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「対訳 資本論」の試み

 マルクスの「資本論」を対訳で読んでみようではありませんか!

 といっても、原文に著作権切れと思われる高畠素之(1886-1928)の翻訳を並べるだけ。

 ホントは序文からやりたいですが、まあ、試しに第一章。

 ドイツ語原文はこちらか拝借しています。http://www.mlwerke.de/me/me23/me23_049.htm

 どうしてこれをやりたいかというと、日本語話者にとってこの本がどのように読めるか考えたいからです。翻訳はどれも一長一短。高畠はすばらしいと思うけれど、言葉が少し古い。

 もう一つは、いわゆる「価値形態論」って何?っていう話で。

 これが難解だと言われますが、「価値形態論」なんて呼び方をするから難しいんです。

 これは言葉、言語の形式の問題です。

 私たちが日常的に使っている「価値」という言葉はさまざまな表れ方をしているけれど、どのように表れているか、この概念がどのように使われているか、に注目するわけです。

 それが言葉の意味です。

 わたしたちは言葉の意味を定義してから、その意味にあるように言葉を使っているのではないですよね。

 そうではなく、言葉がどのように使われているかを観察して、そこから意味を抽出するわけです。

 第一章には次の図が出てきます。 

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 皆さん、この式の意味は「定義の前に」分かると思います。

 この式、右辺と左辺は意味が異なっています。

 それを区別するために、私たちの会話において、価値概念が左辺の形式(Form)で表れるときは、数字がいろいろですから、その形式を「相対的価値形態(Relative Wertform)」と呼びましょうと。

 右辺の形式の時は、数字が二十でいつも等価だから「等価形態(Äquivalentform)」と呼びましょうと。

 そういう話なんですね。 

 〇〇形態!という難しい言葉を定義して、それを現実に当てはめるのではなく、現実の価値の言葉を、この本においてはある場合を相対的価値形態、別の場合を等価形態と呼ぶことにします、という方法なわけ。



第一章 商品

1. Die zwei Faktoren der Ware: Gebrauchswert und Wert(Wertsubstanz, Wertgröße)

第一節 商品の二因子、即ち使用価値と価値(価値の実体と価値の大小)

<49> Der Reichtum der Gesellschaften, in welchen kapitalistische Produktionsweise herrscht, erscheint als eine "ungeheure Warensammlung"(1), die einzelne Ware als seine Elementarform. Unsere Untersuchung beginnt daher mit der Analyse der Ware.

 資本制生産方法が専ら行はれる社会の富は『膨大なる商品集積」(一)として現われ、個々の商品はその成素形態として現われる。故に我々の研究は、商品の分析を以って始まる。

*(一)拙者『経済学批判』(べルリン、一八九五年刊、第四頁)。*

Die Ware ist zunächst ein äußerer Gegenstand, ein Ding, das durch seine Eigenschaften menschliche Bedürfnisse irgendeiner Art befriedigt. Die Natur dieser Bedürfnisse, ob sie z.B. dem Magen oder der Phantasie entspringen, ändert nichts an der Sache (2). Es handelt sich hier auch nicht darum, wie die Sache das menschliche Bedürfnis befriedigt, ob unmittelbar als Lebensmittel, d.h. als Gegenstand des Genusses, oder auf einem Umweg, als Produktionsmittel. 

商品は先ず、外界の一対象である。即ち、その諸性質に依って、人類の何等かの種類の欲望を充たす一の物である。この欲望の性質如何、即ちそれが胃腑から起るか、又は空想から起るかは、問題の上に何等の変化をも与えるものでない(二)。又、その物が如何ようにして人類の欲望を充たすか、即ち直接に生活資料として、換言すれば享楽の対象としてか、それとも迂回的に生産機関としてか、それもここでは問題とならない。

*(二)『願望は欲望を含む。それは心の食欲であって、餓の身体に於ける如く自然的のものである。・・・・大多数は心の欲望を充たすことによって価値を受けるのである』ニコラス・バーボン著『新貨軽鋳論、ロック氏の貨幣価値引上論考に答う』ロンドン、一六九六年刊、第二及び三頁)。

Jedes nützliche Ding, wie Eisen, Papier usw., ist unter doppelten Gesichtspunkt zu betrachten, nach Qualität und Quantität. Jedes solches Ding ist ein Ganzes vieler Eigenschaften und kann daher nach verschiedenen Seiten nützlich sein. Diese verschiedenen Seiten und daher die mannigfachen <50> Gebrauchsweisen der Dinge zu entdecken ist geschichtliche Tat (3). So die Findung gesellschaftlicher Maße für die Quantität der nützlichen Dinge. Die Verschiedenheit der Warenmaße entspringt teils aus der verschiedenen Natur der zu messenden Gegenstände, teils aus Konvention.

鉄、紙などの如き如何なる有用物も、これを二重の見地、即ち質と量との両面から観察することが出来る。斯くの如き有用物は、いずれも多数性質の集合体であって、したがって種々なる方面に有用なるを得る。比等の種々なる方面、随って有用物の様々なる用途を発見するは、歴史的の事跡である(三)。有用物の分量に対する社会的公認尺度の設定も又そうである。元来、商品尺度の多種多様なることは、一部的には、秤量せらるべき対象の性質の多種多様なるに起因し、一部的にはまた、伝習に起因するものである。

*(三)『物は固有価値(ニコラス・バーボンはこの言葉を使用慣値の特殊代用語にしている)をもっている。而してこの固有価値は何処に於いても同一の価値をもっている。例えば、磁石の鉄を引きつける性質の如きがそれである』(前掲第一六貢)。磁石の鉄を引きつける性質は、この性質に依って磁極性を発見した時に初めて有用となったものである。

Die Nützlichkeit eines Dings macht es zum Gebrauchswert (4). Aber diese Nützlichkeit schwebt nicht in der Luft. Durch die Eigenschaften des Warenkörpers bedingt, existiert sie nicht ohne denselben. Der Warenkörper selbst, wie Eisen, Weizen, Diamant usw., ist daher ein Gebrauchswert oder Gut. Dieser sein Charakter hängt nicht davon ab, ob die Aneignung seiner Gebrauchseigenschaften dem Menschen viel oder wenig Arbeit kostet. Bei Betrachtung der Gebrauchswerte wird stets ihre quantitative Bestimmtheit vorausgesetzt, wie Dutzend Uhren, Elle Leinwand, Tonne Eisen usw. Die Gebrauchswerte der Waren liefern das Material einer eignen Disziplin, der Warenkunde (5). Der Gebrauchswert verwirklicht sich nur im Gebrauch oder der Konsumtion. Gebrauchswerte bilden den stofflichen Inhalt des Reichtums, welches immer seine gesellschaftliche Form sei. In der von uns zu betrachtenden Gesellschaftsform bilden sie zugleich die stofflichen Träger des - Tauschwerts.

 物の有用性は、この物を使用価値たらしめる(四)。然しこの有用性は、空中に浮んでいるものではない。それは商品体の諸性質に基くものであって、商品体を離れては存在しない。されば鉄、小麦、ダイヤモンドなどの如き商品体それ自身が一の使用価値、即ち財なのである。商品体のこの資格は、商品体の使用上の諸能性を占有するために、人類が多くの労働を費したか、少しの労働しか費さないかに懸るものではない。我々は使用価値を考察するに当たり、つねに、その一定の分量を前提する。例えば何ダースの時計、何ヤールのリンネル、何トンの鉄などという如くである。商品の使用価値は、特殊の一学科たる商品学(五)に材料を供給するものである。

*(四)「如何なる物の自然的価値も、その物が諸種の必要を充たし、又は人間生活の諸便宜に応ずる適当性ということに存している』ジョン・ロック著『利子低減の諸結果に関する研究』(一六九一年初刊、一七七七年ロンドン出版ロック全集本、第二巻第二八貢。十七世紀に於いても尚、イギリスの著述家たちが使用価値の意味でworthなる言葉を使用し、また交換価値の意味でvalueなる言葉を使用していたことを、我々はしばしば発見する。これは全く、現実の物に対してはチュートン系の言葉を使用し、主観に反射された物に対してはラテン系の言葉を使用することを好む国語の精神に一致するところである。

*(五)ブルジョア的社会に於いては、如何なる人も、商品の購買者として、百科事典的商品知識を有すという擬制が行われている。

Der Tauschwert erscheint zunächst als das quantitative Verhältnis, die Proportion, worin sich Gebrauchswerte einer Art gegen Gebrauchswerte anderer Art austauschen (6), ein Verhältnis, das beständig mit Zeit und Ort wechselt. Der Tauschwert scheint daher etwas Zufälliges und rein Rela- <51> tives, ein der Ware innerlicher, immanenter Tauschwert (valeur intrinsèque) also eine contradictio in adjecto (7). Betrachten wir die Sache näher.

 交換価値に先ず、分量関係即ち一種類の使用価値が他種類の使用価値と交換される(六)比例(時と処とに準じて絶えず変化するところの)として現われる。故に交換価値は偶然的な純相対的なものであり、随って商品に内在固有するところの交換価値、固有価値、ありというは、一の形容矛盾であるように見える(七)。この間題を向、詳しく考えてみよう。

*(六)『価値は斯々の一物と斯々の他物、一生産の斯々の尺度と斯々の他の尺度との間に存する交換関係の中に成立つものである』(ル・トローヌ著『社会的利益について』デール編パリ、一八四六年刊、第八八九貢)

*(七)『自在的交換価値をもつということは、何物にとっても不可能なことである』(ニコラス・バーボン著前掲第一六頁)。或はバトラーの言う如く、『一物の価値とは、その物が幾許の物をもたらすかということである。』

Eine gewisse Ware, ein Quarter Weizen z.B. tauscht, sich mit x Stiefelwichse oder mit y Seide oder mit z Gold usw., kurz mit andern Waren in den verschiedensten Proportionen. Mannigfache Tauschwerte also hat der Weizen statt eines einzigen. Aber da x Stiefelwichse, ebenso y Seide, ebenso z Gold usw. der Tauschwert von einem Quarter Weizen ist, müssen y Stiefelwichse, y Seide, z Gold usw. durch einander ersetzbare oder einander gleich große Tauschwerte sein. Es folgt daher erstens: Die gültigen Tauschwerte derselben Ware drücken ein Gleiches aus. Zweitens aber: Der Tauschwert kann überhaupt nur die Ausdrucksweise, die "Erscheinungsform" eines von ihm unterscheidbaren Gehalts sein.

一定の商品、例えば一クォーターの小麦はx量の靴墨、y量の絹、z量の金、約して言えば、種々様々な比例に於ける他の諸商品と交換される。されば小麦は、単一の交換価値のみを有するものではなく、多数の交換価値を有しているのある。しかるにx量の靴墨も、y量の絹も、Z量の金なども、総て皆、一クォーターの小麦の交換価値であるから、量の靴墨、Y量の絹、Z量の金、などは交互に置き換え得るところの、又は互にその大さを等しくするところの交換価値であらねばならぬ。そこで第一にこう言う結論が生じて来る。即ち、同じ一商品の有効なる各交換価値は、一の等一物を言い現わしている。第二にまた、総じて交換価値なるものはそれ自身と区別し得る或内容の表章様式即ち『現象形態』たり得るのみである。

Nehmen wir ferner zwei Waren, z.B. Weizen und Eisen. Welches immer ihr Austauschverhältnis, es ist stets darstellbar in einer Gleichung, worin ein gegebenes Quantum Weizen irgendeinem Quantum Eisen gleichgesetzt wird, z.B. 1 Quarter Weizen = a Ztr. Eisen. Was besagt diese Gleichung? daß ein Gemeinsames von derselben Größe in zwei verschiednen Dingen existiert, in 1 Quarter Weizen und ebenfalls in a Ztr. Eisen. Beide sind also gleich einem Dritten, das an und für sich weder das eine noch das andere ist. Jedes der beiden, soweit es Tauschwert, muß also auf dies Dritte reduzierbar sein.

さらに二つの商品、例えば小麦と鉄とを例に採ろう。これら二商品の交換比例は如何ようにもあれ、それは常に、与えられたる分量の小麦を、或分量の鉄と等位に置く方程式、例えば、一クォーターの小麦=aハンドレッドウェイトの鉄を以って示すことが出来る。この方程式は何を意味するか。それは同じ大さの一共通物が、二つの相異った物、即ち一クォーターの小麦とaハンドレッドウェイトの鉄との内に存在することを示すのである。故にこの両者は、それ自体に於いて小麦でもなく、また鉄でもない或第三者に等しいものである。随ってこの両者の各は、それが交換価値である限り、斯様な第三者に約元し得るものでなくてはならぬことになる。

Ein einfaches geometrisches Beispiel veranschauliche dies. Um den Flächeninhalt aller gradlinigen Figuren zu bestimmen und zu vergleichen, löst man sie in Dreiecke auf. Das Dreieck selbst reduziert man auf einen von seiner sichtbaren Figur ganz verschiednen Ausdruck - das halbe Produkt seiner Grundlinie mit seiner Höhe. Ebenso sind die Tauschwerte der Waren zu reduzieren auf ein Gemeinsames, wovon sie ein Mehr oder Minder darstellen.

幾何学上の単純なる一例を以って、この事実を明かにしよう。如何なる直線形にしろ、その面積を決定し比較するためにはこれを三角形に分解する。而してまた、この三角形それ自体は、これをその目に見える形とは全く異った言い現し、即ちその高さと底との積の二分の一に約元する。これと同様に、諸商品の交換価値も又、それに依ってより多量なり少量なりを表現されているところの一共通物に約元し得るのである。

Dies Gemeinsame kann nicht eine geometrische, physikalische, chemische oder sonstige natürliche Eigenschaft der Waren sein. Ihre körperlichen Eigenschaften kommen überhaupt nur in Betracht, soweit selbe sie nutzbar machen, also zu Gebrauchswerten. Andererseits aber ist es grade die Abstraktion von ihren Gebrauchswerten, was das Austauschverhältnis <52> der Waren augenscheinlich charakterisiert. Innerhalb desselben gilt ein Gebrauchswert grade so viel wie jeder andre, wenn er nur in gehöriger Proportion vorhanden ist. Oder, wie der alte Barbon sagt:

"Die eine Warensorte ist so gut wie die andre, wenn ihr Tauschwert gleich groß ist. Da existiert keine Verschiedenheit oder Unterscheidbarkeit zwischen Dingen von gleich großem Tauschwert."(8)

この共通物は、商品の幾何学的、物理学的、化学的、又はその他の自然的性質ではあり得ない。商品の有形的性質は総じてそれが商品を有用ならしめ、使用価値たらしむる限りに於いてのみ、考慮に入るものである。他方にまた、商品の使用価値からの抽象こそ、商品の交換比例をば一目瞭然的に特徴するところのものである。この交換比例の内部に於いては、一の使用価値はそれが適当なる比例を以って存在しさえすれば、他の如何なる使用価値とも同じに通用する。或はまた、老バーボンの言う如く、『一種類の商品と他種類の商品とは、その交換価値の大さが等しければ共に同じものである。同じ大さの交換価値を有する物の間には、何等の差異も区別もない』(八)。

*(八)『一百ポンドに価する鉛なり鉄なりは、一百ポンドに価する銀なり金なりと同じ大さの価値あるものである。』(ニコラス・バーボン前掲、第五三及び七頁)。

Als Gebrauchswerte sind die Waren vor allem verschiedner Qualität, als Tauschwerte können sie nur verschiedner Quantität sein, enthalten also kein Atom Gebrauchswert.

各商品は、これを使用価値として見れば、互いに質を異にするということが先に立つが、交換価値として見れば、ただ量を異にし得るに過ぎず、随って使用価値の一原子をも含まないのである。

Sieht man nun vom Gebrauchswert der Warenkörper ab, so bleibt ihnen nur noch eine Eigenschaft, die von Arbeitsprodukten. Jedoch ist uns auch das Arbeitsprodukt bereits in der Hand verwandelt. Abstrahieren wir von seinem Gebrauchswert, so abstrahieren wir auch von den körperlichen Bestandteilen und Formen, die es zum Gebrauchswert machen. Es ist nicht länger Tisch oder Haus oder Garn oder sonst ein nützlich Ding. Alle seine sinnlichen Beschaffenheiten sind ausgelöscht. Es ist auch nicht länger das Produkt der Tischlerarbeit oder der Bauarbeit oder der Spinnarbeit oder sonst einer bestimmten produktiven Arbeit. Mit dem nützlichen Charakter der Arbeitsprodukte verschwindet der nützlicher Charakter der in ihnen dargestellten Arbeiten, es verschwinden also auch die verschiedenen konkreten Formen dieser Arbeiten, sie unterscheiden sich nicht länger, sondern sind allzusamt reduziert auf gleiche menschliche Arbeit, abstrakt menschliche Arbeit.

そこで、商品体をその使用価値から離れて見るとき、残るところはただ労働生産物たる一性質のみである。然し労働生産物でさえも、既に我々の手の中で変化している。労働生産物の使用価値から抽象することは、同時にまた、労働生産物を使用価値たらしめる有形的な諸成分及び諸形態からも抽象することになる。斯くして労働生産物は、もはや、卓子でもなく、家でもなく、糸でもなく、その他何等の有用物でもない。労働生産物の凡ゆる有形的性質は消え去ってみる。それはもはや、指物働、建築労働、紡績労働、その他如何なる一定の生産的労働の産物でもない。労働諸生産物の有用的性質と共に、それらの物に表現されている諸労働の有用的性質も又消滅し、これら諸労働の種々なる具体的形態も又消滅する。諸労働はもはや、互に相異なるところなく、すべてが等一なる人間労働、即ち抽象的人間労働に約元されている。

Betrachten wir nun das Residuum der Arbeitsprodukte. Es ist nichts von ihnen übriggeblieben als dieselbe gespenstige Gegenständlichkeit, eine bloße Gallerte unterschiedsloser menschlicher Arbeit, d.h. der Verausgabung menschlicher Arbeitskraft ohne Rücksicht auf die Form ihrer Verausgabung. Diese Dinge stellen nur noch dar, daß in ihrer Produktion menschliche Arbeitskraft verausgabt, menschliche Arbeit aufgehäuft ist. Als Kristalle dieser ihnen gemeinschaftlichen Substanz sind sie Werte - Warenwerte.

然らば、労働諸生産物の残基は何であるかを考察しよう。右の抽象の後に労働生産物に残るものは、同一なる空幻的の対象性のみである。即ち無差別なる人間労働の、換言すれば、その支出の形式に頓着するところなく考えた人間労働力の支出の、単なる凝結のみである。これらの物は結局ただ、その生産のために人間労働力が支出され、人間労働が蓄積されるということを示すに止まる。これらの物は、斯くの如き共通なる社会的実体の結晶として見るとき、価値(商品価値)なのである。

<53> Im Austauschverhältnis der Waren selbst erschien uns ihr Tauschwert als etwas von ihren Gebrauchswerten durchaus Unabhängiges. Abstrahiert man nun wirklich vom Gebrauchswert der Arbeitsprodukte, so erhält man ihren Wert, wie er eben bestimmt ward. Das Gemeinsame, was sich im Austauschverhältnis oder Tauschwert der Ware darstellt, ist also ihr Wert. Der Fortgang der Untersuchung wird uns zurückführen zum Tauschwert als der notwendigen Ausdrucksweise oder Erscheinungsform des Werts, welcher zunächst jedoch unabhängig von dieser Form zu betrachten ist.

商品の交換関係に於いては、交換価値なるものは使用価値から全く独立したものとして現われることは、我々の既に見たところである。然るに、労働諸生産物の使用価値から現実的に抽象してしまうと、上に限定する如き価値が残る。故に商品の交換関係たる交換価値に現れるところの共通物とは、即ち価値であるということになる。本書の研究が進むにつれて、価値の必然的表章様式又は現象形態としての交換価値の説明に論を戻すことになるが、今は先ず、この形態から独立して価値の性質を考えて見ねばならぬ。

Ein Gebrauchswert oder Gut hat also nur einen Wert, weil abstrakt menschliche Arbeit in ihm vergegenständlicht oder materialisiert ist. Wie nun die Größe seines Werts messen? Durch das Quantum der in ihm enthaltenen "wertbildenden Substanz", der Arbeit. Die Quantität der Arbeit selbst mißt sich an ihrer Zeitdauer, und die Arbeitszeit besitzt wieder ihren Maßstab an bestimmten Zeitteilen, wie Stunde, Tag usw.

要するに、一の使用価値、即ち財は、抽象的意義に於ける人間労働がその中に対象化され実体化されているが故にのみ価値を有するのである。然らばこの価値の大きさは、如何にして秤量されるか。使用価値の中に含まれているところの『価値形成実体』たる労働の量に依って秤量されるのである。而して労働の量はまた、労働の時間的継続に依って秤量され、労働時間は更らに時、日、等の如き一定の時間部分を尺度とするのである。

Es könnte scheinen, daß, wenn der Wert einer Ware durch das während ihrer Produktion verausgabte Arbeitsquantum bestimmt ist, je fauler oder ungeschickter ein Mann, desto wertvoller seine Ware, weil er desto mehr Zeit zu ihrer Verfertigung braucht. Die Arbeit jedoch, welche die Substanz der Werte bildet, ist gleiche menschliche Arbeit, Verausgabung derselben menschlichen Arbeitskraft. Die gesamte Arbeitskraft der Gesellschaft, die sich in den Werten der Warenwelt darstellt, gilt hier als eine und dieselbe menschliche Arbeitskraft, obgleich sie aus zahllosen individuellen Arbeitskräften besteht. Jede dieser individuellen Arbeitskräfte ist dieselbe menschliche Arbeitskraft wie die andere, soweit sie den Charakter einer gesellschaftlichen Durchschnitts-Arbeitskraft besitzt und als solche gesellschaftliche Durchschnitts-Arbeitskraft wirkt, also in der Produktion einer Ware auch nur die im Durchschnitt notwendige oder gesellschaftlich notwendige Arbeitszeit braucht. Gesellschaftlich notwendige Arbeitszeit ist Arbeitszeit, erheischt, um irgendeinen Gebrauchswert mit den vorhandenen gesellschaftlich-normalen Produktionsbedingungen und dem gesellschaftlichen Durchschnittsgrad von Geschick und Intensität der Arbeit darzustellen. Nach der Einführung des Dampfwebstuhls in England z.B. genügte vielleicht halb so viel Arbeit als vorher, um ein gegebenes Quantum Garn in Gewebe zu verwandeln. Der englische Handweber brauchte zu dieser Verwandlung in der Tat nach wie vor dieselbe Arbeitszeit, aber das Produkt seiner individuellen Arbeitsstunde stellte jetzt nur noch eine halbe gesellschaftliche Arbeitsstunde dar und fiel daher auf die Hälfte seines frühern Werts.

