイメージがある。当然ちゃ当然の、貧しかったという話、母親の母親の話もけっこう聞かせてもらったな。僕が産まれた時には他界していたので、あったことはない。母親の実家で写真見た事があるきもするけど、おぼえてない。
 生きて行く という事にとにかく必死だったという事くらいは容易に想像できる。もちろん、想像を絶するとはおもうけれど。

前置きがながくなりすぎました。

そんな母の姉が白血病でなくなって、今度は兄が(一緒に出てきた兄とはまた違う兄)癌になった。余命宣告の期間を見事に越えて生きてくれてたと思う。
 そんな中、みんなでその兄の住む家、母親の生まれ育った家へいった。
 いわゆる五右衛門風呂だし、トイレは離れている。いまではなかなか体験できないナイスな体験だ。牛を飼っているので、牛さんと遊んでもらったりもした。
 話は逸れるけど、牛が競りに連れて行かれる時、親の牛はもうわかっていて、ずっと泣いている。ものすごい地鳴りのような声をだして泣いている。いつまでも。


みんなでバーベキューしたり、近所の違う兄妹のうちへお邪魔したり、観光なんかもしたな。あっという間に時間はすぎて、帰る日になった。
 車で空港までいくのだが、全員が車に乗り込んで、あとは母親だけになった。車の外で母親が兄と2人で会話してた。母親は気持ちの入った封筒を渡そうとしていたが、兄は拒否していた。しばらくやりとりは続いていたけど、受け取られる事なく、母親は車に乗り込んで、空港へ向かって出発した。兄はずっとこちらを見ていた。優しさ中に律する気持ちを携えたようないつもの目で。

 みえなくなると、母親はしばらく泣いていた。


 昭和を生きた人の感覚なのかもしれないが、人前では涙はみせないもの、という感覚が確かにあったと思う。



あの時の光景は今でもはっきりと覚えてる。




もっともっと、

もっと。

必死に生きよう。


2022.4.1
名古屋から静岡に向かう電車の中で。

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