命拾い

 夕方から降り出した雨が窓を強く叩く。もう少しマシになったら帰ろうか、という気持ちを挫くかのように、一向に止む気配がなく途方に暮れていた。
 自転車で来るんじゃなかった。かといって、置いて帰ると明日が困る。
 部室棟の二階、縦に細長い文芸部の部室に、岩田先輩と二人きりだった。今日は雨の予報を聞いて、みんな顔も出さずに帰ってしまったようだ。僕もそうすればよかったのだが、さすがに五限の講義をこれ以上サボると単位に響くので、仕方なく出席したのが運の尽きだった。いや、普段から真面目にしてさえいれば、今日一日くらい休めたのだが。
 課題や部誌の原稿に手を付けることもせず、結局ダラダラとツイッターを弄ってしまっている。今ちょっとでも進めておけば、後で泣くこともないのだが。わかっているのに気が乗らないのが悪いのだ。
 長机の反対側に座った岩田先輩も、これといって何をするでもない。ただ、どこかいつもより憂いを帯びた様子で、水滴で歪んだ窓の外をじっと眺めていた。
 そういやこの人はバイクで来ていたはずだ。僕と同じで、雨で足止めを食らっているのだろう。
「……ドッペルゲンガーって、聞いたことあるか」
 中空に放り出されたような、唐突な質問だった。普段なら聞き流すが、生憎この部室に返事ができる人間は僕しかいない以上、答えざるを得ない。
「そりゃまあ。ゲームとかでも出てきますし」
 お気に召したのか、あるいは気に入らないのか。自分から質問しておきながら何も答えないのは、さすがにどうなんだと思わざるを得ない。
 と、少しばかり腹を立ててみるが、岩田先輩は言葉を探すかのように、視線を床に彷徨わせていた。
 それから、
「じゃあさ……首だけのドッペルゲンガーって、聞いたことあるか」
 予想外に異様な言葉が飛び出してきて、反射的に「えっ」と言葉が漏れ出した。
「というか、見たことあるか」
 岩田先輩が石像のように無機質な表情をして、いつの間にかこちらに向き直っていた。
 普段から表情豊かというタイプの人では決してない。しかし、仮にも先輩に対して不気味だという感情を抱いたのは、今が初めてのことだった。
「き、聞いたこともないもの、見たことあるわけないじゃないですか」
「……そうか」
 虚ろな瞳は何も見ていないかのように、机へと向けられる。僕は誤魔化すように、慌てて言葉を続ける。
「つかいきなりなんですか? まさか心霊体験しちゃったとか、そういう話ですか?」
「実はな。一度だけ、見たことあるんだよ」
 沈黙。バチバチと打ち付ける雨音だけが、不穏な空気を殊更に煽っているかのようだった。
「あの時も、こんな強い雨が降ってたな」
 呟くように、先輩は己が見た奇妙な存在の話を始めた。

 岩田先輩が大学一年生の頃というから、もう二年前のことになる。
 久しぶりに小学校時代の友人と遊ぶこととなり、流れで地元の自然公園に行くこととなった。昔、何度か遊んだことがある場所の話題になった流れからだったという。
 すっかり小さくなった遊具。落ち葉が敷き詰められた遊歩道。今となっては、よくもこんなところを縦横無尽に走り回っていたものだ、と呆れにも似た笑いがこぼれた。
 存外盛り上がりはしゃいでしまったようで、気が付くとすっかり夕方になっていた。空には暗い色の雲が立ち込め、今にも降り出しそうな気配だった。
 帰るか、となったところで、友人の一人が「あれ!?」と頓狂な声を上げた。スマホをどこかで落としてしまったらしい。
 ほっとくわけにもいかないとなり、みんなで彼のスマホに電話をかけながら、音か光で反応がないものかと散り散りに探し始めた。
 岩田先輩も一人、遊歩道を遡り、アスレチックコースまで探し回っていた。運が悪いことに、予想通り雨が降り始めた。しかも雨脚は強く、これ以上の探索は無理かもしれないと思った頃だった。
 アスレチックの方で、ふと何かが光った気がした。よくよく見てみると、それは探していた友人のスマホだった。どうやら着地の瞬間にでもポケットから転がり落ちたらしく、雲梯の終点、木組みの遊具上にちょうど乗っかっていたのだった。
 雨で足を滑らせないようにアスレチックの段を上がり、スマホを拾いあげた。その時、ふと視界の隅に何かを捉えた。
 下からだと死角になっていた遊具の上に、ボールのような影がある。何の気なしに視線を向けた。
 だが、それはボールではなかった。
 人の頭だった。
 まるで江戸時代の晒し首のように、頭だけが鎮座していた。
 驚いた岩田先輩は瞬間的に後ずさり、思い切り柱に背中をぶつけた。その拍子に転び、生首の方へ倒れ込んでしまった。
 視界一杯に飛び込んだ顔。
 ぼう、とどこを見るでもないその顔には、見覚えがあった。
 毎日見ている顔。
 紛れもなく、岩田先輩自身の顔だった。
 叫びは雨に掻き消される。慌てて後ずさり、階段を転がり落ちる。
 そして、恐怖を否定するかのように、もう一度、見間違いを期待して視線を向けた。
 が、やはりそこにあったのは、自分の頭部だった。
 思わず自分の頭に――今、紛れもなく異常事態を目撃している目と、そのことを考えている脳みその入っているはずの頭に――触れていた。しっかりと、首の上にある。じゃあ、あれはなんだ。
 混乱しつつ、恐る恐る手を伸ばしていた。どうして逃げ出さずに触ろうとしたのか、自分でもわからないという。
 まるで鏡を撫でるかのように、指先が近づいてゆき――ついに触れた、その瞬間。
 自分の生首は消え去っていた。
 ほんの一瞬、何か慣れ親しんだ皮膚のようなものに触れた感触だけを指先に残し、白昼夢だと嘲笑うかのように、消えていたのだ。