商品の価値がその生産の進行中に支出された労働の量に依って決定されるとすれば、人が怠情であり又は不熟練であればある程、商品を造り上げる為にそれだけ多くの時間を要する訳であるから、彼の造る商品はそれだけ価値多いように見えるかも知れぬ。然しながら、価値の実体を形成する労働とは、等一なる人間労働、換言すれば同一なる人間労働力の支出を言うである。商品界の価値全体の中に表現される社会の総労働力は、無数の個別的労働力から成り立っているが、ここでは総べて一様なる人間労働力と見做される。而してこれらの個別的労働力の各個は、それが社会的の平均労働力たる性質を有し、また斯くの如き社会的の平均労働力として作用し、随って一商品の生産上に、平均的或は社会的に必要なる労働時間のみを要する限り、いずれも皆同一なる人間労働力である。而してその社会的に必要なる労働時間とは、現在に於ける社会的に標準を成す生産条件と、労働の熟練及び能率の社会的平均程度とを以って、何等かの使用価値を生産するに必要な労働時間を指すのである。例えば、イギリスに於いて蒸気織機の採用された結果、一定量の糸を織物にするのに恐らく従来の労働の半ばを以って事足るようになったであろう。

<54> Es ist also nur das Quantum gesellschaftlich notwendiger Arbeit oder die zur Herstellung eines Gebrauchswerts gesellschaftlich notwendige Arbeitszeit, welche seine Wertgröße bestimmt (9). Die einzelne Ware gilt hier überhaupt als Durchschnittsexemplar ihrer Art (10). Waren, worin gleich große Arbeitsquanta enthalten sind oder die in derselben Arbeitszeit hergestellt werden können, haben daher dieselbe Wertgröße. Der Wert einer Ware verhält sich zum Wert jeder andren Ware wie die zur Produktion der einen notwendige Arbeitszeit zu der für die Produktion der andren notwendigen Arbeitszeit. "Als Werte sind alle Waren nur bestimmte Maße festgeronnener Arbeitszeit."(11)

イギリスの手織工は、この同一の仕事に対して事実上従前通りの労働時間を要したのであるが、彼自身の労働一時間の生産物は、今や半時間の社会的労働を表現するに過ぎなくなり、随って従前の価値の半ばに低落したのである。斯くの如く、一の使用価値の価値の大小を決定するものは、社会的に必要なる労働の量、又はその生産上社会的に必要なる労働時間に外ならぬのであって(九)、個々の商品は、この場合、総じてその所属種類の平均見本と見るべきである(十)斯くて同一量の労働を含むところの、換言すれば同一の労働時間に生産され得るところの諸商品は、みな同じ大さの価値を有することになる。一商品の価値が他の各商品の価値に対して有する比例は、前者の生産に必要なる労働時間が後者の生産に必要なる労働時間に対して有する比例に等しい。『価値として見れば、如何なる商品も、凝結したる労働時間の一定量に過ぎぬ』(十一)のである。

*(九)第二版註『諸種の生活必需品が互いに交換される場合、その価値は、これらの物品の生産上必然的に必要とされ、且つ通例充用されるところの労働量に依って決定される』(匿名者著『一般金利、特にまた公債その他の金利に関する考想』ロンドン、第三六貢。この匿名書は前世紀に於ける注目すべき一著述であるが、それには刊行の日附が与えられていない。然しその内容から判断すると、ジョージ二世の治下、一七三九年又は四十年の頃、公にされたものであることは明かである。

*(十)『同一種類の凡ゆる生産物は相合して一の分量を成すものであって、その価格は特殊の事情に頓着なく、全般的に決定されるものである』(ル・トローヌ前掲第八九三頁)。

*(十一)前揭拙著第六員

Die Wertgröße einer Ware bliebe daher konstant, wäre die zu ihrer Produktion erheischte Arbeitszeit konstant. Letztere wechselt aber mit jedem Wechsel in der Produktivkraft der Arbeit. Die Produktivkraft der Arbeit ist durch mannigfache Umstände bestimmt, unter anderen durch den Durchschnittsgrad des Geschickes der Arbeiter, die Entwicklungsstufe der Wissenschaft und ihrer technologischen Anwendbarkeit, die gesellschaftliche Kombination des Produktionsprozesses, den Umfang und die Wirkungsfähigkeit der Produktionsprozesses, und durch Naturverhältnisse. Dasselbe Quantum Arbeit stellt sich z.B. mit günstiger Jahreszeit in 8 Bushel Weizen dar, mit ungünstiger in nur 4. Dasselbe Quantum Arbeit liefert mehr Metalle in reichhaltigen als in armen Minen usw. Diamanten kommen selten in der Erdrinde vor, und ihre Findung kostet daher im Durchschnitt viel Arbeitszeit. Folglich stellen sie in wenig Volumen viel Arbeit dar. Jacob bezweifelt, daß Gold jemals seinen vollen Wert bezahlt <55> hat. Noch mehr gilt dies vom Diamant. Nach Eschwege hatte 1823 die achtzigjährige Gesamtausbeute der brasilischen Diamantgruben noch nicht den Preis des 11/2jährigen Durchschnittsprodukts der brasilischen Zucker oder Kaffeepflanzungen erreicht, obgleich sie viel mehr Arbeit darstellte, also mehr Wert. Mit reichhaltigeren Gruben würde dasselbe Arbeitsquantum sich in mehr Diamanten darstellen und ihr Wert sinken. Gelingt es, mit wenig Arbeit Kohle in Diamant zu verwandeln, so kann sein Wert unter den von Ziegelsteinen fallen. Allgemein: Je größer die Produktivkraft der Arbeit, desto kleiner die zur Herstellung eines Artikels erheischte Arbeitszeit, desto kleiner die in ihm kristallisierte Arbeitsmasse, desto kleiner sein Wert. Umgekehrt, je kleiner die Produktivkraft der Arbeit, desto größer die zur Herstellung eines Artikels notwendige Arbeitszeit, desto größer sein Wert. Die Wertgröße einer Ware wechselt also direkt wie das Quantum und umgekehrt wie die Produktivkraft der sich in ihr verwirklichenden Arbeit. <1. Auflage folgt: Wir kennen jetzt die Substanz des Werts. Es ist die Arbeit. Wir kennen sein Größenmaß. Es ist die Arbeitszeit. Seine Form, die den Wert eben zum Tausch-Wert stempelt, bleibt zu analysieren. Vorher jedoch sind die bereits gefundenen Bestimmungen etwas näher zu entwickeln.>

 されば商品の価値の大きさは、その商品の生産に必要なる労働時間が不変であるとすれば変化することはないであろう。然るにこの労働時間間は、労働の生産力に変化ある毎に変化するものである。而して労働の生産力はまた、種々なる事情、なかんずく労働者の熟練の平均程度、科学及びその工芸的応用の発達程度、生産行程の社会的結合、生産機関の範囲及び作用能力、諸種の自然事情、等に依って決定される。
 例えば同一量の労働が、豊年には八ブシェルの小麦に依って代表され、不作の年には僅々四ブシェルの小麦に依って代表される。また同一量の労働が、豊坑に於いては貧抗に於けるよりも多量の金属を供給する等の事実もある。ダイヤモンドは、地表に於いては稀有のものであって、これを見出すには平均して多大の労働時間を要する。斯くしてダイヤモンドは僅少の量を以って多大の労働を代表することになるのである。ヤコーブは、果して金の全価値が支払われたことあるかを疑っている。ダイヤモンドに至っては尚更らである。エシュヴェーゲに依れば、一八二三年ブラジルの諸ダイヤモンド坑に於ける過去八十年間の採掘総高は、同国に行はれる砂糖及び珈琲栽培業の一年半の平均生産物の価格にも達しなかった。而も前者はより多くの労働、随ってまたより多くの価値を代表していたのである。
 同一量の労働も、豊坑に於いてはより多大のダイヤモンドに依って代表されるのであって、ダイヤモンドの価値は低落することになる。また若し僅少の労働を以って炭素をダイヤモンドに化し得るようになるとすれば、ダイヤモンドの価値は煉瓦の価値以下に低落し得るのである。概括して言えば、労働の生産力が大なるに従って、一物品の生産に要する労働時間は益々小となり、その物品に結晶している労働量、随ってこの物品の価値は益々小となるのである。反対に、労働の生産力が小なれば小なる程、一物品の生産に要する労働時間は益々大となり、斯くしてこの物品の価値も又、益々大となるのである。即ち一商品の価値の大小はこの商品に体現している労働の量に正比例し、その生産力には逆比例して変化するのである。

Ein Ding kann Gebrauchswert sein, ohne Wert zu sein. Es ist dies der Fall, wenn sein Nutzen für den Menschen nicht durch Arbeit vermittelt ist. So Luft, jungfräulicher Boden, natürliche Wiesen, wildwachsendes Holz usw. Ein Ding kann nützlich und Produkt menschlicher Arbeit sein, ohne Ware zu sein. Wer durch sein Produkt sein eignes Bedürfnis befriedigt, schafft zwar Gebrauchswert, aber nicht Ware. Um Ware zu produzieren, muß er nicht nur Gebrauchswert produzieren, sondern Gebrauchswert für andre, gesellschaftliche Gebrauchswert. {Und nicht nur für andre schlechthin. Der mittelalterlichen Bauer produzierte das Zinskorn für den Feudalherrn, das Zehntkorn für den Pfaffen. Aber weder Zinskorn noch Zehnkorn wurden dadurch Ware, daß sie für andre produziert waren. Um Ware zu werden, muß das Produkt dem andern, dem es als Gebrauchswert dient, durch den Austausch übertragen werden.}(11a) Endlich kann kein Ding Wert sein, ohne Gebrauchsgegenstand zu sein. Ist es nutzlos, so ist auch die in ihm enthaltene Arbeit nutzlos, zählt nicht als Arbeit und bildet daher keinen Wert.

 物に価値たらずして使用価値たることを得る。即ち人類に対するその物の効用が、労働に依って生じたのでない場合がそれであって、例えば、空気や、処女地や、自然的の牧場や、野生の木材などに於いて見るところである。また、物は商品たらずして有用であり、且つ人間労働の生産物たることを得る。例えば、自己の労働の生産物に依って自己の欲望を充たす人は、使用価値を造り出すには相違ないが、商品を造り出すものではない。商品を生産するためには、彼は単に使用価値を生産するというのみでなく、また他人のための使用価値を、即ち社会的使用価値を生産せねばならぬ。『否、単に他人のために使用価値を造るということばかりではない。中世の農民は封建主君のために年貢とすべき穀物を造り、僧侶のために十分一税とすべき穀物を造った。然し年貢とすべき穀物も、十分一税とすべき穀物も、他人のために生産されたものではあるが、そのために商品とはならなかった。生産物が商品となるためには、それが使用価値として役立つ他人の手に交換を通して移転されることを要するのである』最後に如何なるものも使用対象たることなくして価値たることを得ない。物が無用であるとすれば、その内に含まれている労働も又無用であって、斯かる労働は労働とは認められず、随って何等の値をも形成するものではないのである。 

*(十一a)第四版誌この括弧内の説明のないため、マルクスは生産者以外の人に依って消費される生産物の総べてを、商品視したという誤解が生じたので、私はここにこれを挿入することにした訳である。ーF・E・

2. Doppelcharakter der in den Waren dargestellten Arbeit

第二節 商品に表現される労働の二重性質

<56> Ursprünglich erschien uns die Ware als ein Zwieschlächtiges, Gebrauchswert und Tauschwert. Später zeigte sich, daß auch die Arbeit, soweit sie im Wert ausgedrückt ist, nicht mehr dieselben Merkmale besitzt, die ihr als Erzeugerin von Gebrauchswerten zukommen. Diese zwieschlächtige Natur der in der Ware enthaltenen Arbeit ist zuerst von mir kritisch nachgewiesen worden.(12) Da dieser Punkt der Springpunkt ist, um den sich das Verständnis der politischen Ökonomie dreht, soll er hier näher beleuchtet werden.

商品は最初、一の二重物として、即ち使用価値及び交換価値として、我々の目に映じた後に至り、労働も又、価値に言い現わされる方面から観察すれば、使用価値造出者としてのそれに属するところのものと同一の特徴を有しなくなることが明らかになった。商品に含まれる労働のこの二重性質は、私が初めて批判的に論証したところのものである(十二)。而してこの問題は経済学を理解するについての枢軸であるから、ここに尚詳しく明らかにする必要がある。

*(十二)前掲拙著、第一二、一三頁その他随所。

Nehmen wir zwei Waren, etwa einen Rock und 10 Ellen Leinwand. Der erster habe den zweifachen Wert der letzteren, so daß, wenn 10 Ellen Leinwand = W, der Rock = 2 W.

 試みに、一着の上衣と十ヤールのリンネルとの如き二商品を例に採ろう。仮に十ヤールのリンネルが=Wとすれば上着=二Wとなるように、右の前者が後者に二倍した価値を有するものとする。

Der Rock ist ein Gebrauchswert, der ein besonderes Bedürfnis befriedigt. Um ihn hervorzubringen, bedarf es einer bestimmten Art produktiver Tätigkeit. Sie ist bestimmt durch ihren Zweck, Operationsweise, Gegenstand, Mittel und Resultat. Die Arbeit, deren Nützlichkeit sich so im Gebrauchswert ihres Produkts oder darin darstellt, daß ihr Produkt ein Gebrauchswert ist, nennen wir kurzweg nützliche Arbeit. Unter diesem Gesichtspunkt wird sie stets betrachtet mit Bezug auf ihren Nutzeffekt.

上衣は特殊の一欲望を充たすところの使用価値である。これを造り出すには、一定種類の生産的活動を要する。この生産的活動の種類は、その目的や、作業方法や、対象や、要具や、結果などに依って決定される。斯くその有用性が生産物の使用価値に依って、又は生産物が使用価値であるという事実に依って表現される労働を、我々は簡単に有用労働と名づける。この見地のもとに於いては、労働は常にその利用上の効果に関連して考察される。

Wie Rock und Leinwand qualitativ verschiedne Gebrauchswerte, so sind die ihr Dasein vermittelnden Arbeiten qualitativ verschieden - Schneiderei und Weberei. Wären jene Dinge nicht qualitativ verschiedne Gebrauchswerte und daher Produkte qualitativ verschiedner nützlicher Arbeiten, so könnten sie sich überhaupt nicht als Waren gegenübertreten. Rock tauscht sich nicht aus gegen Rock, derselbe Gebrauchswert nicht gegen denselben Gebrauchswert.

上衣とリンネルとが、各々質を異にする使用価値である如く、その存在を媒介するところの労働も又、互いに質を異にする。裁縫と機織とが即ちそれである。若し上衣とリンネルとが互いに質を異にする使用価値でなく、随ってまた互いに質を異にする有用労働の生産物でないとすれば、両者は商品として対立することが出来なくなる。上衣は上衣と交換されるものではなく、同じ使用価値は同じ使用価値と交換されるものではないからである。

In der Gesamtheit der verschiedenartigen Gebrauchswerte oder Warenkörper erscheint eine Gesamtheit ebenso mannigfaltiger, nach Gattung, Art, Familie, Unterart, Varietät verschiedner nützlicher Arbeiten - eine gesellschaftliche Teilung der Arbeit. Sie ist Existenzbedingung der Warenproduktion, obgleich Warenproduktion nicht umgekehrt die Existenzbedingung gesellschaftlicher Arbeitsteilung. In der altindischen Gemeinde ist die Arbeit gesellschaftlich geteilt, ohne daß die Produkte zu Waren werden. Oder, ein näher liegendes Beispiel, in jeder Fabrik ist die Arbeit syste- <57> matisch geteilt, aber diese Teilung nicht dadurch vermittelt, daß die Arbeiter ihre individuellen Produkte austauschen. Nur Produkte selbständiger und voneinander unabhängiger Privatarbeiten treten einander als Waren gegenüber.

種類の相異った使用価値または商品体の総和には、同様にまた種類を異にするところの、門、科、属、種、変種、等に分類される様々な有用労働の総和、換言すれば社会的の分業が現われる。この社会的分業は商品生産の存在条件であるが、然しその反対に商品生産は社会的分業の存在条件たるものではない。古代インド的の共同体に於いては、労働は社会的に分割されているが、然しその生産物は商品となるものではない。尚一層手近な例を挙げれば、如何なる工場に於いても労働は体制的に分割されているが、この分割は労働者が自己の手に成った生産物を交換するという事実によって媒介されるものではない。互いに独立した個別的な私労働の生産物のみが、商品として相対立するのである。

Man hat also gesehn: in dem Gebrauchswert jeder Ware steckt eine bestimmte zweckmäßig produktive Tätigkeit oder nützliche Arbeit. Gebrauchswerte können sich nicht als Waren gegenübertreten, wenn nicht qualitativ verschiedne nützliche Arbeiten in ihnen stecken. In einer Gesellschaft, deren Produkte allgemein die Form der Ware annehmen, d.h. in einer Gesellschaft von Warenproduzenten, entwickelt sich dieser qualitative Unterschied der nützlichen Arbeiten, welche unabhängig voneinander als Privatgeschäfte selbständiger Produzenten betrieben werden, zu einem vielgliedrigen System, zu einer gesellschaftlichen Teilung der Arbeit.

要するに、各商品の使用価値には一定の目的に合致した生産的なる活動即ち有用労働が含まれている。使用価値なるものは互いに質を異にする有用労働を含むにあらざれば、商品として相互対立することはできない。生産物が一般に商品の形をとる社会、即ち商品生産者の社会に於いてこそ、互いに独立した生産者の私営業として相互個別的に営まれる有用労働の斯かる質的差異は、複雑に編成されて一体制なる社会的分業に発展していくのである。

Dem Rock ist es übrigens gleichgültig, ob er vom Schneider oder vom Kunden des Schneiders getragen wird. In beiden Fällen wirkt er als Gebrauchswert. Ebensowenig ist das Verhältnis zwischen dem Rock und der ihn produzierenden Arbeit an und für sich dadurch verändert, daß die Schneiderei besondre Profession wird, selbständiges Glied der gesellschaftlichen Teilung der Arbeit. Wo ihn das Kleidungsbedürfnis zwang, hat der Mensch jahrtausendelang geschneidert, bevor aus einem Menschen ein Schneider ward. Aber das Dasein von Rock, Leinwand, jedem nicht von Natur vorhandnen Element des stofflichen Reichtums, mußte immer vermittelt sein durch eine spezielle, zweckmäßig produktive Tätigkeit, die besondere Naturstoffe besondren menschlichen Bedürfnissen assimiliert. Als Bildnerin von Gebrauchswerten, als nützliche Arbeit, ist die Arbeit daher eine von allen Gesellschaftsformen unabhängige Existenzbedingung des Menschen, ewige Naturnotwendigkeit, um den Stoffwechsel zwischen Mensch und Natur, also das menschliche Leben zu vermitteln.

上衣を着る者が裁縫師であろうが、裁縫師の注文客であろうが、それは上衣にとって区別の無いことである。いずれの場合にも、上衣は使用価値として作用する。同様に、裁縫業が特殊の一職業となり、換言すれば社会的分業の独立した一部となったからとて、上衣とそれを生産する労働との関係そのものは何等変化するところがない。衣服を着ようとの欲望に迫られたところにあっては、裁縫師という専業者の生じない以前、人類は既に数千年の久しきにわたって裁縫していたのである。然し上衣やリンネル、換言すれば天然自然には存在せざる、素材的富の各要素の存在は常に、特殊の自然素材をば特殊の人間欲望に同化せしむるところの、一定の目的に従ってする特殊の生産的活動に依って媒介されねばならなかったのである。要するに労働なるものは、これを使用価値の形成者たる有用労働として見れば、凡ゆる社会的形態から独立した、人類生存上の一条件であり、人類と自然との間の代謝機能たる人類生活を媒介すべき永遠の自然必然事なのである。

Die Gebrauchswerte Rock, Leinwand usw., kurz die Warenkörper, sind Verbindungen von zwei Elementen, Naturstoff und Arbeit. Zieht man die Gesamtsumme aller verschiednen nützlichen Arbeiten ab, die in Rock, Leinwand usw. stecken, so bleibt stets ein materielles Substrat zurück, das ohne Zutun des Menschen von Natur vorhanden ist. Der Mensch kann in seiner Produktion nur verfahren, wie die Natur selbst, d.h. nur die Formen der Stoffe ändern.(13) Noch mehr. In dieser Arbeit der Formung <58> selbst wird er beständig unterstützt von Naturkräften. Arbeit ist also nicht der einzige Quelle der von ihr produzierten Gebrauchswerte, des stofflichen Reichtums. Die Arbeit ist sein Vater, wie William Petty sagt, und die Erde seine Mutter.

上衣、リンネル等の如き使用価値、約言すれば商品体は、自然素材拉びに労働なる二要素の結合したものである。上衣、リンネル等に含まれる各種有用労働の総和を控除するとき、常に残るところのものは、人類の助力なくして自然のまま存在している物質的の基底である。人類は生産上ただ自然それ自身のする通りにしかなし得ないのである。即ち素材の形態を変更し得るに過ぎない(十三)。しかのみならず、この形態変更の労働に於いても、人類は常に諸種の自然力に依って支持される。されば労働は、その所産たる使用価値、即ち素材的富の唯一の源泉ではない。ウィリアム・ペティの言う如く、労働は素材的富の父であり、而して土地はその母である。

* (十三)『宇宙の凡ゆる現象は、人の手に依って造られたものと、普遍的な自然律に依って生じたものとを問わず、現実的な創造を代表するものではなく、素材の形態変化を代表するに過ぎない。人類の才能が再生産の観念を分析するにあたって発見する唯一の要素は、集合離散のみである。斯くして土地、空気及び田野の水が穀類に変化するとすれば、これ即ち価値(使用価値のこと。もっともヴェリは、フィジオクラットに対するこの論戦の中で、彼自身如何なる種類の価値を論じているかを確かとは知らなかったのであるが)及び富の再生産である。人の手に依って昆虫の分泌物が絹糸に変じ、又は金属の若干分片が時計を形成する場合についても同様である』(ピエトロ・ヴェリ著『政治経済考察』一七七三年初刊)クストジ編イタリー経済名著集、近世篇、第十五巻第二二貢)。

Gehen wir nun von der Ware, soweit sie Gebrauchsgegenstand, über zum Waren-Wert.

以上は使用対象たる限りの商品を論じたのであるが、更に転じて商品価値を論ずることにしよう。

Nach unsrer Unterstellung hat der Rock den doppelten Wert der Leinwand. Dies ist aber nur ein quantitativer Unterschied, der uns zunächst noch nicht interessiert. Wir erinnern daher, daß, wenn der Wert eines Rockes doppelt so groß als der von 10 Ellen Leinwand, 20 Ellen Leinwand dieselbe Wertgröße haben wie ein Rock. Als Werte sind Rock und Leinwand Dinge von gleicher Substanz, objektive Ausdrücke gleichartiger Arbeit. Aber Schneiderei und Weberei sind qualitativ verschiedne Arbeiten. Es gibt jedoch Gesellschaftszustände, worin derselbe Mensch abwechselnd schneidert und webt, diese beiden verschiednen Arbeitsweisen daher nur Modifikationen der Arbeit desselben Individuums und noch nicht besondre feste Funktionen verschiedner Individuen sind, ganz wie der Rock, den unser Schneider heute, und die Hosen, die er morgen macht, nur Variationen derselben individuellen Arbeit voraussetzen. Der Augenschein lehrt ferner, daß in unsrer kapitalistischen Gesellschaft, je nach der wechselnden Richtung der Arbeitsnachfrage, eine gegebene Portion menschlicher Arbeit abwechselnd in der Form von Schneiderei oder in der Form von Weberei zugeführt wird. Dieser Formwechsel der Arbeit mag nicht ohne Friktion abgehn, aber er muß gehn. Sieht man ab von der Bestimmtheit der produktiven Tätigkeit und daher vom nützlichen Charakter der Arbeit, so bleibt das an ihr, daß sie eine Verausgabung menschlicher Arbeitskraft ist. Schneiderei und Weberei, obgleich qualitativ verschiedne produktive Tätigkeiten, sind beide produktive Verausgabung von menschlichem Hirn, Muskel, Nerv, Hand usw., und in diesem Sinn beide mensch- <59> liche Arbeit. Es sind nur zwei verschiedne Formen, menschliche Arbeitskraft zu verausgaben. Allerdings muß die menschliche Arbeitskraft selbst mehr oder minder entwickelt sein, um in dieser oder jener Form verausgabt zu werden. Der Wert der Ware aber stellt menschliche Arbeit schlechthin dar, Verausgabung menschlicher Arbeit überhaupt. Wie nun in der bürgerlichen Gesellschaft ein General oder Bankier eine große, der Mensch schlechthin dagegen eine sehr schäbige Rolle spielt (14), so steht es auch hier mit der menschlichen Arbeit. Sie ist Verausgabung einfacher Arbeitskraft, die im Durchschnitt jeder gewöhnliche Mensch, ohne besondere Entwicklung, in seinem leiblichen Organismus besitzt. Die einfache Durchschnittsarbeit selbst wechselt zwar in verschiednen Ländern und Kulturepochen ihren Charakter, ist aber in einer vorhandnen Gesellschaft gegeben. Kompliziertere Arbeit gilt nur als potenzierte oder vielmehr multiplizierte einfache Arbeit, so daß ein kleineres Quantum komplizierter Arbeit gleich einem größeren Quantum einfacher Arbeit. Daß diese Reduktion beständig vorgeht, zeigt die Erfahrung. Eine Ware mag das Produkt der kompliziertesten Arbeit sein, ihr Wert setzt sie dem Produkt einfacher Arbeit gleich und stellt daher selbst nur ein bestimmtes Quantum einfacher Arbeit dar.(15) Die verschiednen Proportionen, worin verschiedne Arbeitsarten auf einfache Arbeit als ihre Maßeinheit reduziert sind, werden durch einen gesellschaftlichen Prozeß hinter dem Rücken der Produzenten festgesetzt und scheinen ihnen daher durch das Herkommen gegeben. Der Vereinfachung halber gilt uns im Folgenden jede Art Arbeitskraft unmittelbar für einfache Arbeitskraft, wodurch nur die Mühe der Reduktion erspart wird.

