怪物は惰眠を貪る

「惰眠を貪る」

 本来の意味が途絶えて久しいこの言葉について、一度だけ祖父が話してくれたことがある。
 お盆の親戚の集まりで、大人たちが酒を飲んでわあわあと騒ぎ立てるのに飽きた頃だった。
 退屈そうにしていたのを察したのだろう、僕を見つけた祖父は、ちょいちょいと手招いた。どっかり膝の上に座ると、色んな話をしてくれた。そのほとんどを忘れてしまったが、たった一つの話だけは、妙に鮮明に焼き付いていた。
「ダラダラと怠けて寝こけるのを「惰眠を貪る」っちゅうがな、こいつぁ元々は牛みたいにぐうぐう眠ることを言ったわけじゃないんだよ」
 難しい言葉に首を傾げていると、声の調子を落として、
「……実はな。むかぁし、この辺りにゃあ、夜な夜な人を襲うバケモンがいたのよ」
 お化けの話が好きだった僕は、背中に冷たい汗が流れても、後でトイレに行けなくなるのも構わず、熱心に耳を傾けた。
「そのバケモンは歳も取らねぇしそう簡単に死にもしねぇ。その代わりにな、眠れねぇのさ。どんなに眠りたくても眠れねぇのよ。人が死ぬのを永眠っつうだろう。つまり眠れねぇってことはな、起き続けなけりゃならん、ってこたぁ死ねねぇってことなのさ」
 そう言って祖父はひひ、としわくちゃに笑った。頭の中で人を襲う怪物を想像して怯えていた心が少し和らぐ。
「で、だよ。外国にゃあ吸血鬼って蚊の王様みたいなのいるだろ。あんな風にな、そのバケモンも夜中に人を見つけるとガブリと咬み付いてくんのよ。そうするとな……襲われた奴ぁ、ピンピンと眠くなくなっちまう。それだけじゃあねぇ。やる気がむくむくと湧いてきて、昼も夜もなく働いちまうのよ」
 父がたまに飲んでいる栄養ドリンクみたいだなぁと思った。いいことばかりじゃないか、と僕は答えた。
 でも祖父は首を横に振った。
「一度や二度ならいいのよ。だがこいつが何度も繰り返されちまうと……そいつもまた、眠れなくなっちまう。するとどうだ、今度は咬まれた奴までふらふら~っと眠れねえもんだから、夜中に人を襲うようになっちまうんだなぁ」
 まるっきり吸血鬼と一緒だ。でも、眠らなくていいなんて、深夜にやってるテレビが待てない僕からしたら、すごく羨ましい話だった。いいなぁと僕が言うと、しかし、
「いいもんか。眠れねぇってのは、この世ン中でも一等賞か二等賞に入るくらいにゃあ辛いことだぞ。バケモンの目にはいっつもパンダみてぇな隈ができちまってるし、もうずーっと朝と夜を寝ずに過ごしてっとぉ境目がわかんなくなっちまうんだな。俺もな、徹夜が続いた時ぁ、一体俺があの話をしたのは今日なのか昨日なのかはっきり思い出せなくなっちまったんだよ。寝ねぇもんだから、今日ってもんがずーっと一人だけ続いちまうんだ」
 それはなんだか怖くて寂しい話だな、と思った。
「だから人から眠気を奪っちまうのさ。てめぇが眠るためにな。つまり、ガブリと襲って吸い取るのは血じゃなくって睡魔なのよ。これが「惰眠を貪る」って言葉の正体なんだな。ありゃものの例えじゃあなかったのよ、昔は」
 話を終えると祖父は僕の頭を優しくポンポンと叩いた。不思議な世界からうるさい酒の席に連れ戻されたようで、ハッとしてしまった。
「もうお義父さん、あんまり適当な話、この子に吹き込まないでください。信じちゃうじゃないですか」
 母が呆れたように文句をこぼすと、祖父は悪ガキみたいに「いしし」と歯を見せて笑い、僕にだけ聞こえる声で「怒られちまったよ」と呟いたので、すっかり本気なのか冗談なのかわからなくなってしまった。