「……それ、めちゃめちゃ怖い、ですね」
 僕は思わず聞き入ってしまった。脳裏には目の前にある岩田先輩の顔が、もう一つ転がっている悪夢のような景色をつい思い浮かべていた。
「ドッペルゲンガーだ、っていうなら、よからぬことが起こったりってなかったんですか?」
 果たしてそれがドッペルゲンガーなのかは甚だ疑問だ。事実なら怪奇現象には間違いないが。
 だが岩田先輩は首を横に振り、
「いや。それからしばらく不安だったが、恐ろしいことは起こらなかったよ」
 答えを聞いて僕は少しだけ安堵していた。特にそれ以降ないのなら、極論勘違いでも片づけることさえできるのだから。
 それでも先輩の顔は浮かないままだった。
「それがな。もしかすると、正体がわかったかもしれないんだ」
「どういうことなんです」
 先輩は体を丸めると、ゴソゴソと突然漁りだした。机の下に顔をやると、どうやら足元に置いてあったリュックから何かを取り出そうとしているようだった。
 中身がバサリ、と机の上に放り出された。
「……うえぇ、なんですこれ!?」
 赤黒く汚れた二種類のボロきれ。この色は血……なのか。
 よくよく見ると、一つはデニム状の素材が血塗れになっているようだった。もう一つは、Tシャツのようだった。
「これな、俺の服」
「いや、何したらこんなボロッボロになるんですか!? てか普通にこれ事故とかそういうレベルじゃ」
 僕が言いかけた言葉に、ほとんど被さるように、
「事故ったんだよ。昨日の夜」
 と、断ち切るように言った。
「え……?」
 反射的に先輩の体を観察してしまう。
 しかし……どこにも怪我はない。半袖から覗く腕にも、かすり傷すら見つけられない。
 もしこの血糊が本物で、事故も事実だと言うなら、そもそもここにしれっと座っているはずがない。
「冗談で言ってるんじゃないんだよ」
 答えを先読みするかのように、先輩が言った。
「昨日もいきなり雨が降ってきただろ。カーブで曲がり切れなくて、スリップしちまったんだ。そのまま対向車線に放り出されて、向こうから来たトラックに轢かれて――」
「ちょ、ちょっとちょっと。それ自分で言っててあり得ないってわかってますよね」
 岩田先輩はクスリとも笑うことなく、困惑する僕など知る由もないというような態度で、また窓の方に顔を向けてしまった。
 それから、ぽつぽつとまた話始めた。
「……轢かれた瞬間までは覚えてる。で、今朝、家で目が覚めた。その時に着てたのが、それだ」
 僕は「それ」が指しているであろうズタボロで血塗れの、服だったらしいものを見つめていた。
「学校来る前にな、警察に連絡してみたんだよ。そしたら大騒ぎだ。俺のバイクが残ってるし、トラックの運転手のドラレコにも事故の瞬間が映ってるのに、被害者だけが突然いなくなっちまったんだからな」
 淡々とした語り口が、却って僕の中で非常識に現実味を与えていた。
「だが、俺はこの通りまったくの無傷だ。あれこれ聞かれても、俺にも「気が付いたら家で目が覚めた」としか答えられないもんだから、被害者にならないまま終わっちまった」
 あまりにも奇妙な話だ。いったい、いつになったらネタばらしをしてくれるのか。そう期待してしまいながら、心のどこかで事実だと受け入れ初めてしまっている自分がいた。
 しかし、だ。
「……そ、それで。事故の話が本当だったとして……それがさっきの生首の正体と、どうつながるんですか」
 岩田先輩は僕をちらりと一瞥し、それからまた、降りやまない雨を眺めるように窓の外へ視線をやった。
「あの俺と同じ顔な……多分、俺の残機だったんだと思う」

(了)

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