我々の仮定に依れば、上衣はリンネルに二倍する価値をもっている。然しこれは量の上の差異に過ぎないのであって、この問題は今のところまだ我々に関係がない。そこで我々は、上衣一着の価値がリンネル十ヤールの価値に二倍しているとすれば、リンネル二十ヤールは上衣一着と同じ大さの価値を有するということを想起する。上衣もリンネルも価値としては同じ実体の物であり、同一種類の労働を客観的に言い現したものである。然るに裁縫労働と機織労働とは、互いに質を異にする労働である。ところが、同一の人間が裁縫と機織とを交互に行う社会状態、換言すればこの二つの相異った労働方法が必竟、同一個人の労働の変形に過ぎず、尚未だ別々の個人の固定した専門的機能とならぬところの(あたかも我々の専業裁縫師に依って今日造られる上衣、明日造られるズボンが、同一なる個人的労働の変化を前提するに過ぎぬ如く)社会状態もある。更らに今日の資本制社会に於いても、労働需要の方向変化に従い、人間労働の一定部分は、或時は裁縫の形を以って、或時は又機織の形を以って供給されることは、一目瞭然の事実である。勿論、この労働の形態変化は、故障なしには行われぬかも知れないが、兎に角く行われねばならぬものである。
生産的活動の定形、随ってまた、労働の有用的性質を措いて問わぬとすれば、生産的活動について残るところのものは、それが人間労働力の支出であるという事実のみである。裁縫と機織とは、互いに質を異にする生産的活動であるとはいえ、いずれも人間の脳髄や、筋肉や、神経や、手などの生産的支出である。而してこの意味に於いては、いずれも人間労働である。裁縫と機織とは、人間労働力支出上の相異った二形態に外ならない。勿論、人間労働力は、いずれかの形で支出されるためには、それ自身既に多かれ少なかれ発達していることを要する。然し商品の価値なるものは、そのままの人間労働の、即ち人間労働一般の、支出を表現するものである。
  ブルジョア的社会に於いて、将官なり銀行家なりは極めて重大なる役目を演じ、反対にそのままの人間はすこぶる見すぼらしい役目を演ずるのであるが(十四)、ここにいう人間労働についても矢張り同様である。即ち人間労働とは、特別の発達なき通例の各人が、平均してその身体組織の中に持つ単純労働力の支出を意味する。勿論、この単純なる平均労働それ自身は、国と文化時代との異なるに従って性質を変更するものであるが、然し一定の社会について言えば、それは一定している。複雑なる労働は要するに、単純労働の強められたもの、或はむしろ倍加されたものに過ぎぬのであって、少量の複雑労働は多量の単純勢働に等しきものとなる。この換算が絶えず行われることは、経験の示すところである。或商品は最も複雑なる労働の産物であるかも知れない。而もその価値に依って、それは単純なる労働の生産物と等しからしめられ、斯くしてまた単純なる労働の一定量を代表するに過ぎぬものとされる(十五)。
 種類の相異なった各労働がその尺度単位としての単純労働に換算される様々の比例は、生産者の背後に於ける社会的行程に依って定められるものである。随って生産者から見れば、それは習慣に依って与えられるかの如き観を呈して来る。以下、論旨を単純ならしめるため、各種の労働力は直接に単純労働力を代表するものと見る。これに依って換算の労が省かれることになるのである。

*(十四)へーゲル著『法律哲学』(べルリン、一八四〇年刊、第二五〇貢第一九〇節)を参照せよ。

*(十五)ここでは、例えば労働者が一日の労働に対して受ける賃金又は価値のことをいうのではなく、労働者の一日の労働が対象化される商品価値についていうのであって、このことは読者の注意を要するところである。労働賃金という範疇は、我々の説明の如上の段階に於いては、尚未だ存在して居らぬのである。

Wie also in den Werten Rock und Leinwand von dem Unterschied ihrer Gebrauchswerte abstrahiert ist, so in den Arbeiten, die sich in diesen Werten darstellen, von dem Unterschied ihrer nützlichen Formen, der Schneiderei und Weberei. Wie die Gebrauchswerte Rock und Leinwand Verbindungen zweckbestimmter, produktiver Tätigkeiten mit Tuch und Garn sind, die Werte Rock und Leinwand dagegen bloße gleichartige Arbeitsgallerten, so gelten auch die in diesen Werten enthaltenen Arbeiten nicht durch ihr produktives Verhalten zu Tuch und Garn, sondern nur als Verausgabungen menschlicher Arbeitskraft. Bildungselemente der Gebrauchs- <60> werte Rock und Leinwand sind Schneiderei und Weberei eben durch ihre verschiednen Qualitäten; Substanz des Rockwerts und Leinwandwerts sind sie nur, soweit von ihrer besondren Qualität abstrahiert und beide gleiche Qualität besitzen, die Qualität menschlicher Arbeit.

即ち価値としての上衣及びリンネルを考察する場合には、その使用価値の差異から抽象するのであるが、それと同様に、これらの価値に依って代表される労働を考察する場合にも、その有用形態たる裁縫及び機織という差異から抽象することになるのである。使用価値としての上衣及びリンネルは、布と糸とを以ってする目的の一定した生産的活動の結合であり、反対に価値としての上衣及びリンネルは、同一種類の単なる労働凝結物であるが、それと同様に、これらの価値に含まれている労働は、布と糸とに対する生産的関係を通して有意義となるものではなく、ただ人間労働力の支出としてのみ、意義あるものである。上衣及びリンネルなる使用価値の構成要素が裁縫と機織であるのは、この双方が互いに質を異にしているからであり、またこの双方が夫々上衣価値とリンネル価値との実体となるのは、その特殊の質から抽象して、いずれも人間労働の質という等一の質を有するものとされる限りに於いてのみ、言い得ることである。

Rock und Leinwand sind aber nicht nur Werte überhaupt, sondern Werte von bestimmter Größe, und nach unsrer Unterstellung ist der Rock doppelt soviel wert als 10 Ellen Leinwand. Woher diese Verschiedenheit ihre Wertgrößen? Daher, daß die Leinwand nur halb soviel Arbeit enthält als der Rock, so daß zur Produktion des letzteren die Arbeitskraft während doppelt soviel Zeit verausgabt werden muß als zur Produktion der erstern.

ところが上衣とリンネルとは、単に価値一般であるばかりでなく、また一定の大さを有する価値である。而して我々の仮定に従えば、上衣一着の価値はリンネル十ヤールに二倍している。然らば、これら両価値の大小の差は何処から生じて来るか?それは即ち、リンネルは上衣に比して半分の労働しか含んで居らず、随って後者を生産するには、前者を生産するに比し二倍の時間にわたって労働力を支出せねばならぬということから生ずるのである。

Wenn also mit Bezug auf den Gebrauchswert die in der Ware enthaltene Arbeit nur qualitativ gilt, gilt sie mit Bezug auf die Wertgröße nur quantitativ, nachdem sie bereits auf menschliche Arbeit ohne weitere Qualität reduziert ist. Dort handelt es sich um das Wie und Was der Arbeit, hier um ihr Wieviel, ihre Zeitdauer. Da die Wertgröße einer Ware nur das Quantum der in ihr enthaltenen Arbeit darstellt, müssen Waren in gewisser Proportion stets gleich große Werte sein.

斯くの如く使用価値についていえば、商品に含まれている労働は単に質的にのみ考慮に入るのであるが、価値の大小については、単に量的にのみ、即ち質のドン詰りなる人間労働に約元された後に飲み、考慮に入るのである。前の場合には、労働の『如何にして』と『何』とが問題であるが、後の場合には労働の『幾許(いくばく)』が時間的継続が問題となる。一商品の価値の大小は、その商品に含まれる労働量を代表するものであるから、一定の比例に於ける諸商品は、常に同じ大さの価値でなければならぬ訳である。

Bleibt die Produktivkraft, sage aller zur Produktion eines Rocks erheischten nützlichen Arbeiten unverändert, so steigt die Wertgröße der Röcke mit ihrer eignen Quantität. Wenn 1 Rock x, stellen 2 Röcke 2 x Arbeitstage dar usw. Nimm aber an, die zur Produktion eines Rocks notwendige Arbeit steige auf das Doppelte oder falle um die Hälfte. Im ersten Fall hat ein Rock soviel Wert als vorher zwei Röcke, im letztern Fall haben zwei Röcke nur soviel Wert als vorher einer, obgleich in beiden Fällen ein Rock nach wie vor dieselben Dienste leistet und die in ihm enthaltene nützliche Arbeit nach wie vor von derselben Güte bleibt. Aber das in seiner Produktion verausgabte Arbeitsquantum hat sich verändert.

上衣の生産に必要な凡ゆる有用労働の生産力が不変であるとすれば、上衣の価値の大きさは、上衣自身の量が増すに従って大となる。今、一着の上衣がx日数の労働時間を代表するとすれば、二着の上衣は二x日数の労働時間を代表することになり、以下それに準じて行く。然るに然るに一着の上衣の生産に必要なる労働が二倍に増大し、又は半分に低減したと仮定すれば、前の場合には、一着の上衣は従来二着の上衣が有っていただけの価値をもつことになり、また後の場合には、二着の上衣は従来一着の上衣がもっていただけの価値しかもたぬことになる。もっとも、いずれの場合にも、一着の上衣は従来と同じ役をなし、それに含まれている有用労働は従来と同じ品質をもっているであって、ただその生産に支出された労働量が変化しただけである。

Ein größres Quantum Gebrauchswert bildet an und für sich größren stofflichen Reichtum, zwei Röcke mehr als einer. Mit zwei Röcken kann man zwei Menschen kleiden, mit einem Rock nur einen Menschen usw. Dennoch kann der steigenden Masse des stofflichen Reichtums ein gleichzeitiger Fall seiner Wertgröße entsprechen. Diese gegensätzliche Bewegung entspringt aus dem zwieschlächtigen Charakter der Arbeit. Produktivkraft ist natürlich stets Produktivkraft nützlicher, konkreter Arbeit und bestimmt in der Tat nur den Wirkungsgrad zweckmäßiger produktiver Tätigkeit in gegebnem Zeitraum. Die nützliche Arbeit wird daher reichere oder dürftigere Produktenquelle im direkten Verhältnis zum Steigen oder Fallen ihrer Produktivkraft. Dagegen trifft ein Wechsel der Produktivkraft die im <61> Wert dargestellte Arbeit an und für sich gar nicht. Da die Produktivkraft der konkreten nützlichen Form der Arbeit angehört, kann sie natürlich die Arbeit nicht mehr berühren, sobald von ihrer konkreten nützlichen Form abstrahiert wird. Dieselbe Arbeit ergibt daher in denselben Zeiträumen stets dieselbe Wertgröße, wie immer die Produktivkraft wechsle. Aber sie liefert in demselben Zeitraum verschiedene Quanta Gebrauchswerte, mehr, wenn die Produktivkraft steigt, weniger, wenn sie sinkt. Derselbe Wechsel der Produktivkraft, der die Fruchtbarkeit der Arbeit und daher die Masse der von ihr gelieferten Gebrauchswerte vermehrt, vermindert also die Wertgröße dieser vermehrten Gesamtmasse, wenn er die Summe der zu ihrer Produktion notwendigen Arbeitszeit abkürzt. Ebenso umgekehrt.

ヨリ多量の使用価値は、それ自身ヨリ大なる素材的富を代表する。二着の上衣は一着よりは多い。二着の上衣は二人に着せ得るが、一着の上衣は一人にしか着せられぬ。然し素材的富の量は増大しても、それに応じて価値の大きさは同時に減じ得る。この対抗的運動は、労働の二重性質から生ずるものである。生産力なるものは常に、有用な具体的な労働の生産力を意味することは言う迄もない。而してそれは事実上、与えられたる期間に於ける、一定の目的に従って営まれる生産的活動の作用程度を決定するに過ぎぬ。されば有用労働なるものは、その生産力の増減如何に正比例してヨリ豊富なる生産物源泉ともなり、またヨリ貧弱なる生産物源泉ともなるのである。反対に、生産力の変化は、価値に体現する労働その者に対しては何等の影響をも及ぼすものでない。生産力なるものは元来、労働の具体的な有用な形態の一属性であるから、この形態から抽象し去るとき、生産力はもはや労働に対して何等の関係をも、持ちうるものではなくなる。随って生産力は如何に変じても、同一の労働が同一の期間に造り出す価値量は不変である。然し同一の期間に造り出される使用価値の量には、種々なる差異が生じて来る。即ち生産力が増進すれば、ヨリ多量の使用価値を生ずるが、生産力が低減すれば、ヨリ少量の使用価値を生ずることになるのである。随って、労働の豊度を増進せしめ、斯くしてまた労働より生ずる使用価値の量を増大せしむる生産力変化に依って、この使用価値の生産に必要なる労働時間の総体が短縮されるとすれば、斯かる場合には右の増大した使用価値総量の価値の大きさは減少することになる。それと反対の場合には、反対の結果が生じて来る。

Alle Arbeit ist einerseits Verausgabung menschlicher Arbeitskraft im physiologischen Sinn, und in dieser Eigenschaft gleicher menschlicher oder abstrakt menschlicher Arbeit bildet sie den Warenwert. Alle Arbeit ist andrerseits Verausgabung menschlicher Arbeitskraft in besondrer zweckbestimmter Form, und in dieser Eigenschaft konkreter nützlicher Arbeit produziert sie Gebrauchswerte.(16)

如何なる労働も、一面から見れば、生理的意味の於ける人間労働力の支出である。而して斯くの如き、等一なる人間労働即ち抽象的の人間労働という資格に於いては、如何なる労働も商品価値を造り出す。また他の方面から見れば、一切の労働は一定の目的に合致せる特殊の形態を採った人間労働力の支出である。而してこの具体的な有用な労働という資格に於いては、一切の労働は使用価値を生産するものである(十六)。

* (十六)第二版註『労働のみが、如何なる時にも凡ゆる商品の価値を評価し比較し得るところの、最終的且つ現実的な尺度であること』を証明せんがために、アダム・スミスは次の如く言っている。『同一量の労働は、如何なる時、如何なる所に於いても、労働者自身にとって同一の価値を有して居らればならぬ。彼の健康、力、活動等が常態に在ると仮定し、また彼の有し得る熟練が平均程度のものであると仮定すれば、ば、彼は常にその休息、自由及び幸福の同一量を割愛せねばならぬ』(『富国論』第一巻、第五章)。一方に、アダム・スミスはこの場合(如何なる場合にもそうとは限らぬ)商品の生産に支出された労働量が価値を決定するという事と、労働の価値が商品価値を決定するという事とを混同している。随って彼は同一量の労働が常に同一の価値を持つという論証を与えようとしたのであるが、他方にまた彼は、労働なるものは商品の価値に体現される限り労働力の支出としてのみ考慮に入ることを感知していた。然しこの場合にも又、労働力の斯かる支出をば単に休息、自由及び幸福の犠牲とのみ解し、通例の生命活動であるとはして居らぬ。勿論、彼は近世の賃金労働者を眼の前に置いていたのである。〔注(九)に引抄したアダム・スミスの匿名先駆者は、スミスよりも遥かに正しくこう言っている。『或者は、この生活必需品を準備するため一週間の労働に従事していた。・・・而して交換に依って異なった物品を彼に与えるところの他の人は、自分にとって同一量の労働及び時間を要しただけのものを計算するよりもより正しく、適当な等価なるものが果して何であるかを算定することが出来ぬ。この事実は畢竟するところ、一方の人の物品に依って代表される一定時間の労働が、他方の人の物品に依って代表される同一時間の労働と交換されるということに外ならぬのである』(前掲『一般金利特にまた公債利子に関する考想)ロンドン、第三九頁)。〕【第四版註英語には、労働のこの二つの相異った方面について、二つの相異った言い現しを持つという長所がある。即ち使用価値を造り出して質的に限定される労働はlabourと対照してwork(仕事)といわれ、価値を造り出して量的にのみ秤量される労働はworkと対照してlabourと呼ばれる。英訳本第十四頁の註を見よ。F・E】

3. Die Wertform oder der Tauschwert

第三節 価値形態即ち交換価値

<62> Waren kommen zur Welt in der Form von Gebrauchswerten oder Warenkörpern, als Eisen, Leinwand, Weizen usw. Es ist dies ihre hausbackene Naturalform. Sie sind jedoch nur Waren, weil Doppeltes, Gebrauchsgegenstände und zugleich Wertträger. Sie erscheinen daher nur als Waren oder besitzen nur die Form von Waren, sofern sie Doppelform besitzen, Naturalform und Wertform.

商品は鉄、リンネル、小麦などの如き、使用価値即ち商品体の形で世に現れて来る。この形は、それらの物のありのままの現物形態である。然しながら、これらの物は二重物なるが故にのみ、即ち使用対象であると同時にまた価値保有者であるが故にのみ、商品たるのである。換言すれば、これらの物は現物形態と価値形態との二重形態を有する限りに於いてのみ商品として現れ、又は商品の形を採ることになるのである。

Die Wertgegenständlichkeit der Waren unterscheidet sich dadurch von der Wittib Hurtig, daß man nicht weiß, wo sie zu haben ist. Im graden Gegenteil zur sinnlich groben Gegenständlichkeit der Warenkörper geht kein Atom Naturstoff in ihre Wertgegenständlichkeit ein. Man mag daher eine einzelne Ware drehen und wenden, wie man will, sie bleibt unfaßbar als Wertding. Erinnern wir uns jedoch, daß die Waren nur Wertgegenständlichkeit besitzen, sofern sie Ausdrücke derselben gesellschaftlichen Einheit, menschlicher Arbeit, sind, daß ihre Wertgegenständlichkeit also rein gesellschaftlich ist, so versteht sich auch von selbst, daß sie nur im gesellschaftlichen Verhältnis von Ware zu Ware erscheinen kann. Wir gingen in der Tat vom Tauschwert oder Austauschverhältnis der Waren aus, um ihrem darin versteckten Wert auf die Spur zu kommen. Wir müssen jetzt zu dieser Erscheinungsform des Wertes zurückkehren.

商品の価値対象性は掴み所のないものであって、それはこの点に於いてクイックリー夫人とは違うのである。商品体は感性的に粗雑な対象性を有するものであるが、それと正反対に、商品の価値対象性には自然素材の一点一粒も加えられて居らぬ。されば個々の商品を如何に捻って見ても、それが価値物として掴み所のないことに変わりはない。然しながら商品なるものは、同一の社会的単位なる人間労働の表章である限りに於いてのみ、価値対象性を有すること、随ってまた商品の価値対象性は、純社会的のものであることを想起するとき、この価値対象性は、商品対商品の社会的関係の上にのみ現れ得ることは、自明の事実となるのである。実際のところ、我々はさきに価値を見出すために、それそれを匿っている商品の交換価値即ち交換関係から出発したのであるが、今また、この価値現象形態に論を戻さねばならぬ。

Jedermann weiß, wenn er auch sonst nichts weiß, daß die Waren eine mit den bunten Naturalformen ihrer Gebrauchswerte höchst frappant kontrastierende, gemeinsame Wertform besitzen - die Geldform. Hier gilt es jedoch zu leisten, was von der bürgerlichen Ökonomie nicht einmal versucht ward, nämlich die Genesis dieser Geldform nachzuweisen, also die Entwicklung des im Wertverhältnis der Waren enthaltenen Wertausdrucks von seiner einfachsten unscheinbarsten Gestalt bis zur blendenden Geldform zu verfolgen. Damit verschwindet zugleich das Geldrätsel.

商品がその使用価値の種々雑多なる現物形態と頗る際立って対象した共通の価値形態なる貨幣形態を持つことは、何人も他のことは知らなくても知るところである。さりながら、我々はここにブルジョワ的経済学に依っては未だ試みられたことのない一事を成し遂げねばならぬ。それは即ち、右の貨幣形態の起源を論証すること、換言すれば商品の交換関係に含まれる価値表章の発達を、その最も単純にして最も目立たぬ姿から、人目を幻惑する貨幣形態に至るまで追跡することである。これに依ってまた、貨幣の謎は消滅することになるのである。

Das einfachste Wertverhältnis ist offenbar das Wertverhältnis einer Ware zu einzigen verschiedenartigen Ware, gleichgültig welcher. Das Wertverhältnis zweier Waren liefert daher den einfachsten Wertausdruck für eine Ware.

最も単純なる価値関係は、種類の異った単一の商品、(それは如何なる商品であっても構ない)に対する一商品の価値関係であることは明かである。斯くて二つの商品の価値関係は、一商品に対する最も単純な価値表章を供給することになるのである。

<63>
A) Einfache, einzelne oder zufällige Wertform

A単純、個別又は偶生の価値形態

x Ware A = y Ware B oder: x Ware A ist y Ware B wert.
(20 Ellen Leinwand = 1 Rock oder: 20 Ellen Leinwand sind 1 Rock wert.)

x量a商品=y量b商品又はa商品x量はb商品y量に値する。
(二十ヤールのリンネル=一着の上衣又はリンネル二十ヤールは上衣一着に値する。)

1. Die beiden Pole des Wertausdrucks: Relative Wertform und Äquivalentform

(1)価値表章の両極。相対的価値形態と等価形態

Das Geheimnis aller Wertform steckt in dieser einfachen Wertform. Ihre Analyse bietet daher die eigentliche Schwierigkeit.

凡ゆる価値形態の秘密は、右の単純なる価値形態の中に伏在している。随って、この分析こそ、困難の中堅たるものである。

Es spielen hier zwei verschiedenartige Waren A und B, in unsrem Beispiel Leinwand und Rock, offenbar zwei verschiedene Rollen. Die Leinwand drückt ihren Wert aus im Rock, der Rock dient zum Material dieses Wertausdrucks. Die erste Ware spielt eine aktive, die zweite eine passive Rolle. Der Wert der ersten Ware ist als relativer Wert dargestellt, oder sie befindet sich in relativer Wertform. Die zweite Ware funktioniert als Äquivalent oder befindet sich in Äquivalentform.

種類の相異った二つの商品AとB(即ち上例でいえばリンネルと上衣)は、この場合二つの相異った役目を演ずることは明かである。即ちリンネルは上衣に依って、その価値を言い現し、上衣はこの価値表章の材料として役立つのである。第一の商品は能動の役目を演じ、第二の商品は被動の役目を演ずる。第一の商品の価値は、相対的価値として表現されている。換言すれば、それは相対的の価値形態に在る。第二の商品は等価として作用する。換言すれば、それは等価形態に在る。

Relative Wertform und Äquivalentform sind zueinander gehörige, sich wechselseitig bedingende, unzertrennliche Momente, aber zugleich einander ausschließende oder entgegengesetzte Extreme, d.h. Pole desselben Wertausdrucks; sie verteilen sich stets auf die verschiedenen Waren, die der Wertausdruck aufeinander bezieht. Ich kann z.B. den Wert der Leinwand nicht in Leinwand ausdrücken. 20 Ellen Leinwand = 20 Ellen Leinwand ist kein Wertausdruck. Die Gleichung sagt vielmehr umgekehrt: 20 Ellen Leinwand sind nichts andres als 20 Ellen Leinwand, ein bestimmtes Quantum des Gebrauchsgegenstandes Leinwand. Der Wert der Leinwand kann also nur relativ ausgedrückt werden, d.h. in andrer Ware. Die relative Wertform der Leinwand unterstellt daher, daß irgendeine andre Ware sich ihr gegenüber in der Äquivalentform befindet. Andrerseits, diese andre Ware, die als Äquivalent figuriert, kann sich nicht gleichzeitig in relativer Wertform befinden. Nicht sie drückt ihren Wert aus. Sie liefert nur dem Wertausdruck andrer Ware das Material.

相対的価値形態と等価形態とは、相互に従属し交互に制約する不可分的な二要素であると同時に、また互に相排斥し或は相対抗する両極端、換言すれば同一なる価値表章の両極である。これらの両形態は常に、価値表章に依って相互関連せしめられる相異った商品の間に配置される。例えば、リンネルの価値はリンネルでは言い現し得ない。二十ヤールのリンネル=二十ヤールのリンネルなる言い現しは、何等の価値表章となるものでない。この方程式は寧ろ反対に、二十ヤールのリンネルは二十ヤールのリンネル以外の、即ちリンネルなる使用対象の一定量以外の、何物でもないということを語るに過ぎぬのである。要するに、リンネルの価値はただ相対的にのみ、即ち他の商品に依ってのみ、言い現され得るのである。されば、リンネルの相対的価値形態なるものは、他の何等かの商品がリンネルと対立して等価形態に在ることを前提する。他方に、等価として作用するこの他の商品は、同時にまた相対的価値形態に在り得るものではない。この商品は、自己の価値を言い現すものでなく、ただ他商品の価値表章の材料たるに過ぎぬのである。

Allerdings schließt der Ausdruck: 20 Ellen Leinwand = 1 Rock oder 20 Ellen Leinwand sind 1 Rock wert, auch die Rückbeziehungen ein: 1 Rock = 20 Ellen Leinwand oder 1 Rock ist 20 Ellen Leinwand wert. Aber so muß ich doch die Gleichung umkehren, um den Wert des Rocks relativ ausdrücken, und sobald ich das tue, wird die Leinwand Äquivalent statt des Rockes. Dieselbe Ware kann also in demselben Wertausdruck nicht gleichzeitig in beiden Formen auftreten. Diese schließen sich vielmehr polarisch aus.

勿論二十ヤールのリンネル=一着の上衣という言い現し、即ちリンネル二十ヤールは上衣一着に値するという言い現しは一着の上衣=二十ヤールのリンネルという、即ち上衣一着はリンネル二十ヤールに値するという転倒された関係を含む。然し上衣の価値を相対的に言い現すためには、この方程式を転倒する必要がある。而して、斯くするや否や、リンネルは上衣に代って等価となるのである。斯くの如く、同一の商品は、同一の価値表章に於いて、同時に相対及び等価の両形態を採ることは出来ぬのであって、これらの両形態は寧ろ両極的に相排斥するものである。

<64> Ob eine Ware sich nun in relativer Wertform befindet oder in der entgegengesetzten Äquivalentform, hängt ausschließlich ab von ihrer jedesmaligen Stelle im Wertausdruck, d.h. davon, ob sie die Ware ist, deren Wert, oder aber die Ware, worin Wert ausgedrückt wird.