 もう十五年は昔の話だ。昨年、祖父は不幸にも――祖父に言わせれば幸福なことなのかもしれないが――永い眠りにつき、そのまま起きる様子はない。
 そんな話を今更になってなぜ思い出したのか。
 理由は単純だ。
 目の前にそれらしい男が、闇の中でゆらりと立ちはだかっているからである。

 病的なまでに青白い肌。
 夜の具現化かと思わせる、肌と相反する黒くツヤのない髪。
 目元を覆う前髪の隙間から覗く瞳はぎらつき、その周囲は眼窩が浮き出たような隈に覆われている。
 整った顔立ちだが、獲物を狙うかの如き目つきに気圧され、美青年というよりも狩人のような印象を受ける。

 そして何よりも異様なのは――彼が紺色にチェック模様のパジャマを着ている、ということだ。

「……あのう」
 青年が――と言ってもタメくらいだが――疲弊したかのように枯れた声を絞り出した。
「……なにか」
 いつでも逃げ出せるよう、背後に意識を向け、同時に逃走経路を計算しながら機会を伺うべく会話を受ける。
「レポートの〆切とか……ゼミの課題に追われていたりは、しませんでしょうか……」
 百年の因縁を持つ仇敵を仕留めようかという顔から、あまりにも似つかわしくない日常的な言葉が飛び出した。想定外の言葉に答えが詰まる。
「あるいは……ゲームをぶっ通しで遊びたいとか……漫画を大急ぎで完成させなければならないとか……何か寝る間を惜しむような必要に迫られては、おりませんでしょうか……」
「おりませんが」
 青年は表情を変えないまま、しかし「ガーン」というショックを受けたようにびくりと体を引き攣らせた。
「で……では……えーと……何かしら、夜を徹し没頭したい趣味がおありだったりなんかしたり……」
「そうですね、夜通し行いたいことでしたら、一つだけ」
 表情は相変わらず微動だにしないにも関わらず、パァッと明るく喜びに満ちたような気配が漏れ出した。
「それは、どのような」
「惰眠です。夜を徹し眠りたいのです。泥どころか我も周囲も液状化し、我が夢の世界に全てを引きずり込まんばかりに、惰眠を貪り食い散らかしたいのです」
 青年の目が転がり落ちんばかりに見開かれ、口もわなわなと震えていた。どうやら相当にショックな回答だったらしい。
 さて、もしも目の前の彼が祖父の話に現れた吸血鬼ならぬ吸眠鬼であったとするならば、僕の答えは意に反し、なおかつ欲しても手に入らない天に輝く星のようなものだろう。
 事実、怪物であったなら、そんなものを怒らせるだなんて愚か者の行いだ。
 しかし、もしも本当に怪物だというのなら――僕の人生で初めて拝める本物の超常存在という証明になるのだ。こんなに楽しいことが、他にあるだろうか。
「――ッ!!」
 顔を伏せたかと思うと、凄まじい勢いで青年の腕が僕へと伸びてきた。襲われる――、
 ……と思った瞬間、僕の両手はがっしりと掴まれていた。
「その気持ちわかります!! 私も……私も、惰眠を貪りたい!!」
 いきなり目の前で成人男性にマジ泣きされると、想像以上にどうしたものかと困り果てるものだな、というのを学んだ。青年は勢いよく僕の手をぶんぶんと上下に振りながら続ける。
「あなたはよくわかっていらっしゃる!! あのですねぇ、「いや~二徹しちゃったよ~」とか自慢げに語る大学生、本当に馬鹿かと!! そんな不摂生しか誇ることはないのかと!! そんなことよりも日々しっかりとした睡眠をとることの方が、いかに得難く素晴らしい美徳なのか一週間通しで説教してやりたい!!」
 美しい顔の真ん中をスゥッと通る鼻筋から垂れる鼻水というのは、やはり美しい存在にあっても中々の間抜けに見えるなぁと思いつつ、圧倒的な気迫に押されて言葉を挟む隙がない。
「たかだか夜分蚊に刺され痒みで起きて眠れないだとか、暑さの只中汗にまみれて目が覚めるだとか、お小水の気配の中でトイレで用を足す夢を見て飛び起きると同時にスボンが潤っていないか慌てて確かめるだとか、そんな程度のことで眠りを妨げられても不愉快極まりないのにですね、自ら睡眠という体力回復と記憶の定着の好機を捨て去るとか、もうね、信じ難い!! いったい義務教育の中で他の余計な何を学んだ結果、三大欲求の一つに後ろ足で砂かけるような暴挙を刷り込まれたのかと問い詰めてやりたい!!」

