この先、メガネになるものはなんだろう

※この文章は感情優先で、なおかつ車輪の再発明かもしれないことを開き直った文章です。あしからず。


ぼんやりと考えたことを、多少まとめて書いてみる。

僕はメガネをかけている。
初めてメガネを使いだしたのは中学生の頃だ。年々悪くなり、今視力は0.0いくつか、ちょっとわからない。
メガネなしで外を出歩くことは自分の命とかあれやこれに関わるので、家族を人質に取られでもしない限り、ノンメガネウォーキングに洒落こもう、という心持ちにはならないだろう。

で、ふと思った。
誰も町中でメガネをかけた人間を見てギョッとはしないし、メガネをかけた人間を見て「大変ですね。お手伝いしましょうか」と声をかける人はまずいないと思う。
街を歩けばメガネ屋はたくさん見つかる。いつぞや吉祥寺に行った時なんて、ちょっと信じられないくらいメガネ屋だらけで驚いたくらいだ。

恐らくメガネは、最もカジュアルな補装具だ。
カジュアルすぎるので、誰も過剰な心配をしないくらいだ。

例えばさっき挙げたような状況、他の補装具だったら違ったと思う。
車椅子や白杖の人がいたら、「何かお手伝いしましょうか」と声をかけるかもしれない。
義手や義足の人が身近に居ないので、いきなり会ったらびっくりしたり、興味本位でじーっと見てしまったりすると思う。
それよりもうちょっと目にするのは補聴器だけど、でも相手が補聴器だと気が付いたら、普段より大きくはっきりと話すだろう。
こうした装身具の人を見かけたら気遣うことを、メガネの人相手にはほとんどしない。

僕はメガネ屋は知っている。補聴器も販売店を見かけたことはある。
でも、車椅子屋さんとか、義手・義足屋さんみたいな、駅前で気軽に探して買えるような店舗は知らない。というのは、こうした補装具はオーダーメイドが基本であり、カジュアルなものじゃないからなのだろう。

僕の勝手な基準だけど、カジュアルさの基準の一つとして「誰かに怒られない」というのがありそうだと思ってる。
伊達メガネ、というものを見聞きしたことがない人は、少ないんじゃないかなと思う。
一応説明すると、本来は視力を矯正するためのメガネから、肝心の視力矯正の部分を取っ払った代物だ。
そして、恐らくだけど、伊達メガネをかける人というのは、多くはオシャレを目的として身に着けているんじゃないかと思う。医療目的で装着することがあるのも知っているが、それはひとまず置いておく。

ちょっと考えてほしい。
仮に僕が「カッコいいから」というオシャレだけを目的に、伊達補聴器だとか伊達車椅子、伊達白杖、伊達義手や伊達義足を身に着けていたらどうだろう。
多分だけど、めちゃめちゃに「なんて不謹慎な真似をするんだ」と怒る人がいると思う。逆の立場だったら僕も、怒るというよりも「紛らわしい真似するなぁ」と思うかもしれない。

勘違いしないで欲しいのだけれど、だから伊達メガネが悪いと言いたいわけでは全くない。そんなつもりはさらさらない。
むしろ、障害を矯正するためのアイテムが、気遣いや差別を受けることなく自然に受け入れられている状況というのは、喜ばしいのかもしれない。

どうしてメガネはカジュアルに受け入れられたのだろうと考える。(答えはネットや本で探せばすぐ出るだろうけど、わざわざ自分なりに考えて言葉にしてみようと思う。的外れなら、後で恥じらう)
とりあえず思いつくのは、「事故や病気にならなくても起きうる」ことだから、かもしれない。日常生活を送っているだけで起きうる。それが視力低下だ。
若くても普通に視力は悪くなる。僕は中学生で必要になったが、小学生でも既にメガネをかけている子はいた。結構いた。
年を取れば顕著にみんな悪くなってくる。必要なのはメガネかもだし、老眼鏡かもだけれど。それだけ普遍的に目は悪くなるのだ。
補聴器がやや当たり前なのも、やっぱり年を取って耳が遠くなる人が多いからだろう。これも「事故や病気にならなくても起きうる」ことだと考えていいんじゃないかと思う。
日常を過ごしていて、段々と腕を失ったり、足を失ったりすることは、少なくとも当たり前のことではないだろう。病気だったり、大けがだったり、理由は様々ある。
事故も病気も誰にも起きうることだけど、そこまで多いわけではない。交友関係の乏しい僕は、大学時代の知人に一人だけ車椅子の人がいたくらいしか心当たりがない。

そろそろタイトルの話題に触れようと思う。

この先、メガネになるものはなんだろう。
メガネのように、みんなが当たり前に身に着けていて驚かれたり珍しかったりせず、伊達メガネのように「不謹慎だ」と怒られることなく、駅前なんかで気軽に買えてしまうような、そんな補装具や矯正器具。

ちょっと考えてみる。

まず、伊達補聴器。
うーん、なんとも言い難い。でもこれ極端な話、補聴器じゃなくてもいい気がしてしまう。耳に着けるアイテム、もう結構あるから。
イヤリング、ピアスだけじゃない。ヘッドホンなんかもオシャレアイテムになる。
だから、わざわざ伊達補聴器を作り、オシャレ目的で身に着けるのかな、というところが、僕には想像できない。既にイヤホンで埋まってしまっている場所を取り合って、ということにはならなそう。

次は、伊達義手・伊達義足。
もちろん伊達である以上、本当に腕や足を失うわけではない。そうなると「鋼の錬金術師」のエドのコスプレをするみたいに、義手や義足に似たものを身に着けるガントレットのような形になると思う。
正直な話、これは結構ありえなくもないかなと思ってる。
僕はサイボーグのキャラクターが好きで、昔からロボットと筋肉を足したような腕を見ては「カッコいいな~」と憧れていた、くらいの中身スカスカな理由しか出せないけど。
ただ、やっぱり伊達義手・伊達義足を自分がやろうと思ったら、きっと「まずいかもなぁ」と思って躊躇するだろう。自分に対して思ってしまうことは、多分人にも向けてしまう。これはきっと、僕の中の差別意識みたいな何かなんだと思う。
でも、これが一般化したら、きっと新しい人たちは当たり前に受け入れてしまうのかなぁ、伊達メガネみたいに。とも思う。
義手や義足を見て、カッコいいと思う気持ちはある。でもこれは、腕や足を失うことへの憧れではない。この感覚は、伊達メガネをかけたいという気持ちと近いんじゃないかな、と思う。

ひとまず最後、伊達車椅子になると、ちょっとやっぱり想像が難しくなってくる。
もしかしたら、セグウェイや電動カートみたいに、車椅子型の乗り物が出てくるかもしれない。そうすれば、足が悪くなくても乗れる車椅子のようなものにはなるだろう。しかし伊達車椅子とはまた違ってしまう。
となると、なんとなくだけど、そうした現実的な理由で、似たものはあっても伊達ではない別物になりそうな気がしている。

なんとなく、こういう内容に気軽に触れること自体、ちょっと怒られるんじゃないかなーっていう不安がある。それでも、自分としては大事な考えのような気がしているので、言語化を試みてみた。
ただこの文章、ろくすっぽ推敲もしてないものなので、誤字脱字あったらごめんなさい。
考え方におかしな部分あったら、それは勉強や配慮の不足なので、素直にごめんなさい。

ほっといてもあと何十年かしたら、世の中に当たり前としてカジュアルに受け入れられたネクストメガネシングが存在しているのかもしれない。
できれば間に合って、しかも「へえ、若者スゲーなぁ」と感心していられたらいいなぁ、と思う。

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