ところで、一の商品が相対的価値形態に在るか、又はその反対の等価形態に在るかということは、全く価値表章に於けるこの商品の位置の如何に懸ることである。換言すれば、それが自己の価値を言い現す商品であるか、又は言い現される商品であるかの如何に懸かることである。

2. Die relative Wertform

(2)相対的価値形態

a) Gehalt der relativen Wertform

a相対的価値形態の内容

Um herauszufinden, wie der einfache Wertausdruck einer Ware im Wertverhältnis zweier Waren steckt, muß man letzteres zunächst ganz unabhängig von seiner quantitativen Seite betrachten. Man verfährt meist grade umgekehrt und sieht im Wertverhältnis nur die Proportion, worin bestimmte Quanta zweier Warensorten einander gleichgelten. Man übersieht, daß die Größen verschiedner Dinge erst quantitativ vergleichbar werden nach ihrer Reduktion auf dieselbe Einheit. Nur als Ausdrücke derselben Einheit sind sie gleichnamige, daher kommensurable Größen.(17)

一商品の単純なる価値表章が、如何ように二商品間の価値関係内に伏在するかを見出すためには、先ず量的方面から全く切り離して、この価値関係を観察する必要がある。然るに大抵の人は、それと正反対の方法をとって、価値関係の中に、二種類の商品の定量が等位に置かれる比例のみを見て、相異った物の大小はこれを同一の単位に約元するとき、初めて量的に比較し得るに至ることを看過する。相異った物の大小は、これを同一なる単位の言い現しとして見るとき、初めて同一分母の大さとなり、随ってまた、通約し得る大さとなるのである(十七)。

*(十七)サミェル・べーリーと同様にして価値形態の分析に従事した少数の経済学者たちは、第一に価値形態と価値とを混同したため、第二にまた実際的ブルジョアの粗硬なる影響を受けて最初から量的定性にのみ着眼したため、遂に何等の結果にも到達することが出来なかった。『量の支配が・・・価値を構成するのである』(ベーリー著『貨幣とその変遷』ロンドン一八三七年刊、第十一頁

Ob 20 Ellen Leinwand = 1 Rock oder = 20 oder = x Röcke, d.h., ob ein gegebenes Quantum Leinwand viele oder wenige Röcke wert ist, jede solche Proportion schließt stets ein, daß Leinwand und Röcke als Wertgrößen Ausdrücke derselben Einheit, Dinge von derselben Natur sind. Leinwand = Rock ist die Grundlage der Gleichung.

二十ヤールのリンネル=一着の上衣であるにしろ、又は=二十着の上衣であるにしろ、=x着の上衣であるにしろ、換言すればリンネルが少数の上衣に値するにしろ、多数の上衣に値するにしろ、いずれにしても、これらの比例は常にリンネルと上衣とが、価値の大さとしては、同一単位の言い現しであり、同一性質の二物であることを意味している。リンネル=上衣は、この方程式の基礎となるのである。

Aber die zwei qualitativ gleichgesetzten Waren spielen nicht dieselbe Rolle. Nur der Wert der Leinwand wird ausgedrückt. Und wie? Durch ihre Beziehung auf den Rock als ihr "Äquivalent" oder mit ihr "Austauschbares". In diesem Verhältnis gilt der Rock als Existenzform von Wert, als Wertding, denn nur als solches ist er dasselbe wie die Leinwand. Andrerseits kommt das eigne Wertsein der Leinwand zum Vorschein oder erhält einen selbständigen Ausdruck, denn nur als Wert ist sie auf den Rock als Gleichwertiges oder mit ihr Austauschbares bezüglich. So ist die Buttersäure ein vom Propylformat verschiedner Körper. Beide bestehn jedoch aus denselben chemischen Substanzen - Kohlenstoff (C), Wasserstoff (H) und Sauerstoff (O), und zwar in gleicher prozentiger Zusammensetzung, <65> nämlich C4H8O2. Würde nun der Buttersäure das Propylformat gleichgesetzt, so gälte in diesem Verhältnis erstens das Propylformat bloß als Existenzform von C4H8O2 und zweitens wäre gesagt, daß auch die Buttersäure aus C4H8O2 besteht. Durch die Gleichsetzung des Propylformats mit der Buttersäure wäre also ihre chemische Substanz im Unterschied von ihrer Körperform ausgedrückt.

然し、これらの二商品は質的に等位に置かれるとはいえ、その演ずる役目は同一でない。そこでは、リンネルの価値のみが言い現されるのである。如何にしてか?リンネルの『等価』又はリンネルと『交換され得る物』としての、上衣に関連せしめられることに依ってである。この関係に於いては、上衣は価値の存在形態、即ち価値物として通用する。なぜならば、単に期かる物としてのみ、上衣はリンネルと同一であるからである。
他方にまた、リンネルの固有の価値性が前方に現れて来る。換言すれば、それは、独立した一表章を与えられるのである。なぜならば、リンネルはただ価値としてのみ、自己の等価物又は自己と交換され得る物としての上衣に相関的となるからである。同様に酪酸は、蟻酸プロビルとは異った物質である。然し双方とも同じ化学的実体から成り立っている。即ちいづれとも炭素(C)、水素(H)、及び酸素(O)から成り、而かも同じ割合の結合、即ちC4H8O2を持っている。そこで今、蟻酸プロピルを酪酸と等位に置くときは、この関係に於いて先ず蟻酸プロビルは単にC4H8O2の存在形態に過ぎぬものと見なされるであろう。而して次に、酪酸も又C4H8O2から成るといわれるであろう。斯くの如く、蟻酸プロピルを酪酸と等位に置くことによって、両者の化学実体は、その物体的形態から区別して言い現されることになるのである。

Sagen wir: als Werte sind die Waren bloße Gallerten menschlicher Arbeit, so reduziert unsre Analyse dieselben auf die Wertabstraktion, gibt ihnen aber keine von ihren Naturalformen verschiedne Wertform. Anders im Wertverhältnis einer Ware zur andern. Ihr Wertcharakter tritt hier hervor durch ihre eigne Beziehung zu der andern Ware.

商品はこれを価値として見れば人間労働の単なる凝結であるというとき、我々の分析に依って商品は価値抽象に約元されることになるが、然しその現物形態とは異った何等の価値形態をも付与されることにはならぬ。然るに、他商品に対する一商品の価値関係に於いてはそうでない。この場合には、一商品の価値性質は、他商品に対するそれ自身の関連を通して現れて来る。

Indem z.B. der Rock als Wertding der Leinwand gleichgesetzt wird, wird die in ihm steckende Arbeit der in ihr steckenden Arbeit gleichgesetzt. Nun ist zwar die Schneiderei, die den Rock macht, eine von der Weberei, die die Leinwand macht, verschiedenartiger konkrete Arbeit. Aber die Gleichsetzung mit der Weberei reduziert die Schneiderei tatsächlich auf das in beiden Arbeiten wirklich Gleiche, auf ihren gemeinsamen Charakter menschlicher Arbeit. Auf diesem Umweg ist dann gesagt, daß auch die Weberei, sofern sie Wert webt, keine Unterscheindungsmerkmale von der Schneiderei besitzt, also abstrakt menschliche Arbeit ist. Nur der Äquivalenzausdruck verschiedenartiger Waren bringt den spezifischen Charakter der wertbildenden Arbeit zum Vorschein, indem er die in den verschiedenartigen Waren steckenden, verschiedenartigen Arbeiten tatsächlich auf ihr Gemeinsames reduziert, auf menschliche Arbeit überhaupt (17a).

例えば、上衣を価値としてリンネルと等位に置くとき、上衣に含まれている労働はリンネルに含まれている労働と等位に置かれることになる。ところが上衣を造る裁縫は、リンネルを造る機織とは異った一の具体的労働である。然し、機織と等位に置かれることに依って、裁縫は事実上これらの両労働に於ける現実的等一物に、即ち双方に共通した人間労働という性質に約元されることになる。この迂回に依って、機織も又価値を織る限りに於いては裁縫と区別せらるべき何等の特徴をも有しないこと、換言すれば抽象的の人間労働であることが明かになる。種類の相異った商品の等価表章に依ってのみ、価値形成労働の特殊性質が鮮明ならしめられる。蓋し商品に含まれている種類の相異った諸労働は、この等価表章に依って事実上その共通物なる人間労働一般に約元されることになるからである(十七a)

*(十七a)、第二版註。ウィリアム・ペティ以後に価値の性質を看破した最初の経済学者の一人なる有名なフランクリンは曰く『商業なるものは総じて、一の労働を他の労働と交換することに外ならぬものであらから、凡ゆる物の価値は、労働に依って最も正確に秤量される』(スパークス編『フランクリン集』ボストン、一八三六年刊、第二巻第二六七頁)。斯様に凡ゆる物の価値を『労働に依って』秤量するとき、交換される諸労働の差異は抽象し去られて、等一なる人間労働に約元されるということは、フランクリンの意識しなかったところである。彼はこの事実を知らなかった。然し彼が言っているのは、正にそのことなのである。即ち彼は初めに『一の労働』と言い、次に『他の労働』と言い、最後に、凡ゆる物の価値の実体として、それ以上の名を附せず、単に『労働』と言っている。

Es genügt indes nicht, den spezifische Charakter der Arbeit auszudrücken, woraus der Wert der Leinwand besteht. Menschliche Arbeitskraft im flüssigen Zustand oder menschliche Arbeit bildet Wert, aber ist nicht Wert. Sie wird Wert in geronnenem Zustand, in gegenständlicher Form. Um den Leinwandwert als Gallerte menschlicher Arbeit auszudrük- <66> ken, muß er als eine "Gegenständlichkeit" ausgedrückt werden, welche von der Leinwand selbst dinglich verschieden und ihr zugleich mit andrer Ware gemeinsam ist. Die Aufgabe ist bereits gelöst.

然しリンネルの価値を構成する労働の特殊性質を言い現しただけでは、まだ十分でない。流動状態にある人間労働力、即ち人間労働は、価値を造り出すけれども価値ではない。それは凝結した状態に入り、対象的形態を採ったとき価値となるのである。リンネルの価値を人間労働の凝結として言い現すためには、我々はそれを、リンネル自身とは物的に異なっていて、而も同時にリンネルにも他の商品にも共通した一の『対象性』として言い現さねばならぬ。この問題は既に解決されている。

Im Wertverhältnis der Leinwand gilt der Rock als ihr qualitativ Gleiches, als Ding von derselben Natur, weil er ein Wert ist. Er gilt hier daher als ein Ding, worin Wert erscheint oder welches in seiner handgreiflichen Naturalform Wert darstellt. Nun ist zwar der Rock, der Körper der Rockware, ein bloßer Gebrauchswert. Ein Rock drückt ebensowenig Wert aus als das erste beste Stück Leinwand. Dies beweist nur, daß er innerhalb des Wertverhältnisses zur Leinwand mehr bedeutet als außerhalb desselben, wie so mancher Mensch innerhalb eines galonierten Rockes mehr bedeutet als außerhalb desselben.

リンネルの価値関係に於いては、上衣はリンネルと質の等しい物、即ち同一性質の物として通用する。それは、一の価値であるからである。随ってそれはこの場合、価値が現れてゆくところの物、換言すればその捕捉し得べき現物形態を以って価値を代表しているところの物として通用する。勿論、上衣なる商品の現物体は、単なる使用価値である。上衣は我々の掴む最初のリンネルの一片と同様に、毫も価値を言い現すものではない。この事実は要するに、上衣はリンネルに対する価値関係の外部に於いてよりも、その内部に於いての方が、多くの意義を有している。あたかも人に依っては、金縁付きの上衣を着ていると、それを着ていない時よりも多く意味するようなものであるというのである。

In der Produktion des Rockes ist tatsächlich, unter der Form der Schneiderei, menschliche Arbeitskraft verausgabt worden. Es ist also menschliche Arbeit in ihm aufgehäuft. Nach dieser Seite hin ist der Rock "Träger von Wert", obgleich diese seine Eigenschaft selbst durch seine größte Fadenscheinigkeit nicht durchblickt. Und im Wertverhältnis der Leinwand gilt er nur nach dieser Seite, daher als verkörperter Wert, als Wertkörper. Trotz seiner zugeknöpften Erscheinung hat die Leinwand in ihm die stammverwandte schöne Wertseele erkannt. Der Rock kann ihr gegenüber jedoch nicht Wert darstellen, ohne daß für sie gleichzeitig der Wert die Form eines Rockes annimmt. So kann sich das Individuum A nicht zum Individuum B als einer Majestät verhalten, ohne daß für A die Majestät zugleich die Leibesgestalt von B annimmt und daher Gesichtszüge, Haare und manches andre noch mit dem jedesmaligen Landesvater wechselt.

上衣の生産に於いては、事実上、裁縫の形で人間の労働力が支出せられた。即ち上衣の中には人間の労働力が蓄積されているのである。この方面から見れば、上衣は即ち『価値の負担者』である。尤も上衣の斯かる性質それ自体は、上衣が如何に擦り切れても、その糸目から透いて見える訳でない。而してリンネルの価値関係に於いては、上衣はただこの方面からのみ即ち体現された価値として、価値物体としてのみ、意味を持っている。リンネルは上衣がボタンをかけた盛装に誤られず、その中に己と血筋の繋った美しい価値の魂を認めたのである。然しリンネルから見て価値が同時に上衣の形を採ることなくんば上衣はリンネルに対して価値を言い現し得るものでない。それはちょうど、Bなる個人から見て陛下の地位が同時にまたAなる個人の風貌容姿を帯び、随って君主の代る度毎にその容貌や、毛髪や、他のいろいろなものを変更することなければ、AはBに対して陛下たり得ないのと同様である。

Im Wertverhältnis, worin der Rock das Äquivalent der Leinwand bildet, gilt also die Rockform als Wertform. Der Wert der Ware Leinwand wird daher ausgedrückt im Körper der Ware Rock, der Wert einer Ware im Gebrauchswert der andren. Als Gebrauchswert ist die Leinwand ein vom Rock sinnlich verschiednes Ding, als Wert ist sie "Rockgleiches" und sieht daher aus wie ein Rock. So erhält sie eine von ihrer Naturalform verschiedne Wertform. Ihr Wertsein erscheint in ihrer Gleichheit mit dem Rock wie die Schafsnatur des Christen in seiner Gleichheit mit dem Lamm Gottes.

上衣がリンネルの等価たる価値関係に於いては、上衣形態が価値形態として通用し、リンネルなる商品の価値は、上衣なる商品の現物体を通して言い現される。即ち一商品の価値は、他商品の使用価値に依って言い現されることになるのである。リンネルはこれを使用価値として見れば、感性的に上衣と相異なる一物であり、また価値として見れば、『上衣に等しき物』であって、上衣たるが如く見える。斯くしてリンネルは、その現物形態とは異った価値形態を与えられることになる。リンネルの価値性は、上衣との等性を通して現れる。それはちょうど、キリスト信者の羊性が『神の小羊』との等性を通して現れるのと同じである。

Man sieht, alles, was uns die Analyse des Warenwerts vorher sagte, sagt die Leinwand selbst, sobald sie in Umgang mit andrer Ware, dem Rock, tritt. Nur verrät sie ihre Gedanken in der ihr allein geläufigen Sprache, der Warensprache. Um zu sagen, daß die Arbeit in der abstrakten Eigenschaft menschlicher Arbeit ihren eignen Wert bildet, sagt sie, daß der Rock, soweit er ihr gleichgilt, also Wert ist, aus derselben Arbeit be- <67> steht wie die Leinwand. Um zu sagen, daß ihre sublime Wertgegenständlichkeit von ihrem steifleinenen Körper verschieden ist, sagt sie, daß Wert aussieht wie ein Rock und daher sie selbst als Wertding dem Rock gleicht wie ein Ei dem andern. Nebenbei bemerkt, hat auch die Warensprache, außer dem Hebräischen, noch viele andre mehr oder minder korrekte Mundarten. Das deutsche "Wertsein" drückt z.B. minder schlagend aus als das romanische Zeitwort valere, valer, valoir, daß Gleichsetzung der Ware B mit der Ware der eigne Wertausdruck der Ware A ist. Paris vaut bien une messe! <Paris ist eine Messe wert!>

商品価値の分析が我々に語った一切のことは、今やリンネル自身が他の商品上衣との交通を通して語っているのを見るのである。ただリンネルは、己れ一人だけに通ずる言語、即ち商品語を以ってその思想を洩らすのである。リンネルはその価値が人間労働という抽象的性質から見た労働に依って形成されることを語らんとするに、上衣なるものは、それがリンネル自身と等しく通用する限り、即ち価値である限り、自身と同一の労働から成ると言うのである。リンネルはその崇高なる価値対象性がその粗硬なる現物体とは異なるものであることを語らんとするのに、価値は上衣のように見え、随ってリンネルそれ自身はこれを価値物として見れば、上衣とまるで爪二つだと言うのである。ついでに言うが、商品語もへブライ語の外に尚幾多の、多かれ少なかれ正確な方言を持っている。例えばラテン系の動詞ヴァレレ、ヴァレル、ヴァロアールは、ドイツ語の『ヴェルトザイン』よりもヨリ適切に、Bなる商品をAなる商品と等位に置くことは、Aなる商品それ自身の価値表章たることを言い現すものである。パリはミサを捧げるに値する都市である!

Vermittelst des Wertverhältnisses wird also die Naturalform der Ware B zur Wertform der Ware A oder der Körper der Ware B zum Wertspiegel der Ware A.(18) Indem sich die Ware A auf die Ware B als Wertkörper bezieht, als Materiatur menschlicher Arbeit, macht sie den Gebrauchswert B zum Material ihres eignen Wertausdrucks. Der Wert der Ware A, so ausgedrückt im Gebrauchswert der Ware B, besitzt die Form des relativen Werts.


価値関係に依って、商品Bの現物形態は、商品Aの価値形態となる。換言すれば、商品Bの現物体は商品Aの価値鏡となるのである(十八)。商品Aは、価値体としての、即ち人間労働の体化としての商品Bに関連せしめられることに依って、使用価値Bを自分自身の価値表章とする。斯く商品Bの使用価値に依って言い現された商品Aの価値こそ、相対的価値という形態を有するものである。

*(十八)或意味に於いて、人も又、商品の如くである。人は鏡を手にしてこの世に来たるものではなく、また『我は我なり』主張するフィヒテ流の哲学者としてこの世に来たるものでもないから、彼は先ず他の人に自分の姿を映して見る。ペテロなる人は先ず自に等しいものとしてのポーロなる人に相関係して、初めて人としての自分自身に相関係するのである。然しまた、皮膚と毛髪とを有するポーロは、斯くの如き現身のポーロとして、人類なる種属の現象形態として、ペテロの目に映ずるのである。

b) Quantitative Bestimmtheit der relativen Wertform

b相対的価値形態の量的限定性

Jede Ware, deren Wert ausgedrückt werden soll, ist ein Gebrauchsgegenstand von gegebnem Quantum, 15 Scheffel Weizen, 100 Pfd. Kaffee usw. Dieses gegebne Warenquantum enthält ein bestimmtes Quantum menschlicher Arbeit. Die Wertform hat also nicht nur Wert überhaupt, sondern quantitativ bestimmten Wert oder Wertgröße auszudrücken. Im Wertverhältnis der Ware A zur Ware B, der Leinwand zum Rocke, wird daher die Warenart Rock nicht nur als Wertkörper überhaupt der Leinwand qualitativ gleichgesetzt, sondern einem bestimmten Leinwandquantum, z.B. 20 Ellen Leinwand, ein bestimmtes Quantum des Wertkörpers oder Äquivalents, z.B. 1 Rock.

価値を言い現さるべき各商品は、十五シェッフェルの小麦、百斤の珈琲、などの如き一定量の使用対象である。斯くの如き一定の商品量は、一定量の人間労働を含むものである。されば、価値形態は、単に価値一般を言い現すばかりではなく、また量的に限定された価値、即ち価値の大小をも言い現すべきものとなる。斯くて商品Bに対する商品A、即ち上衣に対するリンネルの価値関係に於いては、上衣なる商品種類は単に価値体一般として質的にリンネルと等位に置かれるのみでなく、また例えば二十ヤールなる一定量のリンネルに対して、例えば一着の上衣というが如き一定量の価値体又は等価物が等位に置かれることにもなるのである。

Die Gleichung: "20 Ellen Leinwand = 1 Rock oder: 20 Ellen Leinwand sind 1 Rock wert" setzt voraus, daß in 1 Rock gerade so viel Wertsubstanz steckt als in 20 Ellen Leinwand, daß beide Warenquanta also gleich viel Arbeit kosten oder gleich große Arbeitszeit. Die zur Produktion <68> von 20 Ellen Leinwand oder 1 Rock notwendiger Arbeitszeit wechselt aber mit jedem Wechsel in der Produktivkraft der Weberei oder der Schneiderei. Der Einfluß solcher Wechsel auf den relativen Ausdruck der Wertgröße soll nun näher untersucht werden.

二十ヤールのリンネル=1着の上衣、又は『二十ヤールのリンネルは1着の上衣に値する』という方程式は、一着の上衣には二十ヤールのリンネルに於けると正確に等量の価値実体が含まれていること、即ちこれら二つの商品量はともに同じ分量の労働、同じ大さの労働時間に値することを前提する。然るに二十ヤールのリンネル、又は一着の上衣の生産に必要なる労働時間は、機織若しくは裁縫上の生産力に変化のある都度、変化のするものである。そこで以下、斯くの如き変化が価値大小の相対的表章に及ぼす影響を研究せねばならぬ。

I. Der Wert der Leinwand wechsle (19), während der Rockwert konstant bleibt. Verdoppelt sich die zur Produktion der Leinwand notwendige Arbeitszeit, etwa infolge zunehmender Unfruchtbarkeit des flachstragenden Bodens, so verdoppelt sich ihr Wert. Statt 20 Ellen Leinwand = 1 Rock hätten wir 20 Ellen Leinwand = 2 Röcke, da 1 Rock jetzt nur halb so viel Arbeitszeit enthält als 20 Ellen Leinwand. Nimmt dagegen die zur Produktion der Leinwand notwendige Arbeitszeit um die Hälfte ab, etwa infolge verbesserter Webstühle, so sinkt der Leinwandwert um die Hälfte. Demgemäß jetzt: 20 Ellen Leinwand = 1/2 Rock. Der relative Wert der Ware A, d.h. ihr Wert ausgedrückt in der Ware B, steigt und fällt also direkt wie der Wert der Ware A, bei gleichbleibenden Wert der Ware B.

Ⅰ、上衣の価値が不変で、リンネルの価値が変化する場合(十九)。例えば亜麻栽培地の豊度が減じたため、リンネルの生産に要する労働時間が二倍に増大したとすれば、リンネルの価値も又二倍に増大する。斯くて二十ヤールのリンネル=1着の上衣は二十ヤールのリンネル=2着の上衣となるであろう。なぜならば、一着の上衣は今や二十ヤールのリンネルに比べてわずかに二分の一の労働時間しか含まぬことになるからである。反対に例えば、機織が改良された結果、リンネルの生産に必要なる労働時間が半分に減じたとすれば、リンネルの価値も又半減して、今や二十ヤールのリンネル=二分の一の上衣となる。されば商品Aの相対的価値、即ち商品Bに依って言い現された商品Aの価値は、商品Bの価値に変化がないとすれば、商品Aの価値に正比例して増大し又は減少するのである。

*(十九)『価値』という言い現しは、この場合、上段の説明に於いても時に臨んで暫行的に用いた如く、量的に限定された価値、即ち価値量の意味に用いている。

II. Der Wert der Leinwand bleibe konstant, während der Rockwert wechsle. Verdoppelt sich unter diesen Umständen die zur Produktion des Rockes notwendige Arbeitszeit, etwa infolge ungünstiger Wollschur, so haben wir statt 20 Ellen Leinwand = 1 Rock jetzt: 20 Ellen Leinwand = 1/2 Rock. Fällt dagegen der Wert des Rockes um die Hälfte, so 20 Ellen Leinwand = 2 Röcke. Bei gleichbleibendem Wert der Ware A fällt oder steigt daher ihr relativer, in der Ware B ausgedrücker Wert im umgekehrten Verhältnis zum Wertwechsel von B.

Ⅱ、上衣の価値が変動して、リンネルの価値が不変である場合。例えば羊毛の収穫、思わしからざるため、上衣の生産に必要なる労働時間が二倍に増大したとすれば、20ヤールのリンネル=1着の上衣、は二十ヤールのリンネル=二分の一の上衣となる。反対に若し上衣の価値が半分に減じたとすれば、二十ヤールのリンネル=2着の上衣となる。即ち商品Aの価値に変化なきときは、商品Bに依って言い現されるAの相対的価値は、Bの価値変化に逆比例して増減することになるのである。

Vergleicht man die verschiednen Fälle sub I und II, so ergibt sich, daß derselbe Größenwechsel des relativen Werts aus ganz entgegengesetzten Ursachen entspringen kann. So wird aus 20 Ellen Leinwand = 1 Rock: 1. die Gleichung 20 Ellen Leinwand = 2 Röcke, entweder weil der Wert der Leinwand sich verdoppelt oder der Wert der Röcke um die Hälfte fällt, und 2. die Gleichung 20 Ellen Leinwand = 1/2 Rock, entweder weil der Wert der Leinwand um die Hälfte sinkt oder der Wert des Rockes auf das Doppelte steigt.