 それから小一時間ほど、眠りに対する熱い思いに塗れた演説は続いた。握られ続け振られ続けた僕の腕は、途中で引き千切られるんじゃないかと心配になった。幸い筋肉痛程度で収まりそうだ。
 冷静さを取り戻した青年は、僕に向かって深々と頭を下げて謝罪をした。
「お見苦しいところをお見せしました……言い訳をするようで恐縮ですが、いかんせんここのところ寝不足が続いておりまして……」
「それはどれくらい」
「三月寝ておりません」
 ちょっと責める気にはなれなかった。
 さっきの挑発めいた発言は、しかし誇張はあれど大嘘ではなく、かなりの本心であった。僕は眠ることが好きだし、眠れない辛さを想像すると恐ろしい。三か月どころか三日も寝れなければ、もうとんでもないストレスに押しつぶされているだろう。それだけに、彼のことが可哀想に思えてきていた。
「つかぬことを聞きますが、あなたは「惰眠を貪る」という不老不死の不眠者でしょうか」
 びくりと肩が跳ね、それから恐る恐るといった風に顔を上げると、
「……よもや、知っている方がいようとは思いませんでした」
 と、肯定とも受け取れる答えを返した。
「あなたに咬まれた者は、いずれあなたと同じような体質に変わってしまうのですか」
 彼は少し考えてから、おずおずと口を開いた。
「今時の言葉を借りれば、アドレナリンが段々と多量に出続ける過度な興奮状態に陥りやすくなる、というようなところでしょうか」
「それは恐ろしい」
 しかし、と慌てた様子で青年は手を振り否定の意を示す。
「一度や二度でしたらそんなことには。また一度なら一週間、数度でも一か月以上の間を置けば、影響などすっかり消え失せますので、過剰に恐れる必要はありません。まあ、エナジードリンクと同じように、用法用量を守っていただきさえすれば、これほど便利な怪物もいないのではと自負しております」
 さて、そんなセールス上手の怪物の言葉をどれほど鵜呑みにしたものかと悩んだが、ここは一つ、哀れなインソムニアを助けてやることにした。
「生憎、僕は眠りを惜しんでまでやりたいことはないので、むしろ咬まれたならば困ってしまうのですが、大学の友人や知人やそのまた知人といった面々であれば、あなたを必要としそうな眠りの価値をわからぬ者に心当たりがあります」
 青年(と先ほどから言っているが、件の不老不死が事実であれば、果たして外見相応の年齢かどうかに疑問符が付く)の表情がパアッと晴れ笑顔に変わった。その屈託ない喜びようは、年齢を遥かに下回る少年のそれのようであった。
「あなたの安眠のお手伝いをしましょう。どうせなら、初回は無料、二度目以降は向こうからせがんでくるでしょうから、徐々に値段を吊り上げるのが良いかと」
「麻薬の売人のようなことをおっしゃる」
「まあ精々、稼いだ金で良い枕とベッドを買って、共に質のいい惰眠を貪りましょう」

(了)

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