以上、Ⅰ及びⅡに於ける種々なる場合を比較するとき、相対的価値の同一なる分量変化が全く反対の原因から生じ得ることが知られる。即ち二十ヤールのリンネル=1着の上衣なる方程式は、(1)リンネルの価値が二倍に増大した結果としても、又は上衣の価値が半分に減じた結果としても、二十ヤールのリンネル=2着の上衣なる方程式に転化され、更らに(2)リンネルの価値が半分に減じた結果としても、又は上衣の価値が二倍に増大した結果としても、二十ヤールのリンネル=二分の一着の上衣なる方程式に転化されるのである。

III. Die zur Produktion von Leinwand und Rock notwendigen Arbeitsquanta mögen gleichzeitig, in derselben Richtung und derselben Proportion wechseln. In diesem Falle nach wie vor 20 Ellen Leinwand = 1 Rock, wie immer ihre Werte verändert seien. Man entdeckt ihren Wertwechsel, so- <69> bald man sie mit einer dritten Ware vergleicht, deren Wert konstant blieb. Stiegen oder fielen die Werte aller Waren gleichzeitig und in derselben Proportion, so würden ihre relativen Werte unverändert bleiben. Ihren wirklichen Wertwechsel ersähe man daraus, daß in derselben Arbeitszeit nun allgemein ein größeres oder kleineres Warenquantum als vorher geliefert würde.

Ⅲ、リンネル及び上衣の生産に必要なる労働が、時を等しくして同一の方向に同一の比例を以って変化することもあり得る。斯かる場合には、双方の価値が如何ほど変化しても、二十ヤールのリンネル=一着の上衣なる方程式には変化がない。リンネル及び上衣の斯かる価値変化は、価値不変なる第三の商品と比較して見れば解る。若し凡ゆる商品の価値が同時に同一の比例を以って増騰し又は低落するとすれば、相対的価値には変化が生じないであろう。この場合に於ける現実的の価値変化を知るには、右の価値騰落以後、同一の労働時間を以って生産せられる商品量が従前に比して一般に大となったか、小となったかを見るべきである。

IV. Die zur Produktion von Leinwand und Rock resp. notwendigen Arbeitszeiten, und daher ihre Werte, mögen gleichzeitig in derselben Richtung wechseln, aber in ungleichem Grad, oder in entgegengesetzter Richtung usw. Der Einfluß aller möglichen derartigen Kombinationen auf den relativen Wert einer Ware ergibt sich einfach durch Anwendung der Fälle I, II und III.

Ⅳ、リンネルと上衣それぞれの生産に必要なる労働時間、随ってそれぞれの価値は、時を等しくして同一の方向に、然し異った比率を以って、又は反対の方向その他の様式に変化し得る。而して斯種の在り得べき一切の変化の結合が一商品の相対的価値に及ぼす影響は、単純に上記Ⅰ、Ⅱ、Ⅲの各場合の応用に依って知られるところである。

Wirkliche Wechsel der Wertgröße spiegeln sich also weder unzweideutig noch erschöpfend wider in ihrem relativen Ausdruck oder in der Größe des relativen Werts. Der relative Wert einer Ware kann wechseln, obgleich ihr Wert konstant bleibt. Ihr relativer Wert kann konstant bleiben, obgleich ihr Wert wechselt, und endlich brauchen gleichzeitige Wechsel in ihrer Wertgröße und im relativen Ausdruck dieser Wertgröße sich keineswegs zu decken.(20)

要するに、価値量の現実的変化は、相対的表章(即ち相対的価値の大小)に依って一点の疑をも残さざる様に、又は一の余すところなき迄に、反映されるものではない。商品の価値は不変であっても、相対的価値は変化し得る。また価値は変化しても、相対的価値は不変たることもあり得る。最後にまた、価値量とその相対的表章とが同時に変化しても、斯かる変化は必ずしも相一致するものでないのである(二十)。

*(二十)第二版注、価値量とその相対的表章との間の斯かる不一致は、俗学的経済学に依りお定まりの鋭さを以って利用されたところである。一例を挙げて見よう。『Aと交換されるBが増進する結果、Aが低減する(Aの生産に支出される労働が減少せざるに)ことを一度許容するとせよ。然らば次の普遍的な価値律はたちどころに倒れてしまう。・・・・彼(リカルド)にして若し、Aの価値がBに比べて増進するとき、Bの価値がAに比べて低減することを許すとすれば、彼は正に商品の価値は常にその商品の中に変化されている労働に依って決定されるという大命題の根抵を覆えすことになる。蓋しAの費用に於ける変化が、Aと交換されるところのBに関係させて見たAの価値を変化せしめるのみでなく、またBを生産する労働の分量に何等の変化も生ぜざるに、Aの価値に比べてBの価値を変化せしめるとすれば、それこそ一の物品に付与された労働の分量が、その物品の価値を調節すると主張する説を覆えす以上に尚、物品の生産費が価値を調節すると主張する説をも、覆すことになるからである』(ブロードハースト著『経済学』ロンドン、一八四二年刊、第11及び一四頁)ブロードハースト氏は同様にこうも言い得るのである。試みに20分の10、50分の10、100分の10等の分数を見よ。10なる数字は不変である。然しその相対的の大きさ、即ち分母20、50、100等に比例した大さは不断に減少してゆく。斯くて例えば十なる整数の大さは、その中に含まれている一なる単位の数に依って『調節』されるという大原則は覆えされることになる。(

3. Die Äquivalentform

3)等価形態

<70> Man hat gesehn: Indem eine Ware A (die Leinwand) ihren Wert im Gebrauchswert einer verschiedenartigen Ware B (dem Rock) ausdrückt, drückt sie letzterer selbst eine eigentümliche Wertform auf, die des Äquivalents. Die Leinwandware bringt ihr eignes Wertsein dadurch zum Vorschein, daß ihr der Rock, ohne Annahme einer von seiner Körperform verschiednen Wertform, gleichgilt. Die Leinwand drückt also in der Tat ihr eignes Wertsein dadurch aus, daß der Rock unmittelbar mit ihr austauschbar ist. Die Äquivalentform einer Ware ist folglich die Form ihrer unmittelbaren Austauschbarkeit mit anderer Ware.

Aなる一商品、(リンネル)の価値が、種類の異ったBなる一商品(上衣)の使用価値に依って言い現されるとき、後者それ自身の上に等価という特殊の価値形態が印刻されることは、我々の既に見たところである。リンネルなる商品は、上衣がその物体的形態とは異った価値形態を採ることなくして自己と等しい値に通用するという事実に依って、それ自身の価値性を表明する。即ちリンネルは実際のところ、上衣が直接自己と交換し得るという事実に依って、それ自身の価値性を言い現すものである。されば、一商品の等価形態とは、要するに商品と直接に交換され得ることの形態なのである。

Wenn eine Warenart, wie Röcke, einer andren Warenart, wie Leinwand, zum Äquivalent dient, Röcke daher die charakteristische Eigenschaft erhalten, sich in unmittelbar austauschbarer Form mit Leinwand zu befinden, so ist damit in keiner Weise die Proportion gegeben, worin Röcke und Leinwand austauschbar sind. Sie hängt, da die Wertgröße der Leinwand gegeben ist, von der Wertgröße der Röcke ab. Ob der Rock als Äquivalent und die Leinwand als relativer Wert oder umgekehrt die Leinwand als Äquivalent und der Rock als relativer Wert ausgedrückt sei, seine Wertgröße bleibt nach wie vor durch die zu seiner Produktion notwendige Arbeitszeit, also unabhängig von seiner Wertform bestimmt. Aber sobald die Warenart Rock im Wertausdruck die Stelle des Äquivalents einnimmt, erhält ihre Wertgröße keinen Ausdruck als Wertgröße. Sie figuriert in der Wertgleichung vielmehr nur als bestimmtes Quantum einer Sache.

上衣の如き商品種類が、リンネルの如き他の商品種類に対して等価の役をつとめるとしても、随って、リンネルと直接に交換され得る形態に在るという特殊の性質が上衣に与えられるとしても、上衣とリンネルとの交換され得べき比率は、それだけではまだ確められたことにならぬのである。リンネルの価値の大小は一定しているのであるから、この比率は上衣の価値の大小に懸る訳である。上衣が等価として、リンネルが相対的価値として、言い現されているにしろ、或は反対に、リンネルが等価として、上衣が相対的価値として、言い現されているにしろ、いづれにしても上衣の価値の大小が、その生産に必要なる労働時間に依って決定され、随って価値形態から独立して決定されることに変わりはない。然し上衣なる商品種類が価値表章上、等価の位置を占めるや否や、その価値量はもはや価値量としての表章を受けなくなる。価値方程式の上からいえば、上衣なる品種類は寧ろ一の物の定量として作用するに過ぎなくなる。

Z.B.: 40 Ellen Leinwand sind "wert" - was? 2 Röcke. Weil die Warenart Rock hier die Rolle des Äquivalents spielt, der Gebrauchswert Rock der Leinwand gegenüber als Wertkörper gilt, genügt auch ein bestimmtes Quantum Röcke, um ein bestimmtes Wertquantum Leinwand auszudrücken. Zwei Röcke können daher die Wertgröße von 40 Ellen Leinwand, aber sie können nie ihre eigne Wertgröße, die Wertgröße von Röcken, ausdrücken. Die oberflächliche Auffassung dieser Tatsache, daß das Äquivalent in der Wertgleichung stets nur die Form eines einfachen Quantums einer Sache, eines Gebrauchswertes, besitzt, hat Bailey, wie viele seiner Vorgänger und Nachfolger, verleitet, im Wertausdruck ein nur quantitatives Verhältnis zu sehn. Die Äquivalentform einer Ware enthält vielmehr keine quantitative Wertbestimmung.

例えば、四十ヤールのリンネルは何かに『値して』いる。何に値しているかといえば、即ち二着の上衣に値しているのである。上衣なる商品種類はこの場合等価の役割を演ずるのであるから、換言すれば上衣なる使用価値はリンネルに対し価値体として通用するのであるから、随ってまた一定量の上衣はリンネルなる一定の価値量を言い現すに十分のものとなる。斯くして二着の上衣は四十ヤールのリンネルの価値量を言い現し得る。然しそれは自分自身の価値量、即ち上衣の価値量を言い現し得るものでない。この事実、即ち等価なるものは、価値方程式上つねに一の物の、一の使用価値の、単純なる形態を有するに過ぎぬという事実の皮相的解釈こそ、かのべーリー並びに彼の先駆者たり後継者たる多くの人々をして、価値表章の中に単なる量的比率を見るの錯誤に陥らしめたものである。而も事実は寧ろ、商品の等価形態なるものは、何等の量的価値決定をも含むものでない。

Die erste Eigentümlichkeit, die bei Betrachtung der Äquivalentform auffällt, ist diese: Gebrauchswert wird zur Erscheinungsform seines Gegenteils, des Werts.

等価形態を考察する際我々の注意に上る第一の特色は、使用価値が其反対物たる価値の現象形態になるという事実である。

<71> Die Naturalform der Ware wird zur Wertform. Aber, notabene, dies Quidproquo ereignet sich für eine Ware B (Rock oder Weizen oder Eisen usw.) nur innerhalb des Wertverhältnisses, worin eine beliebige andre Ware A (Leinwand etc.) zu ihr tritt, nur innerhalb dieser Beziehung. Da keine Ware sich auf sich selbst als Äquivalent beziehn, also auch nicht ihre eigne Naturalhaut zum Ausdruck ihres eignen Werts machen kann, muß sie sich auf andre Ware als Äquivalent beziehn oder die Naturalhaut einer andren Ware zu ihrer eignen Wertform machen.

商品の現物形態は価値形態となる。然しここに注意すべきことは、この物対物はこれを商品B(上衣なり、小麦なり、鉄なりの立場から見れば、他の随意の一商品A(リンネルなど)が、それと関連せしめられる価値関係の内部にのみ、ただこの関係の範囲内にのみ、行われるという事実である。如何なる商品も、それ自身に対しては等価関係に立つことが出来ず、随ってまた、自身の現物形態を以って自身の価値の表章たらしめることは出来ぬのであるから、勢い他の商品を等価として、それに関係せねばならぬことになる。即ち他商品の現物形態を以って、自己の価値形態たらしめねばならなくなるのである。

Dies veranschauliche uns das Beispiel eines Maßes, welches den Warenkörpern als Warenkörpern zukommt, d.h. als Gebrauchswerten. Ein Zuckerhut, weil Körper, ist schwer und hat daher Gewicht, aber man kann keinem Zuckerhut sein Gewicht ansehn oder anfühlen. Wir nehmen nun verschiedne Stücke Eisen, deren Gewicht vorher bestimmt ist. Die Körperform des Eisens, für sich betrachtet, ist ebensowenig Erscheinungsform der Schwere als die des Zuckerhuts. Dennoch, um den Zuckerhut als Schwere auszudrücken, setzen wir ihn in ein Gewichtsverhältnis zum Eisen. In diesem Verhältnis gilt das Eisen als ein Körper, der nichts darstellt außer Schwere. Eisenquanta dienen daher zum Gewichtsmaß des Zuckers und repräsentieren dem Zuckerkörper gegenüber bloße Schwergestalt, Erscheinungsform von Schwere. Diese Rolle spielt das Eisen nur innerhalb dieses Verhältnisses, worin der Zucker oder irgendein anderer Körper, dessen Gewicht gefunden werden soll, zu ihm tritt. Wären beide Dinge nicht schwer, so könnten sie nicht in dieses Verhältnis treten und das eine daher nicht zum Ausdruck der Schwere des andren dienen. Werfen wir beide auf die Waagschale, so sehn wir in der Tat, daß sie als Schwere dasselbe, und daher in bestimmter Proportion auch von demselben Gewicht sind. Wie der Eisenkörper als Gewichtsmaß dem Zuckerhut gegenüber nur Schwere, so vertritt in unsrem Wertausdruck der Rockkörper der Leinwand gegenüber nur Wert.

いま、商品体としての商品体、即ち使用価値としての商品体に適用される一の尺度を以って、この事実を例解しよう。棒砂糖は物体なるが故に、重さを有している。随って目方がある、然し如何なる棒砂糖を眺めても、擦っても、その目方は分らない。いま、予め目方の確定された種々なる鉄片を採る。鉄片の具体的形態は、棒砂糖の具体的形態と同様に、それ自身として考察するときは、重さの現象形態ではない。然し棒砂糖を重さとして言い現すには、それを鉄との重量関係に置く。この関係に於いては、鉄は重さ以外には何物をも代表せざる物体として作用する。されば鉄の各分量は、砂糖の目方の尺度として役立ち、砂糖体に対しては単なる代表された重さ即ち重さの現象形態を代表することになる。而してこの役目は、砂糖なり、目方の確定せらるべき他の何等かの物体なりが、鉄との間に結ぶ右の関係の内部に於いてのみ、鉄に依って演ぜられるのである。若しいずれにも重さが無いとすれば、両者はこの関係に入ることが出来ず、斯くして一方は他方の重さの表章としては役立ち得なくなるであろう。
双方を秤皿に載せるとき、いずれも重さとして同一物であること、随ってまた一定の比率に置いて見れば、いずれも同じ目方のものであることを、我々は事実に於いて知るのである。斯くの如く、目方の尺度としての鉄体は、棒砂糖に対して単に重さのみを代表するのであるが、それと同様に、上記の価値表章に於いても、上衣体はリンネルに対して単に価値のみを代表するのである。

Hier hört jedoch die Analogie auf. Das Eisen vertritt im Gewichtsausdruck des Zuckerhuts eine beiden Körpern gemeinsame Natureigenschaft, ihre Schwere, während der Rock im Wertausdruck der Leinwand eine übernatürliche Eigenschaft beider Dinge vertritt: ihren Wert, etwas rein Gesellschaftliches.

然しこの点で、類似は終ってしまう。鉄は棒砂糖の目方の表章たる資格を以って、この両物体に共通の現物性質なる重さを代表するのであるが、上衣はリンネルの価値表章たる資格を以って、この両物体の超自然的性質たる価値、即ち純粋に社会的のものを代表するのである。

Indem die relative Wertform einer Ware, z.B. der Leinwand, ihr Wertsein als etwas von ihrem Körper und seinen Eigenschaften durchaus Unterschiedenes ausdrückt, z.B. als Rockgleiches, deutet dieser Ausdruck selbst an, daß er ein gesellschaftliches Verhältnis verbirgt. Umgekehrt mit der Äquivalentform. Sie besteht ja gerade darin, daß ein Warenkörper, wie der <72> Rock, dies Ding wie es geht und steht, Wert ausdrückt, also von Natur Wertform besitzt. Zwar gilt dies nur innerhalb des Wertverhältnisses, worin die Leinwandware auf die Rockware als Äquivalent bezogen ist.(21) Da aber Eigenschaften eines Dings nicht aus seinem Verhältnis zu andern Dingen entspringen, sich vielmehr in solchem Verhältnis nur betätigen, scheint auch der Rock seine Äquivalentform, seine Eigenschaft unmittelbarer Austauschbarkeit, ebensosehr von Natur zu besitzen wie seine Eigenschaft, schwer zu sein oder warm zu halten. Daher das Rätselhafte der Äquivalentform, das den bürgerlich rohen Blick des politischen Ökonomen erst schlägt, sobald diese Form ihm fertig gegenübertritt im Geld. Dann sucht er den mystischen Charakter von Gold und Silber wegzuklären, indem er ihnen minder blendende Waren unterschiebt und mit stets erneutem Vergnügen den Katalog all des Warepöbels ableiert, der seinerzeit die Rolle des Warenäquivalents gespielt hat. Er ahnt nicht, daß schon der einfachste Wertausdruck, wie 20 Ellen Leinwand = 1 Rock, das Rätsel der Äquivalentform zu lösen gibt.

一の商品なる例えばリンネルの相対的価値形態が、この商品の現物体及びその諸性質とは全く異った或物、例えば上衣に等しき物として、それ自身の価値性を言い現すとき、この表章それ自体は一の社会的関係を包蔵するものであることをほのめかしている。等価形態の場合は反対である。蓋し等価形態なるものは、上衣の如き商品体がそのままの姿で価値を言い現しているということ、換言すれば本来的に価値形態を具備しているということを本領としているのである。これは上衣商品がリンネル商品に対して等価の位置に立つ価値関係の内部に於いてのみ、言い得ることである(二十一)。然し物の諸性質は、他物に対するその物の関係から生ずるのではなく、寧ろ斯かる関係を通して顕証されるに過ぎぬのであるから、上衣はその等価形態、即ち直接に交換し得るという性質を、重さや保温性と同様に本来具備しているように見える。この点に、等価形態の謎的性質が由来しているのである。この謎的性質は、等価形態が完全に発達し、貨幣の形をとって経済学者の前に現れるに及んで、初めて彼のブルジョア的に粗雑な注意に上るのであって、そのとき彼は金銀に換うるに、それほどまばゆくない諸商品を以ってすることに依り、またその時々に商品等価の役目を演じた凡ゆる商品の目録をば常に新たなる満足を以って読み上げることに依って、金銀の神秘的性質を解き去ろうとする。20ヤールのリンネル=1着の上衣という如き最も単純なる価値表章が、既に等価形態の謎を提出していることは、彼の気付かなかったところである。

*(二十一)斯かる反射関係は総じて一種特別なものである。例えば、或人は他の人々が彼に対して臣民たる関係に立つが故にのみ国王である。然るに後者は前者が国王なるが故に、その臣民たるものと考えている。

Der Körper der Ware, die zum Äquivalent dient, gilt stets als Verkörperung abstrakt menschlicher Arbeit und ist stets das Produkt einer bestimmten nützlichen, konkreten Arbeit. Diese konkrete Arbeit wird also zum Ausdruck abstrakt menschlicher Arbeit. Gilt der Rock z.B. als bloße Verwirklichung, so die Schneiderei, die sich tatsächlich in ihm verwirklicht, als bloße Verwirklichungsform abstrakt menschlicher Arbeit. Im Wertausdruck der Leinwand besteht die Nützlichkeit der Schneiderei nicht darin, daß sie Kleider, also auch Leute, sondern daß sie einen Körper macht, dem man es ansieht, daß er Wert ist, also Gallerte von Arbeit, die sich durchaus nicht unterscheidet von der im Leinwandwert vergegenständlichten Arbeit. Um solch einen Wertspiegel zu machen, muß die Schneiderei selbst nichts widerspiegeln außer ihrer abstrakten Eigenschaft, menschliche Arbeit zu sein.

等価として役立つ商品の現物体は、常に抽象的人間労働の体化たるものであって、それは一定の有用な具体的な労働の産物たることを常とする。斯くして、この具体的労働は、抽象的の人間労働を言い現したものとなるのである。例えば、上衣が抽象的人間労働の単なる体現として通用するとき、事実上、上衣の中に体現されている裁縫も又、抽象的人間労働の単なる体現形態として通用することになる。リンネルの価値表章を通して見られる裁縫の有用性なるものは、この労働に依って衣服、随ってまた人の身なりが造られるという点に存するものでなく、寧ろ価値たること、随ってまたリンネルの価値に対象化されている労働から区別し得ざる労働の凝結たることを認めしむる一の物体が、それに依って造られるという点に存しているのである。

In der Form der Schneiderei wie in der Form der Weberei wird menschliche Arbeitskraft verausgabt. Beide besitzen daher die allgemeine Eigenschaft menschlicher Arbeit und mögen daher in bestimmten Fällen, z.B. bei der Wertproduktion, nur unter diesem Gesichtspunkt in Betracht kommen. All das ist nicht mysteriös. Aber im Wertausdruck der Ware wird die Sache verdreht. Um z.B. auszudrücken, daß das Weben nicht in seiner <73> konkreten Form als Weben, sondern in seiner allgemeinen Eigenschaft als menschliche Arbeit den Leinwandwert bildet, wird ihm die Schneiderei, die konkrete Arbeit, die das Leinwand-Äquivalent produziert, gegenübergestellt als die handgreifliche Verwirklichungsform abstrakt menschlicher Arbeit.

斯様な価値鏡となるためには、裁縫それ自体が人間労働たる抽象的性質以外の何物をも反射しないことを必要とする。裁縫なる形態に於いても、機織なる形態に於いても、人間労働力が支出されるという点に差異はない。即ち双方とも人間労働の一般的性質を具備しているのであって、例えば価値生産という如き一定の場合に於いては、いずれもこの見地の下にのみ考慮に入り得るのである。これら総べての点を通じて、神秘的なところはない。然し商品の価値表章になると、問題が転倒して来る。一例を挙げるとすれば、機織は機織たる具体的形態に於いてでなく、人間労働たる一般的性質に於いて、リンネルの価値を形成するという事実を言い現すためには、リンネルの等価を生産するところの裁縫なる具体的労働が、抽象的人間労働の明瞭なる体現形態として機織に対立して来るのである。

Es ist also eine zweite Eigentümlichkeit der Äquivalentform, daß konkrete Arbeit zur Erscheinungsform ihres Gegenteils, abstrakt menschlicher Arbeit wird.

斯くの如く、具体的労働がその反対物なる抽象的人間労働の現象形態になるという事実こそ、等価形態の第二の特色たるものである。

Indem aber diese konkrete Arbeit, die Schneiderei, als bloßer Ausdruck unterschiedsloser menschlicher Arbeit gilt, besitzt sie die Form der Gleichheit mit andrer Arbeit, der in der Leinwand steckenden Arbeit, und ist daher, obgleich Privatarbeit, wie alle andre, Waren produzierende Arbeit, dennoch Arbeit in unmittelbar gesellschaftlicher Form. Ebendeshalb stellt sie sich dar in einem Produkt, das unmittelbar austauschbar mit andrer Ware ist. Es ist also eine dritte Eigentümlichkeit der Äquivalentform, daß Privatarbeit zur Form ihres Gegenteils wird, zu Arbeit in unmittelbar gesellschaftlicher Form.

然しこの具体的労働なる裁縫は、無差別なる人間労働の単なる表章として通用するとき、他の労働、即ちリンネルの中に含まれている労働と等一の形態を有し、随って他の凡ゆる商品を生産するところの労働と同様に私的労働であるとはいえ、而かも直接に社会的なる形態を採った労働となるのであって、さればこそ、それは他の商品と直接に交換し得る生産物となって現れるのである。斯く私的労働がその反対の形態なる直接社会的の形態を採った労働になるということは、即ち等価形態の第二の特色たるものである。

Die beiden zuletzt entwickelten Eigentümlichkeiten der Äquivalentform werden noch faßbarer, wenn wir zu dem großen Forscher zurückgehn, der die Wertform, wie so viele Denkformen, Gesellschaftsformen und Naturformen zuerst analysiert hat. Es ist dies Aristoteles.

これらの最後に述べた等価形態の二特色は、かの思想形態や、社会形態や、自然形態など幾多の形態と相並んで、更に価値形態をも初めて分析したところの大思想家に遡って考えるとき、ヨリ理解し易きものとなる。その大思想家というのは、即ちアリストテレースのことである。

Zunächst spricht Aristoteles klar aus, daß die Geldform der Ware nur die weiter entwickelte Gestalt der einfachen Wertform ist, d.h. des Ausdrucks des Werts einer Ware in irgendeiner beliebigen andren Ware, denn er sagt:

アリストテレースは先ず、商品の貨幣形態なるものが単純なる価値形態、換言すれば、任意に選んだ何等かの商品を以ってする一商品の価値表章の更らに発達した姿容に過ぎぬことを明かに述べている。

"5 Polster = 1 Haus"
Kliuai pente anti oik iaz
<Griechisch: Clinai pente anti oicias>

"unterscheidet sich nicht" von:

"5 Polster = soundso viel Geld"
Kliuai pente anti ... osou ai pente k linai
<Griechisch: clinai pente anti ... odson ai pente clinai>

即ち彼は「しとね五個=家一軒」ということは「しとね五個=貨幣一定額」と「異なるところがない」と言っている。

Er sieht ferner ein, daß das Wertverhältnis, worin dieser Wertausdruck steckt, seinerseits bedingt, daß das Haus dem Polster qualitativ gleichgesetzt wird und daß diese sinnlich verschiednen Dinge ohne solche Wesensgleichheit nicht als kommensurable Größen aufeinander beziehbar wären. "Der Austausch", sagt er," kann nicht sein ohne die Gleichheit, die <74> Gleichheit aber nicht ohne die Kommensurabilität" ("out isothz mh oushz summetria z"). Hier aber stutzt er und gibt die weitere Analyse der Wertform auf. "Es ist aber in Wahrheit unmöglich (th men oun alhdeia adunaton), daß so verschiedenartige Dinge kommensurabel", d.h. qualitativ gleich seien. Diese Gleichsetzung kann nur etwas der wahren Natur der Dinge Fremdes sein, also nur "Notbehelf für das praktische Bedürfnis".

彼はまた、この価値表章を含む価値関係が更らに、家屋がしとねと質的に等しいものとされること、並びに斯かる本質上の等一性なくんば、これらの感性的に相異った物は、通約し得べき大さとして相互に関係せしめられ得るものでないことを認めている。彼は言う。『交換は等一なくして存在し得るものでなく、等一は通約性なくして存在し得るものでない』と。が、彼はここで行き詰ってしまって、価値形態のそれ以上に進んだ分析を放棄している。『然し斯く種類の異った物が通約され得るということ』換言すれば質的に等しいということは、『本当は不可能である。』斯かる等一は、これらの物の真の性質には関係なきものであって、『実際的必要に対する緊急措置』たり得るに過ぎぬのであると。

Aristoteles sagt uns also selbst, woran seine weitere Analyse scheitert, nämlich am Mangel des Wertbegriffs. Was ist das Gleiche, d.h. die gemeinschaftliche Substanz, die das Haus für den Polster im Wertausdruck des Polsters vorstellt? So etwas kann "in Wahrheit nicht existieren", sagt Aristoteles. Warum? Das Haus stellt dem Polster gegenüber ein Gleiches vor, soweit es das in beiden, dem Polster und dem Haus, wirklich Gleiche vorstellt. Und das ist - menschliche Arbeit.

要するにアリストテーレスは、彼のそれ以上に進んだ分析が如何なる点で頓挫したかを自ら語っている訳である。即ち、価値概念の欠如ということがその頓挫の原因となったのである。しとねの価値表章に於いて、家屋がしとねに比して代表するところの等一物、換言すれば、家屋としとねとの双方に共通するところの実態は何であるか?斯様な物は『本当は存在し得るものではない』と、アリストテレースは言う。何故存在し得ないか。しとねと家屋との双方に於ける現実的の等一物が家屋に依って代表される限り、家屋はしとねに比して等一物を代表することになる。而してその等一物とは、即ち人間労働のことである。

Daß aber in der Form der Warenwerte alle Arbeiten als gleiche menschliche Arbeit und daher als gleichgeltend ausgedrückt sind, konnte Aristoteles nicht aus der Wertform selbst herauslesen, weil die griechische Gesellschaft auf der Sklavenarbeit beruhte, daher die Ungleichheit der Menschen und ihrer Arbeitskräfte zur Naturbasis hatte. Das Geheimnis des Wertausdrucks, die Gleichheit und gleiche Gültigkeit aller Arbeiten, weil und insofern sie menschliche Arbeit überhaupt sind, kann nur entziffert werden, sobald der Begriff der menschlichen Gleichheit bereits die Festigkeit eines Volksvorurteils besitzt. Das ist aber erst möglich in einer Gesellschaft, worin die Warenform die allgemeine Form des Arbeitsprodukts, also auch das Verhältnis der Menschen zueinander als Warenbesitzer das herrschende gesellschaftliche Verhältnis ist. Das Genie des Aristoteles glänzt grade darin, daß er im Wertausdruck der Waren ein Gleichheitsverhältnis entdeckt. Nur die historische Schranke der Gesellschaft, worin er lebte, verhindert ihn herauszufinden, worin denn "in Wahrheit" dies Gleichheitsverhältnis besteht.

然るに商品価値の形態に於いては、一切の労働が等一なる人間労働として即ち同じ値打のものとして言い現されるという事実をば、価値形態それ自身の中から看取することを、アリストテレースにとって不可能たらしめた原因がある。それは即ちギリシャの社会は奴隷労働に立脚するものであって、人類及びその労働力の不等を自然的の基礎にしていたという事実である。一切の労働は人間労働一般であるが故に、又その限りに於いてのみ、等一であり同じ値打のものであるという、価値表章の秘密は、人種平等の概念が既に固定して先入的俗見となったとき、初めて解明し得るものである。然し斯かる事実は、商品形態が労働生産物の一般的形態となり従ってまた商品所有者としての人間相互の関係が、支配的の社会関係となっている社会の下に、初めて行われ得る事である。アリストテレースは商品の価値表章の中に等一関係を発見した点に、天才の閃きを示しているが、彼の生存せる社会の歴史的制限に依って、この等一関係なるものが『本当は』如何なる事実に存しているかを見出すことを妨げられたのである。

4. Das Ganze der einfache Wertform

(4)単純価値形態の総体

Die einfache Wertform einer Ware ist enthalten in ihrem Wertverhältnis zu einer verschiedenartigen Ware oder im Austauschverhältnis mit derselben. Der Wert der Ware A wird qualitativ ausgedrückt durch die unmittelbare Austauschbarkeit der Ware B mit der Ware A. Er wird quantitativ ausgedrückt durch die Austauschbarkeit eines bestimmten Quantums der Ware B mit dem gegebenen Quantum der Ware A. In andren Worten: <75> Der Wert einer Ware ist selbständig ausgedrückt durch seine Darstellung als "Tauschwert". Wenn es im Eingang dieses Kapitels in der gang und gäben Manier hieß: Die Ware ist Gebrauchswert und Tauschwert, so war dies, genau gesprochen, falsch. Die Ware ist Gebrauchswert oder Gebrauchsgegenstand und "Wert". Sie stellt sich dar als dies Doppelte, was sie ist, sobald ihr Wert eine eigne, von ihrer Naturalform verschiedene Erscheinungsform besitzt, die des Tauschwerts, und sie besitzt diese Form niemals isoliert betrachtet, sondern stets nur im Wert- oder Austauschverhältnis zu einer zweiten, verschiedenartigen Ware. Weiß man das jedoch einmal, so tut jene Sprechweise keinen Harm, sondern dient zur Abkürzung.

一商品の単純なる価値形態は、種類の異った他の一商品に対する価値関係、換言すれば交換関係の中に含まれている。商品Aの価値は、商品Bを以ってそれと直接に交換し得るという事実に依って、質的に言い現され、また、商品Bの一定量を以って商品Aの一定量と交換し得るという事実に依って、量的に言い現される。語を換えていえば、一商品の価値は、それが『交換価値』として表現されることに依り、独立した形に言い現されるのである。本章の冒頭に於いては、通俗的に、商品は使用価値及び交換価値であると言ったが、それは厳密に言うと誤りである商品は使用価値即ち使用対象であって、且つ『価値』なのである。商品はその価値が現物形態とは異なる特殊の現象形態を、交換価値なる形態を採るとき、斯かる二重物として表現されるのであってこの形態は商品を他から切り離して観察するときは決して存在するものでなく、種類の異なった他の一商品との価値関係又は交換関係に於いてのみ得られることになるのである。これだけのことを心得て置けば、右の如き言い方も有害とはならず、却って省略の目的に役立つのである。

Unsere Analyse bewies, daß die Wertform oder der Wertausdruck der Ware aus der Natur des Warenwerts entspringt, nicht umgekehrt Wert und Wertgröße aus ihrer Ausdrucksweise als Tauschwert. Dies ist jedoch der Wahn sowohl der Merkantilisten und ihrer modernen Aufwärmer, wie Ferrier, Ganilh usw. (22), als auch ihrer Antipoden, der modernen Freihandels-Commis-Voyageurs, wie Bastiat und Konsorten. Die Merkantilisten legen das Hauptgewicht auf die qualitative Seite des Wertausdrucks, daher auf die Äquivalentform der Ware, die im Geld ihre fertige Gestalt besitzt - die modernen Freihandelshausierer dagegen, die ihre Ware um jeden Preis losschlagen müssen, auf die quantitative Seite der relativen Wertform. Für sie existiert folglich weder Wert noch Wertgröße der Ware außer in dem Ausdruck durch das Austauschverhältnis, daher nur im Zettel des täglichen Preiskurants. Der Schotte Macleod, in seiner Funktion, die kreuzverwirrten Vorstellungen von Lombardstreet möglichst gelehrt herauszuputzen, bildet die gelungene Synthese zwischen den abergläubigen Merkantilisten und den aufgeklärten Freihandelshausierern.

商品の価値形態換言すれば価値表章なるものは、商品価値の性質に起因するものであって、反対に価値及び価値大小が交換価値なる表章様式に起因するものでないことは、我々の分析に依って論証されたところである。而もこの後の見解こそ、マーカンチリスト及びその近世的蒸し返し屋なるフェリエー、ガニール(二十二)等、並びに彼等の反対論署なるバスチア及びその一派の如き近世自由貿易商人等の懐いていた妄想なのである。
マーカンチリストは価値表章の質的方面に重きを置き、斯くして貨幣に依り完成姿容を与えられるところの、商品の等価形態を特に強調することになったのである。これに反して、如何なる価格を以っても商品を売り飛ばしてしまわねばならぬ近世自由貿易行商人は、相対的価値形態の量的方面に重きを置くのであって、彼等から見れば、商品の価値も価値大小も、交換関係に依る表章以外の処、換言すれば、日々の物価表以外の処には存在するものでない。スコットランド人マクラウドは、ロムバード街の錯乱したる観念をば出来得る限り学識的に粉飾する任務を以って、迷信的なマーカンチリストと啓蒙された自由貿易行商人とを総合せしむることに成功したのである。

*(二十二)第二版誌ーエフ・セー・アー・フェリエー(税関副検査官)著『商業に関連して考察せる政府』パリ、一八一五年刊。シァール・ガニール著『経済学体系』第二版、パリ、一八二一年刊

Die nähere Betrachtung des im Wertverhältnis zur Ware B enthaltenen Wertausdrucks der Ware A hat gezeigt, daß innerhalb desselben die Naturalform der Ware A nur als Gestalt von Gebrauchswert, die Naturalform der Ware B nur als Wertform oder Wertgestalt gilt. Der in der Ware eingehüllte innere Gegensatz von Gebrauchswert und Wert wird also dargestellt durch einen äußeren Gegensatz, d.h. durch das Verhältnis zweier Waren, worin <76> die eine Ware, deren Wert ausgedrückt werden soll, unmittelbar nur als Gebrauchswert, die andre Ware hingegen, worin Wert ausgedrückt wird, unmittelbar nur als Tauschwert gilt. Die einfache Wertform einer Ware ist also die einfache Erscheinungsform des in ihr enthaltenen Gegensatzes von Gebrauchswert und Wert.

我々は商品Bへの価値関係に含まれている商品Aの価値表章を仔細に観察することに依って、この関係の内部に於いては商品Aの現物形態は単に使用価値の姿容としてのみ、また商品Bの現物形態は単に価値形態即ち価値姿容としてのみ通用することを明かにした。斯くして、各商品の中に包まれている使用価値と価値との内部的対立に、外部的の対立に依り、換言すれば価値が言い現さるべき商品を直接単に使用価値としてのみ通用せしめ、反対に、価値を言い現す方の商品を直接単に交換価値としてのみ通用せしめる二商品間の関係に依って、表現されることになる。要するに一商品の単純なる価値形態は、その商品の中に含まれている使用価値と価値との対立の単純なる現象形態となるのである。

Das Arbeitsprodukt ist in allen gesellschaftlichen Zuständen Gebrauchsgegenstand, aber nur eine historisch bestimmte Entwicklungsepoche, welche die in der Produktion eines Gebrauchsdings verausgabte Arbeit als seine "gegenständliche" Eigenschaft darstellt, d.h. als seinen Wert, verwandelt das Arbeitsprodukt in Ware. Es folgt daher, daß die einfache Wertform der Ware zugleich die einfache Warenform des Arbeitsprodukts ist, daß also auch die Entwicklung der Warenform mit der Entwicklung der Wertform zusammenfällt.

如何なる社会状態の下に於いても、労働生産物は使用対象たるものであって、ただ使用物品の生産上に支出された労働をその『対象的』性質として、価値として、表現せしめる歴史的に限定された一の発展時期に於いてのみ、労働生産物は商品に転化されるのである。そこで商品の単純なる価値形態は、同時にまた、労働生産物の単純なる商品形態であり、随って商品形態の発達なるものは、価値形態の発達と一致するということになる。

Der erste Blick zeigt das Unzulängliche der einfachen Wertform, dieser Keimform, die erst durch eine Reihe von Metamorphosen zur Preisform heranreift.

単純なる価値形態が不十分であることは、一見して知られる。この価値形態は、一列の転形を遂げることに依って初めて価格形態に熟成するところの胚種形態に過ぎぬものである。

Der Ausdruck in irgendwelcher Ware B unterscheidet den Wert der Ware A nur von ihrem eignen Gebrauchswert und setzt sie daher auch nur in ein Austauschverhältnis zu irgendeiner einzelnen von ihr selbst verschiednen Warenart, statt ihre qualitative Gleichheit und quantitative Proportionalität mit allen andren Waren darzustellen. Der einfachen relativen Wertform einer Ware entspricht die einzelne Äquivalentform einer andren Ware. So besitzt der Rock, im relativen Wertausdruck der Leinwand, nur Äquivalentform oder Form unmittelbarer Austauschbarkeit mit Bezug auf diese einzelne Warenart Leinwand.

商品Aの価値が他の何等かの商品に依って言い現されるということは、要するに、Aの価値がそれ自身の使用価値から区別されるということに過ぎぬ。随ってこの表章は、Aをそれ自身とは異った何等かの単一なる商品種類との交換関係に置くだけであって、他の凡いる商品に対するAの質的等一ならびに量的比例を表現するものではないのである。一商品の単純なる相対的価値形態は、他の一商品の単一なる等価形態を伴う。斯くして上衣なる商品は、リンネルの相対的価値表章たる関係に於いては、リンネルという単一の商品種類についてのみ等価形態、即ち直接に交換し得る形態を採ることになるのである。

Indes geht die einzelne Wertform von selbst in eine vollständigere Form über. Vermittelst derselben wird der Wert einer Ware A zwar in nur einer Ware von andrer Art ausgedrückt. Welcher Art aber diese zweite Ware, ob Rock, ob Eisen, ob Weizen usw., ist durchaus gleichgültig. Je nachdem sie also zu dieser oder jener andren Warenart in ein Wertverhältnis tritt, entstehn verschiedne einfache Wertausdrücke einer und derselben Ware.(22a) Die Anzahl ihrer möglichen Wertausdrücke ist nur beschränkt durch die Anzahl von ihr verschiedner Warenarten. Ihr vereinzelter Wertausdruck verwandelt sich daher in die stets verlängerbare Reihe ihrer verschiednen einfachen Wertausdrücke.

だが、単一なる価値形態は、自ずからより完全な形態に推転するものである。単一なる価値形態に依っても、Aなる一商品の価値が、種類の異った単一の商品を以って言い現されることは事実である。然しこの第二の商品が如何なる種類の物であるか、即ちそれが上衣であるか、鉄であるか、小麦又はその他の物であるかということは、どうでもいい問題である。そこで甲なる商品種類に対して価値関係に入るか、乙なる商品種類に対して価値関係に入るかに従って、同一商品についても種々異った単純なる価値表章が生ずることになる(二十三a)。斯様な可能的価値表章の数は、他の異った商品種類の数に依ってのみ制限される。斯くて商品の個別的価値表章は、種々異った単純なる価値表章の絶えず延長し得る一列に転化される訳である。

*(二十三a)第二版誌、例えば。ホーマーについて見るに、一の物の価値は種々異った一列の諸物に依って言い現される。

B) Totale oder entfaltete Wertform

B_総体的の、換言すれば拡大されたる価値形態

<77> z Ware A = u Ware B oder = v Ware C oder = w Ware D oder = x Ware E oder = etc
(20 Ellen Leinwand = 1 Rock oder = 10 Pfd. Tee oder = 40 Pfd. Kaffee oder = 1 Quarter Weizen oder = 2 Unzen Gold oder = 1/2 Tonne Eisen oder = etc. )

Z量A商品 =U量B商品 又は=V量 C商品 又は=W量D商品 又は=X量E商品 又は=その他
(二十ヤールのリンネル= 1着の上衣 又は十斤の茶 又は=四十斤の珈琲  又は = 一クォーターの 小麦 又は=二オンスの金 又は=二分の一トンの鉄又は=その他) 

1. Die entfaltete relative Wertform

(1)拡大されたる相対的価値形態

Die Wert einer Ware, der Leinwand z.B., ist jetzt ausgedrückt in zahllosen andren Elementen der Warenwelt. Jeder andre Warenkörper wird zum Spiegel des Leinwandwerts.(23) So erscheint dieser Wert selbst erst wahrhaft als Gallerte unterschiedsloser menschlicher Arbeit. Denn die ihn bildende Arbeit ist nun ausdrücklich als Arbeit dargestellt, der jede andre menschliche Arbeit gleichgilt, welche Naturalform sie immer besitze und ob sie sich daher in Rock oder Weizen oder Eisen oder Gold usw. vergegenständliche. Durch ihre Wertform steht die Leinwand daher jetzt auch in gesellschaftlichem Verhältnis nicht mehr zu nur einer einzelnen andren Warenart, sondern zur Warenwelt. Als Ware ist sie Bürger dieser Welt. Zugleich liegt in der endlosen Reihe seiner Ausdrücke, daß der Warenwert gleichgültig ist gegen die besondre Form des Gebrauchswerts, worin er erscheint.

一の商品、例えばリンネル、の価値は、今や商品界の他の無数の要素に依って言い現されることになった。他の各商品体は、リンネル価値の鏡となるのである(二十三)。斯くしてこの価値それは自身は、ここに初めて真に無差別的な人間労働の凝結として現れることになる。蓋し、この価値を形成するところの労働は、今や明かに他の凡ゆる労働と【これらの労働が如何なる現物形態を有するにもせよ、即ち上衣に対象化されるか、小麦に対象化されるか、それとも鉄、金その他の物に対象化されるかを問わず]同じ値打の労働として表現されることになるからである。リンネルはまた、今やその価値形態に依って、もはや他の個別的商品種類のみに対して社会的関係に立つものではなく、商品界全体に対して同一の関係に立つこととなる。それは商品たる資格に於いては、この商品界の一市民である。同時にまた、その表章が無限に連系するという事実の中に、商品価値なるものは、それが現れてゆく使用価値の特殊形態に対しては無頓着であるという事実が存在しているのである。

*(二十三)さればリンネルの価値が上衣に依って表現される時は、リンネルの上衣価値といい、小麦に依って表現される時は、リンネルの小麦価値という。斯種の言い現しは、いずれも、上衣や小麦などの使用価値を通して現れるものが、リンネルの価値であることを示すのである。『如何なる商品の価値も、交換上の関係を示すものであって・・・・それと交換せらるべき商品の如何に従って、或は小麦価値、或は織物価値などといい得るものである。斯くして種類を異にした幾多の慣値が、存在している商品と同数の相異った価値が存在することになる。而してこれらの価値はいづれも等しく現実的にして旦つ名目的のものである』(『価値の性質、尺度及び原因に関する批判論。主としてリカルド及びその学徒の述作について。「諸見解の形成その他を論ず」の作者著』ロンドン一八二五年刊、第三九頁)。その学徒の述作について。「諸見解の形成その他を論ず」の作者著』ロンドン一八二五年刊、この匿名書の著者サミュエル・ベーリーは当時イギリスの論壇を頗る騒がしたものであるが、彼は斯く同一なる商品価値の種々雑多な相対的表章を指摘することに依って、価値の凡ゆる概念決定を撲滅したものと考えた。彼の見解は偏狭であったとはいえ、とにかく彼がリカルド説の急所を衝いたことは、リカルド学派が斯くまで激昂して彼を攻撃した(例えば『ウェストミンスター・レヴィユー』誌上で)事実から推知されるところでる。

<78> In der ersten Form: 20 Ellen Leinwand = 1 Rock kann es zufällige Tatsache sein, daß diese zwei Waren in einem bestimmten quantitativen Verhältnisse austauschbar sind. In der zweiten Form leuchtet dagegen sofort ein von der zufälligen Erscheinung wesentlich unterschiedner und sie bestimmender Hintergrund durch. Der Wert der Leinwand bleibt gleich groß, ob in Rock oder Kaffee oder Eisen etc. dargestellt, in zahllos verschiednen Waren, den verschiedensten Besitzern angehörig. Das zufällige Verhältnis zweier individueller Warenbesitzer fällt fort. Es wird offenbar, daß nicht der Austausch die Wertgröße der Ware, sondern umgekehrt die Wertgröße der Ware ihre Austauschverhältnisse reguliert.

20ヤールのリンネル=1着の上衣なる第一形態に於いては、これらの二商品が一定の分量比例を以って交換され得るようになるのは偶然的の事実であり得る。然るに、第二形態に於いては、偶然的の現象とは本質的に異なり且つそれを決定するところの背景が直ちに認められる。リンネルの価値は、それが上衣、珈琲又は鉄などの、いずれに依って表現されようとも、語を換えて言えば種々様々の所有者の手に属する無数の相異った商品のいずれに依って表現されようとも、その大小には変化がない。斯くして二人の個別的商品所有者間に於ける偶然的の関係は消滅し、交換が商品価値の大小を規制するのではなく、反対に商品価値の大小が商品の交換比例を規制するものであることが明かになる。

2. Die besondre Äquivalentform

(2)特殊の等価形態

Jede Ware, Rock, Tee, Weizen, Eisen usw., gilt im Wertausdruck der Leinwand als Äquivalent und daher als Wertkörper. Die bestimmte Naturalform jeder dieser Waren ist jetzt eine besondre Äquivalentform neben vielen andren. Ebenso gelten die mannigfaltigen in den verschiedenen Warenkörpern enthaltenen bestimmten, konkreten, nützlichen Arbeitsarten jetzt als ebenso viele besondre Verwirklichungs- oder Erscheinungsformen menschlicher Arbeit schlechthin.

上衣、茶、小麦、鉄などの如き各商品は、リンネルの価値表章に於いては等価として、随ってまた価値体として通用する。これら各商品の一定の現物形態は、今やそれぞれ相並んで特殊の等価形態となる。同様に、これら種々なる商品体に含まれている様々の具体的にして有用なる一定の労働種類も又、今や人間労働それ自身の同様に数多き特殊の質規形態として、現象形態として、通用するのである。

3. Mängel der totalen oder entfalteten Wertform

(3)総体的なる、換言すれば拡大されたる、価値形態の欠点

Erstens ist der relative Wertausdruck der Ware unfertig, weil seine Darstellungsreihe nie abschließt. Die Kette, worin eine Wertgleichung sich zur andern fügt, bleibt fortwährend verlängerbar durch jede neu auftretende Warenart, welche das Material eines neuen Wertausdrucks liefert. Zweitens bildet sie eine bunte Mosaik auseinanderfallender und verschiedenartiger Wertausdrücke. Wird endlich, wie dies geschehn muß, der relative Wert jeder Ware in dieser entfalteten Form ausgedrückt, so ist die relative Wertform jeder Ware eine von der relativen Wertform jeder andren Ware verschiedne endlose Reihe von Wertausdrücken. - Die Mängel der entfalteten relativen Wertform spiegeln sich wider in der ihr entsprechenden Äquivalentform. Da die Naturalform jeder einzelnen Warenart hier eine besondre Äquivalentform neben unzähligen andren besondren Äquivalentformen ist, existieren überhaupt nur beschränkte Äquivalentformen, von denen jede die andre ausschließt. Ebenso ist die in jedem besondren Warenäquivalent enthaltene bestimmte, konkrete, nützliche Arbeitsart nur be- <79> sondre, also nicht erschöpfende Erscheinungsform der menschlichen Arbeit. Diese besitzt ihre vollständige oder totale Erscheinungsform zwar in dem Gesamtumkreis jener besondren Erscheinungsformen. Aber so besitzt sie keine einheitliche Erscheinungsform.

先ず、商品の相対的価値表章は未完成のものである。その表現系列は結了することがないからである。各価値方程式を相互に結合する鎖は、新たなる価値表章の材料を供給するところの、新たなる商品種類が現れて来る度毎に、絶えず延長し得るものとなっている。第二に、この鎖は相互に一致することなき、種類の相異った様々の価値表章より成る錯雑な寄木細工を成している。最後に「これは爾かあらねばならぬことであるが]各商品の相対的価値が、この拡大された形態を以って言い現されるとすれば、各商品の相対的価値形態は他の各商品の相対的価値形態とは異った価値表章の限りなき連系となる。拡大されたる相対的価値形態の欠点は、この形態に応せる等価形態の上に反射する。各個の商品種類の現物形態はこの場合、他の無数の特殊等価形態と相並んだ特殊の等価形態であるから、総じてただ相互に除斥し合うところの制限された等価形態のみが存在することになる。同様に、特殊の各商品等価に含まれている一定の具体的な有用な労働種類は、人間労働の特殊な現象形態に過ぎず、随って人間労働の余すところなき現象形態となるものではない。人間労働なるものは、これらの特殊現象形態の中に、その完全なる又は総合的の現象形態を有していることは事実であるが、然し何等の統一的な現象形態をも有しては居らぬのである。

Die entfaltete relative Wertform besteht jedoch nur aus einer Summe einfacher relativer Wertausdrücke oder Gleichungen der ersten Form, wie:

けれども、拡大されたる相対的価値形態は、第一形態に属する左の如き単純なる相対的価値表章又に方程式の総和のみから成るものである。

20 Ellen Leinwand = 1 Rock
20 Ellen Leinwand = 10 Pfd. Tee usw.

Jede dieser Gleichungen enthält aber rückbezüglich auch die identische Gleichung:

1 Rock = 20 Ellen Leinwand
10 Pfd. Tee = 20 Ellen Leinwand usw.

二十ヤールのリンネル = 1着の上衣
二十ヤールのリンネル = 10斤の茶

然るに、これらの方程式の各はまた、これを転換して考えると、次の如き同一なる方程式をも含むことになる。即ち

1着の上衣 = 二十ヤールのリンネル
10斤の茶 = 二十ヤールのリンネル その他

In der Tat: Wenn ein Mann seine Leinwand mit vielen andren Waren austauscht und daher ihren Wert in einer Reihe von andren Waren ausdrückt, so müssen notwendig auch die vielen andren Warenbesitzer ihre Waren mit Leinwand austauschen und daher die Werte ihrer verschiednen Waren in derselben dritten Ware ausdrücken, in Leinwand. - Kehren wir also die Reihe: 20 Ellen Leinwand = 1 Rock oder = 10 Pfd. Tee oder = usw. um, d.h., drücken wir die der Sache nach schon in der Reihe enthaltene Rückbeziehung aus, so erhalten wir:

実際のところ、或一人がそのリンネルを以って他の多くの商品と交換し、斯くしてこのリンネルの価値が他の一列の諸商品に依って言い現されることになると、他の多くの商品所有者も又必然的にその商品を以ってリンネルと交換し、斯くして彼等の種々異った商品の価値は、リンネルという同一なる第三の商品に依って言い現されねばならぬことになる。そこで20ャールのリンネル=1着の上衣又はその他の物という系列を転換し、斯くして本来すでにこの系列の中に含まれている逆行的の関係を言い現すとすれば、その場合には左の如き結果が得られることになる。

C) Allgemeine Wertform

C一般的の価値形態

画像1

画像2

1. Veränderter Charakter der Wertform

(1) 価値形態の変化したる性質

Die Waren stellen ihre Werte jetzt 1. einfach dar, weil in einer einzigen Ware und 2. einheitlich, weil in derselben Ware. Ihre Wertform ist einfach und gemeinschaftlich, daher allgemein.

商品は今や(一)その価値をば単一なる商品に依って表現するが故に単純に表現し、また(二)同一の商品を以って表現するが故に統一的に表現するものであって、商品の価値形態は単純であると同時に、共通的であり、随って一般的のものとなる

<80> Die Formen I und II kamen beide nur dazu, den Wert einer Ware als etwas von ihrem eigne Gebrauchswert oder ihrem Warenkörper Unterschiedenes auszudrücken.

第一及び第二の形態はいずれも、一商品の価値をば、この商品自身の使用価値たる商品体から区別した物として言い現すに過ぎぬ。

Die erste Form ergab Wertgleichungen wie: 1 Rock = 20 Ellen Leinwand, 10 Pfd. Tee = 1/2 Tonne Eisen usw. Der Rockwert wird als Leinwandgleiches, der Teewert als Eisengleiches usw. ausgedrückt, aber Leinwandgleiches und Eisengleiches, diese Wertausdrücke von Rock und Tee, sind ebenso verschieden wie Leinwand und Eisen. Diese Form kommt offenbar praktisch nur vor in den ersten Anfängen, wo Arbeitsprodukte durch zufälligen und gelegentlichen Austausch in Waren verwandelt werden.

第一の形態は、1着の上衣=二十ヤールのリンネル、十斤の茶=二分の一トンの鉄等の如き価値方程式を生ぜしめた。上衣の価値はリンネルに等しき物として、また茶の価値は鉄に等しきものとして言い現される。然し、上衣並びに茶のこれらの価値表章なるリンネルに等しき物と、鉄に等しき物とは、リンネルと鉄とが異なると同様に相異なるものである。斯かる形態は、実際上には労働生産物が偶然的のまた時折り行はれる交換に依って商品に転化される極初期の時代にのみ生ずることは明かな事実である。

Die zweite Form unterscheidet vollständiger als die erste den Wert einer Ware von ihrem eignen Gebrauchswert, denn der Wert des Rocks z.B. tritt jetzt seiner Naturalform in allen möglichen Formen gegenüber, als Leinwandgleiches, Eisengleiches, Teegleiches usw., alles andre, nur nicht Rockgleiches. Andrerseits ist hier jeder gemeinsame Wertausdruck der Waren direkt ausgeschlossen, denn im Wertausdruck je einer Ware erscheinen jetzt alle andren Waren nur in der Form von Äquivalenten. Die entfaltete Wertform kommt zuerst tatsächlich vor, sobald ein Arbeitsprodukt, Vieh z.B., nicht mehr ausnahmsweise, sondern schon gewohnheitsmäßig mit verschiednen andren Waren ausgetauscht wird.

第二の形態は、第一の形態よりも完全に、一商品の価値をばそれ自身の使用価値から区別する。蓋し上衣を例に採るならば、その価値は今や一切の可能なる形態を以って、リンネルに等しき物、鉄に等しき物、茶に等しき物として、即ち上衣以外の凡ゆる物として、自己の現物形態に対立するからである。他方にまた、諸商品の共通した各価値表章はこの場合、直接に排除されることとなる。今や、それぞれの商品の価値表章に於いて、他の一切の商品は、等価なる形態を以ってのみ現れることになるからである。拡大されたる価値形態は、一の労働生産物なる例えば家畜の如きものが、もはや例外的にでなく、寧ろ習慣的に、他の種々なる商品と交換されるようになるとき、事実上初めて出現し来たるものである。

Die neugewonnene Form drückt die Werte der Warenwelt in einer und derselben von ihr abgesonderten Warenart aus, z.B. in Leinwand, und stellt so die Werte aller Waren dar durch ihre Gleichheit mit Leinwand. Als Leinwandgleiches ist der Wert jetzt nicht nur von ihrem eignen Gebrauchswert unterschieden, sondern von allem Gebrauchswert, und ebendadurch als das ihr mit allen Waren Gemeinsame ausgedrückt. Erst diese Form bezieht daher wirklich die Waren aufeinander als Werte oder läßt sie einander als Tauschwerte erscheinen.

この新たに得られた形態に依って、商品界の諸価値は、商品界から切り離された共通の同一商品種類なる例えばリンネルを以って言い現され、斯くして凡ゆる商品の価値は、これらの物がリンネルに等しいという事実に依って表現されることになる。各商品の価値は、今やリンネルに等しき物として単に自分自身の使用価値から区別されるのみではなく、また他の凡ゆる使用価値からも区別される。而して正にこの事実に依り、各商品の価値は、一切の商品との間に共通せるものとして言い現されることになる。即ちこの形態に依って、初めて諸商品は現実的に価値として相互関係せしめられ、相互に交換価値として現れ得るようになるのである。

Die beiden früheren Formen drücken den Wert je einer Ware, sei es in einer einzigen verschiedenartigen Ware, sei es in einer Reihe vieler von ihr verschiednen Waren aus. Beidemal ist es sozusagen das Privatgeschäft der einzelnen Ware, sich eine Wertform zu geben, und sie vollbringt es ohne Zutun der andren Waren. Diese spielen ihr gegenüber die bloß passive Rolle des Äquivalents. Die allgemeine Wertform entsteht dagegen nur als gemeinsames Werk der Warenwelt. Eine Ware gewinnt nur allgemeinen Wertausdruck, weil gleichzeitig alle andren Waren ihren Wert in demselben Äquivalent ausdrücken, und jede neu auftretende Warenart muß das nachmachen. Es kommt damit zum Vorschein, daß die Wertgegenständlichkeit der Waren, weil sie das bloß "gesellschaftliche Dasein" dieser Dinge ist, <81> auch nur durch ihre allseitige gesellschaftliche Beziehung ausgedrückt werden kann, ihre Wertform daher gesellschaftlich gültige Form sein muß.

さきの両形態は、各商品の価値をば、種類の異った単一の商品なり、又は斯くの如き一列の多数商品なりのいずれかに依って言い現すものであって、これらのいずれの場合に於いても、個々の商品が価値形態を採るのは、いわば個々の商品の私事であって、他の商品よりの助力なくして遂行し得るところのものである。他の商品は寧ろ前者に対し、等価としての単なる被動的な役目を演じるに過ぎぬ。反対に、一般的の価値形態は、商品界の共同事業としてのみ生ずるものであって、一の商品は他の凡ゆる商品が同時に同一の等価を以ってその価値を言い現し、而して新たに出現する商品種類はいずれもそれを模倣せねばならぬという理由に依ってのみ、一般的の価値表章を受けるのである。これに依って次の事実が明らかになってくる。即ち商品の価値対象性なるものは、商品の単なる『社会的存在』に過ぎぬものであるから、商品の全般的な社会的関係に依ってのみ言い現され得るものであり、随って商品の価値形態なるものは社会的に有数の形態でなければならぬことになるのである。

In der Form von Leinwandgleichen erscheinen jetzt alle Waren nicht nur als qualitativ Gleiche, Werte überhaupt, sondern zugleich als quantitativ vergleichbare Wertgrößen. Weil sie ihre Wertgrößen in einem und demselben Material, in Leinwand bespiegeln, spiegeln sich diese Wertgrößen wechselseitig wider. Z.B. 10 Pfd. Tee = 20 Ellen Leinwand, und 40 Pfd. Kaffee = 20 Ellen Leinwand. Also 10 Pfd. Tee = 40 Pfd. Kaffee. Oder in 1 Pfd. Kaffee steckt nur 1/4 soviel Wertsubstanz, Arbeit, als in 1 Pfd. Tee.

今や一切の商品はリンネルに等しき物となるのであるが、この形態を以って単に質的の等一物として、価値一般として、現れるのみでなく、同時にまた量的に比較し得る価値量としても現れる。一切の商品は同一の材料なるリンネルの上にそれぞれの価値量を反射するが故に、これらの価値量はまた交互に反射し合うこととなるのである。例えば十斤の茶=二十ヤールのリンネルであり、四十斤の珈琲=二十ヤールのリンネルであるとすれば、十斤の茶=四十斤の珈琲となる。換言すれば、珈琲一斤は茶一斤に比し、価値実態なる労働を四分の一しか含まぬことになるのである。

Die allgemeine relative Wertform der Warenwelt drückt der von ihr ausgeschlossenen Äquivalentware, der Leinwand, den Charakter des allgemeinen Äquivalents auf. Ihre eigne Naturalform ist die gemeinsame Wertgestalt dieser Welt, die Leinwand daher mit allen andren Waren unmittelbar austauschbar. Ihre Körperform gilt als die sichtbare Inkarnation, die allgemeine gesellschaftliche Verpuppung aller menschlichen Arbeit. Die Weberei, die Privatarbeit, welche Leinwand produziert, befindet sich zugleich in allgemein gesellschaftlicher Form, der Form der Gleichheit mit allen andren Arbeiten. Die zahllosen Gleichungen, woraus die allgemeine Wertform besteht, setzen der Reihe nach die in der Leinwand verwirklichte Arbeit jeder in andrer Ware enthaltenen Arbeit gleich und machen dadurch die Weberei zur allgemeinen Erscheinungsform menschlicher Arbeit überhaupt. So ist die im Warenwert vergegenständlichte Arbeit nicht nur negativ dargestellt als Arbeit, worin von allen konkreten Formen und nützlichen Eigenschaften der wirklichen Arbeiten abstrahiert wird. Ihre eigne positive Natur tritt ausdrücklich hervor. Sie ist die Reduktion aller wirkliche Arbeiten auf den ihnen gemeinsamen Charakter menschlicher Arbeit, auf die Verausgabung menschlicher Arbeitskraft.

商品界の一般的なる相対的価値形態は、商品界から排除された等価商品なるリンネルの上に、一般的等価の性質を印刻する。リンネル自身の現物形態は商品界共通の価値姿容であり、随ってリンネルは他の凡ゆる商品と直接に交換し得るものとなるのである。リンネルの物体的形態は、一切の人間労働の目に見える体化として、その一般的なる社会的蛹化として通用する。リンネルを生産するところの私的労働なる機織は、同時にまた一般社会的なる形態、即ち他の凡ゆる労働と等一なる形のもとに存在している。一般的価値形態を構成する無数の方程式は、リンネルに実現されている労働をば順を追って他の商品に含まれている各労働と等位に置き、斯くすることに依って機織を人間労働一般の普遍的現象形態たらしめる。斯くして、商品価値に対象化されている労働は、単に消極的の意味で、現実的労働の一切の具体的形態並びに有用性質から抽象された労働として表現されるというのみではない。その積極的性質も又、明かに現れて来るのである。商品価値に対象化されている労働は、現実的の凡ゆる労働をば人間労働という共通の性質に、人間労働力の支出に、約元したものとなるのである。

Die allgemeine Wertform, welche die Arbeitsprodukte als bloße Gallerten unterschiedsloser menschlicher Arbeit darstellt, zeigt durch ihr eignes Gerüste, daß sie der gesellschaftliche Ausdruck der Warenwelt ist. So offenbart sie, daß innerhalb dieser Welt der allgemein menschliche Charakter der Arbeit ihren spezifisch gesellschaftlichen Charakter bildet.

各種の労働生産物をば区別なき人間労働の単なる凝結として表現せしめる一般的価値形態は、それが商品界の社会的表章であることを自身の構造に依って示すもので、商品界の内部に於いては、労働の一般人間的なる性質が労働の特殊社会的なる性質を構成するものであることは、この一般的価値形態に依って明かにされるところである。

2. Entwicklungsverhältnis von relativer Wertform und Äquivalentform

(2)相対的価値形態と等価形態との発展関係

Dem Entwicklungsgrad der relativen Wertform entspricht der Entwicklungsgrad der Äquivalentform. Aber, und dies ist wohl zu merken, die Entwicklung der Äquivalentform ist nur Ausdruck und Resultat der Entwicklung der relativen Wertform.

相対的価値形態の発展程度には、等価形態の発展程度が照応するものである。然しここによく注意すべきことは、等価形態の発展なるものは、相対的価値形態の発展の表章及び結果に過ぎぬという一事である。

<82> Die einfache oder vereinzelte relative Wertform einer Ware macht eine andre Ware zum einzelnen Äquivalent. Die entfaltete Form des relativen Werts, dieser Ausdruck des Werts einer Ware in allen andren Waren, prägt ihnen die Form verschiedenartiger besonderer Äquivalente auf. Endlich erhält eine besondre Warenart die allgemeine Äquivalentform, weil alle andren Waren sie zum Material ihrer einheitlichen, allgemeinen Wertform machen.

一商品の単純又は個別的なる相対的価値形態は、他の一商品をば個別的の等価たらしめる。次に、一商品の価値をば他の凡ゆる商品に依って言い現すところの拡大されたる相対的価値形態は、これらの商品の各に種々異った特殊等価という形態を印刻する。最後にまた、特殊の一商品種類は、他の凡ゆる商品に依ってその統一的な一般的な価値形態の材料たらしめられるが故に、一般的の等価形態を受けるのである。

In demselben Grad aber, worin sich die Wertform überhaupt entwickelt, entwickelt sich auch der Gegensatz zwischen ihren beiden Polen, der relativen Wertform und Äquivalentform.

が、価値形態一般の発展と同一の程度を以って、その両極なる相対的価値形態と等価形態との対立も又発展することになるのである。

Schon die erste Form - 20 Ellen Leinwand = 1 Rock - enthält diesen Gegensatz, fixiert ihn aber nicht. Je nachdem dieselbe Gleichung vorwärts oder rückwärts gelesen wird, befindet sich jedes der beiden Warenextreme, wie Leinwand und Rock, gleichmäßig bald in der relativen Wertform, bald in der Äquivalentform. Es kostet hier noch Mühe, den polarischen Gegensatz festzuhalten.

第一の形態(二十ヤールのリンネル=1着の上衣)も既に、この対立を含んではいるが、それを確立する迄には至って居らない。同一の方程式を進行的に読むか、又は逆行的に読むかに従って、リンネルと上衣の如き商品両極の各は、交互同等に相対的価値形態たる位置を採ったり、等価形態たる位置を採ったりする。斯かる両極的対立を確認するは、この第一形態に於いては尚努力を要することである。

In den Form II kann immer nur je eine Warenart ihren relativen Wert total entfalten oder besitzt sie selbst nur entfaltete relative Wertform, weil und sofern alle andren Waren sich ihr gegenüber in der Äquivalentform befinden. Hier kann man nicht mehr die zwei Seiten der Wertgleichung - wie 20 Ellen Leinwand = 1 Rock oder = 10 Pfd. Tee oder = 1 Qrtr. Weizen etc. - umsetzen, ohne ihren Gesamtcharakter zu verändern und sie aus der totalen in die allgemeine Wertform zu verwandeln.

次に第二の形態に在っては、つねに単一なる商品種類がその相対的価値を完全に拡大し得るものであり、語を換えていえば拡大された相対的価値形態を有するものであるが、それは他の一切の商品がこの単一商品に対して等価形態の位置にあるが故にのみ、又その限りに於いてのみ行はれ得ることである。この場合20ヤールのリンネル=1着の上衣又は=十斤の茶又は一クォーターの小麦等の如き価値方程式の両辺は、斯かる方程式の全性質を変更して、これを総体的価値形態から一般的価値形態に転化せしむることなくしては、もはや転倒し得るものでない。

Die letztere Form, Form III, endlich gibt der Warenwelt allgemeingesellschaftliche relative Wertform, weil und sofern, mit einer einzigen Ausnahme, alle ihr angehörigen Waren von der allgemeinen Äquivalentform ausgeschlossen sind. Eine Ware, die Leinwand, befindet sich daher in der Form unmittelbarer Austauschbarkeit mit allen andren Waren oder in unmittelbar gesellschaftlicher Form, weil und sofern alle andren Waren sich nicht darin befinden.(24)

最後に第三の形態は、ただ一つのものを除くほか、商品界に属する一切の商品が一般的の等価形態から排除されている故に、またその限りに於いてのみ、商品界に一般社会的なる相対的価値形態を付与するものである。即ち一の商品リンネルは、他の凡ゆる商品と直接に交換し得る形態、換言すれば直接社会的なる形態を採ることになるのであるが、それは他の凡ゆる商品が斯かる形態から排除されている故に、またその限りに於いてのみ、行われることなのである(二十四)。

*(二十四)一般的なる直接の交換可能という形態は、あたかも陽磁極が陰磁極から分離し得ざるものである如く、直接には交換し得ないという形態からは分離することの出来ぬ対立的の商品形態であるが、この事実は決して、右の一般的なる交換可能という形態から看取し得るものでない。そこで如何なるカトリック教徒をもローマ法王たらしめ得ると考えられるかも知れぬのと同様に、一切の商品は時を等しくして、斯かる直接交換可能の形態を刻印され得ると考へられるようになるかも知れない。商品生産の中に人間的自由と個人的対立との絶頂を認める小ブルジョアから見れば、この形態に伴う諸種の欠点から、なかんずく直接には交換し得ないという欠点から免れることは、固より極めて望ましいことであろう。而してこの素町人的なる空想を描き上げたものは、実にプルドーンの社会主義である。蓋し彼の社会主義は、私が他の処でも指摘した如く決して独創の功績を有するものではなく、寧ろ彼よりも久しき以前グレー、ブレーその他の学者に依って遥によく展開されたものである。それにも拘わらず、斯種の智慧は、今日尚『科学』という名義を以って或方面に繁栄しているのである。プルドーン一派ほど『科学』という言葉を玩んだものはない。蓋し『概念を欠く処、そこには丁度言語が現れて来る』からである。

<83> Umgekehrt ist die Ware, die als allgemeines Äquivalent figuriert, von der einheitlichen und daher allgemeinen relativen Wertform der Warenwelt ausgeschlossen. Sollte die Leinwand, d.h. irgendeine in allgemeiner Äquivalentform befindliche Ware, auch zugleich an der allgemeinen relativen Wertform teilnehmen, so müßte sie sich selbst zum Äquivalent dienen. Wir erhielten dann: 20 Ellen Leinwand = 20 Ellen Leinwand, eine Tautologie, worin weder Wert noch Wertgröße ausgedrückt ist. Um den relativen Wert des allgemeinen Äquivalents auszudrücken, müssen wir vielmehr die Form III umkehren. Es besitzt keine mit den andren Waren gemeinschaftliche relative Wertform, sondern sein Wert drückt sich relativ aus in der endlosen Reihe aller andren Warenkörper. So erscheint jetzt die entfaltete relative Wertform oder Form II als die spezifische relative Wertform der Äquivalentware.

反対に、一般的等価として作用する商品は、商品界の統一的随ってまた一般的なる相対的価値形態から排除されている。若しリンネルが、換言すれば一般的価値形態の位置にある何等かの一商品が、同時にまた一般的なる相対的価値形態にも与るとすれば、この商品は自分自身の等価として役立たねばならなくなり、斯くして二十ヤールのリンネル=二十ヤールのリンネルという、価値も価値量も言い現すことなき同義反覆が生ずることになるであろう。そこで、一般的等価の相対的価値を言い現すためには、寧ろ第三の形態を転倒せねばならぬことになる。この等価は、他の諸商品との間に共通せる何等の相対的価値形態をも有せず、その価値は他の凡ゆる商品体の限りなき系列に依って相対的に言い現される。斯くして今や、拡大されたる相対的価値形態たる上記第二の形態は、等価商品の特殊の相対的価値形態として現れることになる。

3. Übergang aus der allgemeinen Wertform zur Geldform

(3)一般的価値形態から貨幣形態への推移

Die allgemeine Äquivalentform ist eine Form des Werts überhaupt. Sie kann also jeder Ware zukommen. Andrerseits befindet sich eine Ware nur in allgemeiner Äquivalentform (Form III), weil und sofern sie durch alle andren Waren als Äquivalent ausgeschlossen wird. Und erst vom Augenblick, wo diese Ausschließung sich endgültig auf eine spezifische Warenart beschränkt, hat die einheitliche relative Wertform der Warenwelt objektive Festigkeit und allgemein gesellschaftliche Gültigkeit gewonnen.

一般的等価形態なるものは、価値全般の一形態である。随ってそれは、如何なる商品にも与えられることができる。他方にまた、一の商品は他の一切の商品から等価として排除される故に、またその限りに於いてのみ、一般的の等価形態(第三の形態)という位置を採るのであって、この排除が終局的に特殊の一商品種類に限られた瞬間から、商品界の統一的なる相対的価値形態は、ここに初めて客観的の固定性と一般社会的なる通用力とを得ることになるのである。

Die spezifische Warenart nun, mit deren Naturalform die Äquivalentform gesellschaftlich verwächst, wird zur Geldware oder funktioniert als Geld. Es wird ihre spezifisch gesellschaftliche Funktion, und daher ihr gesellschaftliches Monopol, innerhalb der Warenwelt die Rolle des allgemeinen Äquivalents zu spielen. Diesen bevorzugten Platz hat unter den <84> Waren, welche in Form II als besondre Äquivalente der Leinwand figurieren und in Form III ihren relativen Wert gemeinsam in Leinwand ausdrücken eine bestimmte Ware historisch erobert, das Gold. Setzen wir daher in Form III die Ware Gold an die Stelle der Ware Leinwand, so erhalten wir:

現物形態の上に等価形態が社会的に合成せしめられる特殊の商品種類は、今や貨幣商品となる。換言すれば、それは貨幣として作用することになるのである。商品界の内部に於いて、一般的等価たる役目を演ずることは、斯かる商品種類の特殊の社会的機能となり、随ってまたその社会的独占となるものであって、上記第二の形態の下にリンネルの特殊の等価として作用し、また第三の形態の下に自己の相対的価値をば、共通的にリンネルに依って言い現した諸商品中の一定の商品金こそ、歴史的にこの優先地位を占めるものである。そこで今、第三の形態に於ける商品リンネルの位置に商品金を置くとすれば、次の結果が得られることになる。

D) Geldform

D貨幣形態

画像3

画像4

Es finden wesentliche Veränderungen statt beim Übergang von Form I zu Form II, von Form II zu Form III. Dagegen unterscheidet Form IV sich durch nichts von Form III, außer daß jetzt statt Leinwand Gold die allgemeine Äquivalentform besitzt. Gold bleibt in Form IV, was die Leinwand in Form III war - allgemeines Äquivalent. Der Fortschritt besteht nur darin , daß die Form unmittelbarer allgemeiner Austauschbarkeit oder die allgemeine Äquivalentform jetzt durch gesellschaftliche Gewohnheit endgültig mit der spezifischen Naturalform der Ware Gold verwachsen ist.

第一の形態から第二の形態へ、更らに第二の形態から第三の形態への推転に当たって、本質的の変化が行われる。然るに第四の形態は、リンネルの代りに今や金が一般的の等価形態を採るという一点を除けば、第三の形態と何等異なるところがない。第四の形態に於ける金は、第三の形態に於けるリンネルと同一のものに止っている。即ちそれは一般的の等価となるのである。ただ直接にして一般的の交換可能なる形態、換言すれば一般的の等価形態は、今や社会的習慣に依って終局的に金なる商品の特殊の現物形態と合成せしめられる様になるという一点に、進歩が存するのみである。

Gold tritt den andren Waren nur als Geld gegenüber, weil es ihnen bereits zuvor als Ware gegenüberstand. Gleich allen andren Waren funktionierte es auch als Äquivalent, sei es als einzelnes Äquivalent in vereinzelten Austauschakten, sei es als besondres Äquivalent neben andren Warenäquivalenten. Nach und nach funktionierte es in engeren oder weiteren Kreisen als allgemeines Äquivalent. Sobald es das Monopol dieser Stelle im Wertausdruck der Warenwelt erobert hat, wird es Geldware, und erst von dem Augenblick, wo es bereits Geldware geworden ist, unterscheidet sich Form IV von Form III, oder ist die allgemeine Wertform verwandelt in die Geldform.

金は予めすでに商品として他の諸商品に対立していたればこそ、今やまた貨幣としてそれに対立するのである。金も又、他の凡ゆる商品と同様に等価として、個別的交換行為に於ける単一の等価としてにしろ、又は他の商品価値と相並んだ特殊の等価としてにしろ、作用していたもので、それが次第に大なり小なりの領域内に於いて一般的等価たる機能を尽くすようになったのである。金は商品界の価値表章の上にこの地位を独占するや否や貨幣商品となるのであって、それが貨幣商品となった瞬間に初めて第四の形態は第三の形態から区別され、斯くして一般的の価値形態は貨幣形態に転化されることとなる。

Die einfache relative Wertausdruck einer Ware, z.B. der Leinwand, in der bereits als Geldware funktionierenden Ware, z.B. dem Gold, ist Preisform. Die "Preisform" der Leinwand daher:

すでに貨幣商品として作用していた例えば金の如き商品を以ってするところの、例えばリンネルの如き一商品の単純なる相対的価値表章は即ち価格形態たるものであって、リンネルの価格形態は次の如くになる。

20 Ellen Leinwand = 2 Unzen Gold

oder, wenn 2 Pfd.St. der Münzname von 2 Unzen Gold,

20 Ellen Leinwand = 2 Pfd.St.

二十ヤールのリンネル=2オンスの金

或はまた、2ポンドが金二オンスの鋳貨名であるとすれば、

二十ヤールのリンネル=2ポンド となる。

<85> Die Schwierigkeit im Begriff der Geldform beschränkt sich auf das Begreifen der allgemeinen Äquivalentform, also der allgemeinen Wertform überhaupt, der Form III. Form III löst sich rückbezüglich auf in Form II, die entfaltete Wertform, und ihr konstituierendes Element ist Form I: 20 Ellen Leinwand = 1 Rock oder x Ware A = y Ware B. Die einfache Warenform ist daher der Keim der Geldform.

貨幣形態の概念に於ける困難な点は、一般的の等価形態を、随ってまた一般的の価値形態全般を、換言すれば上記第三の形態を理解することに限られている。第三の形態は、再帰的に第二の形態なる拡大された価値形態に分解されるものであって、その組成要素たるものは、即ち二十ヤールのリンネル=1着の上着又はX量のA商品=Y量のB商品という上記第一の形態である。斯くして単純なる商品形態は、貨幣形態の胚種となるのである。

4. Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis

第四節 商品の魔術性及びその秘密

Eine Ware scheint auf den ersten Blick ein selbstverständliches, triviales Ding. Ihre Analyse ergibt, daß sie ein sehr vertracktes Ding ist, voll metaphysischer Spitzfindigkeit und theologischer Mucken. Soweit sie Gebrauchswert, ist nichts Mysteriöses an ihr, ob ich sie nun unter dem Gesichtspunkt betrachte, daß sie durch ihre Eigenschaften menschliche Bedürfnisse befriedigt oder diese Eigenschaften erst als Produkt menschlicher Arbeit erhält. Es ist sinnenklar, daß der Mensch durch seine Tätigkeit die Formen der Naturstoffe in einer ihm nützliche Weise verändert. Die Form des Holzes z.B. wird verändert, wenn man aus ihm einen Tisch macht. Nichtsdestoweniger bleibt der Tisch Holz, ein ordinäres sinnliches Ding. Aber sobald er als Ware auftritt, verwandelt er sich in ein sinnlich übersinnliches Ding. Er steht nicht nur mit seinen Füßen auf dem Boden, sondern er stellt sich allen andren Waren gegenüber auf den Kopf und entwickelt aus seinem Holzkopf Grillen, viel wunderlicher, als wenn er aus freien Stücken zu tanzen begänne.(25)

商品は一見、自明的な、たわいない物のように考えられる。然るにそれを分析して見ると、形而上学的小理屈と神学的の気紛れとに充ちた至って奇怪な物であることが知られる。商品は使用価値である限り、その諸性質に依って人類の欲望を充たすという見地から観察しても、又は人間労働の生産物たる資格に於いて初めてこれらの性質を受けるという見地から観察してもいづれにしても、何等神秘的な点を有して居らぬ。人類はその活動に依って、自然素材の諸形態をば目己に有用となるように変更するものであって、これは感性的に明瞭な事実である。例えば木材の形態は、それで卓子を造る時に変更される。それにも拘らず、卓子は木材という平常の有形物であることに変わりはない。然るにそれは、商品として現れるや否や、有形的たると同時にまた超有形的なる一の物となる。それは今や、足で床の上に立つのみでなく、また他の一切の商品に対して逆立ちすることにもなり、自発的に踊り出す場合(二十五)に比し、遥かに不可思議な幻想をその木頭の中から展出する。

*(二十五)他のすべての世界が静かに休止しているように見えるとき、陶器と卓子とが、他のものを鼓舞せんがため踊り出したという話を、我々は想起する。

Der mystische Charakter der Ware entspringt also nicht aus ihrem Gebrauchswert. Er entspringt ebensowenig aus dem Inhalt der Wertbestimmungen. Denn erstens, wie verschieden die nützlichen Arbeiten oder produktiven Tätigkeiten sein mögen, es ist eine physiologische Wahrheit, daß sie Funktionen des menschlichen Organismus sind und daß jede solche Funktion, welches immer ihr Inhalt und ihre Form, wesentlich Verausgabung von menschlichem Hirn, Nerv, Muskel, Sinnesorgan usw. ist. Was zweitens der Bestimmung der Wertgröße zugrunde liegt, die Zeitdauer jener Verausgabung oder die Quantität der Arbeit, so ist die Quantität sogar sinnfällig von der Qualität der Arbeit unterscheidbar. In allen Zuständen mußte die Arbeitszeit, welche die Produktion der Lebensmittel kostet, den Men- <86> schen interessieren, obgleich nicht gleichmäßig auf verschiedenen Entwicklungsstufen.(26) Endlich, sobald die Menschen in irgendeiner Weise füreinander arbeiten, erhält ihre Arbeit auch eine gesellschaftliche Form.

要するに、商品の神秘的なる性質は、その使用価値から生ずるものでなく、また価値決定の内容から生ずるものでもない。蓋し第一に、諸種の有用労働又は生産的活動は、如何に相異ったものであろうとも、それが人間の身体組織の機能であり、而して斯かる機能はその内容及び形態の如何を問はず、いずれも本質に於いては人間の脳髄や、神経や、筋肉や、感官などの支出であることは、生理学上の真理である。第二にまた、価値大小の決定の基礎たるべき斯かる支出の時間的継続即ち労働の量についていえば、労働の量なるものは感性的にその質から区別し得る。生活資料の生産に必要な労働時間なるものは、社会の発展段階の如何に従って一様にそうではなかったにしろ、とにかく如何なる状態の下に於いても、人類の利害に関係せねばならなかった(二十六)。最後にまた、人類が何等かの様式を以って相互のために労働するとき、人類の労働は社会的の形態を与えられることになるのである。

*(二十六)第二版誌、古代ドイツ人の間では、1モルゲンの土地の大小は一日の労働に従って計算された。斯くてモルゲンはターグ・ヴェルク(又はターグ・ヴァンネ)、マン・ヴェルク、マンス・クラフト、マンス・マード、マンス・ハウエットなどと言われた。ゲオルグ・ルドウィヒ・フォン・マウラー著『マルク制度、荘園制度史概論』(ミュンヘン、一八五九年刊、第一二九頁以下)を見よ。

Woher entspringt also der rätselhafte Charakter des Arbeitsprodukts, sobald es Warenform annimmt? Offenbar aus dieser Form selbst. Die Gleichheit der menschlichen Arbeiten erhält die sachliche Form der gleichen Wertgegenständlichkeit der Arbeitsprodukte, das Maß der Verausgabung menschlicher Arbeitskraft durch ihre Zeitdauer erhält die Form der Wertgröße der Arbeitsprodukte, endlich die Verhältnisse der Produzenten, worin jene gesellschaftlichen Bestimmungen ihrer Arbeiten betätigt werden, erhalten die Form eines gesellschaftlichen Verhältnisses der Arbeitsprodukte.

然らば、労働生産物が商品形態を探るや否や生ずるところの的性質は、何処から生ずるか?明かに商品形態それ自身から生ずるのである。諸種の人間労働が等一であるという事実は、労働諸生産物の等一なる価値対象性という物的形態を受け、人間労働力の支出が時間的継続を以って秤量されるという事実は、労働諸生産物の価値大小という形態を受け、而して最後に、労働の社会的性質を確立せしめる生産者間の関係は、労働諸生産物間の社会的関係という形態を受ける。

Das Geheimnisvolle der Warenform besteht also einfach darin, daß sie den Menschen die gesellschaftlichen Charaktere ihrer eignen Arbeit als gegenständliche Charaktere der Arbeitsprodukte selbst, als gesellschaftliche Natureigenschaften dieser Dinge zurückspiegelt, daher auch das gesellschaftliche Verhältnis der Produzenten zur Gesamtarbeit als ein außer ihnen existierendes gesellschaftliches Verhältnis von Gegenständen. Durch dies Quidproquo werden die Arbeitsprodukte Waren, sinnlich übersinnliche oder gesellschaftliche Dinge. So stellt sich der Lichteindruck eines Dings auf den Sehnerv nicht als subjektiver Reiz des Sehnervs selbst, sondern als gegenständliche Form eines Dings außerhalb des Auges dar. Aber beim Sehen wird wirklich Licht von einem Ding, dem äußeren Gegenstand, auf ein andres Ding, das Auge, geworfen. Es ist ein physisches Verhältnis zwischen physischen Dingen. Dagegen hat die Warenform und das Wertverhältnis der Arbeitsprodukte, worin sie sich darstellt, mit ihrer physischen Natur und den daraus entspringenden dinglichen Beziehungen absolut nichts zu schaffen. Es ist nur das bestimmte gesellschaftliche Verhältnis der Menschen selbst, welches hier für sie die phantasmagorische Form eines Verhältnisses von Dingen annimmt. Um daher eine Analogie zu finden, müssen wir in die Nebelregion der religiösen Welt flüchten. Hier scheinen die Produkte des menschlichen Kopfes mit eignem Leben begabte, untereinander und mit den Menschen in Verhältnis stehende selbständige Gestalten. So in der Warenwelt die Produkte der menschlichen Hand. Dies <87> nenne ich den Fetischismus, der den Arbeitsprodukten anklebt, sobald sie als Waren produziert werden, und der daher von der Warenproduktion unzertrennlich ist.

斯くして商品形態を秘密に充ちたものとする原因は、要するに左の事実に存することとなるのである。即ち商品形態なるものは、人間労働の社会的性質をば、労働生産物の対象的性質として、労働生産物の社会的なる自然性質として見えしめ、斯くしてまた総労働に対する生産者の社会的関係をば、生産者の外部に存在する各対象間の社会的関係として見えしめるということがそれである。斯かる物対物に依り、労働生産物は商品という有形的にして且つ超有形的なる物、換言すれば社会的の物となるのであって、これあたかも物が視神系に与える光の印象が、視神系それ自身の主観的刺激としてではなく、寧ろ眼の外部に在る物の対象的形態として表現される如くである。ただ、物を視る場合には、現実に於いて外的の対象なる一の物から、目という一の物に光が投ぜられるのであって、物理的の二物間に於ける物理的の一関係が成立するに過ぎぬのであるが、商品形態並びにそれを表現しているところの、労働諸生産物間の価値関係はこれに反して、労働諸生産物の物理的性質及びそれに起因する物的諸関係とは何等関係するところなきものである。商品なる形態の下に、物と物との関係の幻的形態を採って人類の目に映するものは、人類目身の一定の社会的関係に外ならぬ。そこでこれに類似した現象を見出すためには、宗教の夢幻境に助を求めねばならなくなる。この境地に於いては、人類の頭脳の諸産物は、相互に関係し且つ人類とも関係しているところの、それ自身の生命を付与された独立した存在物であるように見える。商品界に於ける人類の手で造られた諸産物についても同様である。私はこれを、労働生産物が商品として造られるや否やそれに固着し、随ってまた商品生産から不可分のものとなっているところの魔術性と名づける。

Dieser Fetischcharakter der Warenwelt entspringt, wie die vorhergehende Analyse bereits gezeigt hat, aus dem eigentümlichen gesellschaftlichen Charakter der Arbeit, welche Waren produziert.

商品界のこの魔的性質は、前述の分析に依っても知られる通り、商品を生産する労働独特の社会的性質に起因するものである。

Gebrauchsgegenstände werden überhaupt nur Waren, weil sie Produkte voneinander unabhängig betriebner Privatarbeiten sind. Der Komplex dieser Privatarbeiten bildet die gesellschaftliche Gesamtarbeit. Da die Produzenten erst in gesellschaftlichen Kontakt treten durch den Austausch ihrer Arbeitsprodukte, erscheinen auch die spezifisch gesellschaftlichen Charaktere ihrer Privatarbeiten erst innerhalb dieses Austausches. Oder die Privatarbeiten betätigen sich in der Tat erst als Glieder der gesellschaftlichen Gesamtarbeit durch die Beziehungen, worin der Austausch die Arbeitsprodukte und vermittelst derselben die Produzenten versetzt. Den letzteren erscheinen daher die gesellschaftlichen Beziehungen ihrer Privatarbeiten als das, was sie sind, d.h. nicht als unmittelbar gesellschaftliche Verhältnisse der Personen in ihren Arbeiten selbst, sondern vielmehr als sachliche Verhältnisse der Personen und gesellschaftliche Verhältnisse der Sachen.

使用対象なるものは、総じてそれが相互に独立して経営される私的労働の生産物なるが故にのみ商品となるのであって、これらの私的労働の複合せるものは即ち社会的の総労働となるのである。生産者はその労働生産物の交換に依って初めて相互社会的に接触するのであるから、生産者の私的労働の特殊社会的なる性質も又、この交換の内部にのみ現れるものとなる。換言すれば、諸種の私的労働は、交換が労働生産物間に、また労働生産物を通して生産者の間に設ける関係に依り初めて、実際のところ社会的総労働の肢体たる実を示すのである。そこで生産者 見れば、その私的労働の社会的関係は、在るがままのものとして現れる。換言すれば、労働上に於ける人と人との 直接の社会的関係としてでなく、寧ろ人と人との物的関係及び物と物との社会的関係として現れることになるので ある。

Erst innerhalb ihres Austauschs erhalten die Arbeitsprodukte eine von ihrer sinnlich verschiednen Gebrauchsgegenständlichkeit getrennte, gesellschaftlich gleiche Wertgegenständlichkeit. Diese Spaltung des Arbeitsprodukts in nützliches Ding und Wertding betätigt sich nur praktisch, sobald der Austausch bereits hinreichende Ausdehnung und Wichtigkeit gewonnen hat, damit nützliche Dinge für den Austausch produziert werden, der Wertcharakter der Sachen also schon bei ihrer Produktion selbst in Betracht kommt. Von diesem Augenblick erhalten die Privatarbeiten der Produzenten tatsächlich einen doppelten gesellschaftlichen Charakter. Sie müssen einerseits als bestimmte nützliche Arbeiten ein bestimmtes gesellschaftliches Bedürfnis befriedigen und sich so als Glieder der Gesamtarbeit, des naturwüchsigen Systems der gesellschaftlichen Teilung der Arbeit, bewähren. Sie befriedigen andrerseits nur die mannigfache Bedürfnisse ihrer eignen Produzenten, sofern jede besondre nützliche Privatarbeit mit jeder andren nützlichen Art Privatarbeit austauschbar ist, also ihr gleichgilt. Die Gleichheit toto coelo <völlig> verschiedner Arbeiten kann nur in einer Abstraktion von ihrer wirklichen Ungleichheit bestehn, in der Reduktion auf den <88> gemeinsamen Charakter, den sie als Verausgabung menschlicher Arbeitskraft, abstrakt menschliche Arbeit, besitzen. Das Gehirn der Privatproduzenten spiegelt diesen doppelten gesellschaftlichen Charakter ihrer Privatarbeiten nur wider in den Formen, welche im praktischen Verkehr, im Produktenaustausch erscheinen - den gesellschaftlich nützlichen Charakter ihrer Privatarbeiten also in der Form, daß das Arbeitsprodukt nützlich sein muß, und zwar für andre - den gesellschaftlichen Charakter der Gleichheit der verschiedenartigen Arbeiten in der Form des gemeinsamen Wertcharakters dieser materiell verschiednen Dinge, der Arbeitsprodukte.

労働生産物なるものは、その交換の内部に於いて初めて感性的に相異なれる使用対象性から分離された社会的に 等一なる価値対象性を与えられる。有用物と価値物とへの、労働生産物の斯かる分割は、交換が既に十分の延長と 重要さとを与えられ、有用物が交換を目的として生産され、物の価値性質が物を生産する際既に考慮に入るように なったとき、初めて実際上に作用するものである。このとき以後、生産者の私的労働は事実に於いて二重の社会的 性質を受ける。即ちそれは一方に、一定の有用労働として一定の社会的欲望を充たし、斯くして総労働の、原生的 に発達したる社会的分業組織の肢体たる実を挙げねばならぬ。他方にそれは、特殊の各有用私的労働が他の有用種 類の各私的労働と交換し得るものであり、随って値打の等しいものである限りに於いてのみ、それに従事する生産 者の種々多様なる欲望を充たすのである。如何なる点に於いても相異っている 諸労働が等一であるという事実は、 その現実的不等一から抽象し去ることに依ってのみ、換言すればこれらの労働が人間労働力の支出として、抽象的 なる人間労働として、有する共通の性質に約元することに依ってのみ存在し得る。
私的労働の斯かる二重の社会的性質は、実地の取引に於いて生産物交換の上に現れるところの諸形態を以っての み、この労働に従事する生産者たちの頭脳に反射される。即ち彼等の私的労働の社会的に有用なる性質は、労働生 産物が有用(而も他人にとって)でなければならぬという形態を以って、また種類の相異った各労働が等一である という社会的性質は、物質的に相異った労働諸生産物の共通の価値性質なる形態を以って、反射されるのである。

Die Menschen beziehen also ihre Arbeitsprodukte nicht aufeinander als Werte, weil diese Sachen ihnen als bloß sachliche Hüllen gleichartig menschlicher Arbeit gelten. Umgekehrt. Indem sie ihre verschiedenartigen Produkte einander im Austausch als Werte gleichsetzen, setzen sie ihre verschiednen Arbeiten einander als menschliche Arbeit gleich. Sie wissen das nicht, aber sie tun es.(27) Es steht daher dem Werte nicht auf der Stirn geschrieben, was er ist. Der Wert verwandelt vielmehr jedes Arbeitsprodukt in eine gesellschaftliche Hieroglyphe. Später suchen die Menschen den Sinn der Hieroglyphe zu entziffern, hinter das Geheimnis ihres eignen gesellschaftlichen Produkts zu kommen, denn die Bestimmung der Gebrauchsgegenstände als Werte ist ihr gesellschaftliches Produkt so gut wie die Sprache. Die späte wissenschaftliche Entdeckung, daß die Arbeitsprodukte, soweit sie Werte, bloß sachliche Ausdrücke der in ihrer Produktion verausgabten menschlichen Arbeit sind, macht Epoche in der Entwicklungsgeschichte der Menschheit, aber verscheucht keineswegs den gegenständlichen Schein der gesellschaftlichen Charakter der Arbeit. Was nur für diese besondre Produktionsform, die Warenproduktion, gültig ist, daß nämlich der spezifisch gesellschaftliche Charakter der voneinander unabhängigen Privatarbeiten in ihrer Gleichheit als menschliche Arbeit besteht und die Form des Wertcharakters der Arbeitsprodukte annimmt, erscheint, vor wie nach jener Entdeckung, den in den Verhältnissen der Warenproduktion Befangenen ebenso endgültig, als daß die wissenschaftliche Zersetzung der Luft in ihre Elemente die Luftform als eine physikalische Körperform fortbestehn läßt.

要するに人類は、その労働諸生産物が種類の相等しき人間労働の単なる物的外皮として通用するが故に、これを 価値として相互関係せしめるのではなく、寧ろ反対に、種類の相異った各生産物をば交換上価値として相互等位に 置くことに依って、彼等の相異った諸労働をば人間労働として相互等位に置くのである。それは彼等の知らざると ころであるが、然し事実に於いてそう行っているのである(二十七)。価値が如何なるものであるかということは、 公然着板に掲げられているものではない。寧ろ各労働生産物は、価値に依って社会的の象形文字に転化されるので ある。後に至り、人類はこの象形文字を読み解いて、自己の社会的産物の秘密の奥に達しようとする。蓋し諸種の 使用が価値として決定されるようになることは、言語と同様に人類の社会的産物であるからである。労働生産物な るものは価値である限り、その生産上に支出された人間労働の物的表章に過ぎぬという、後年の科学的発見は、人 類の発達史上に時期を画するものであるとはいえ、決して労働の社会的性質の対象的外観を駆除するものではない。 相互独立して営まれる諸種の私的労働の特殊社会的なる性質は、これら諸労働の人間労働としての等一性に存する ものであって、それが労働生産物の価値性質なる形態を採るという、この場合に於ける特殊の生産形態なる商品生 産にのみ通用するところの事実は、商品生産の事情に囚われている人々にとっては、右の発見後に於いても依然終 局的のものとして現れる。それは丁度、空気が科学の力でその諸要素に分析されるようになった後にも、空気の形 態は依然の物理的な物体形態として存続し得るのと同様である。

*(二十七)第二版誌「さればガリアニは、『価値は人と人との間の一関係である』と言ったとき更らに『物的外皮の 下に隠れている関係』という一句を追加すべきはずであった(ガリアニ著 『貨幣論』クストヂ編、イタリー経済学 名著集、近世の部ミラノ一八〇一年刊、第三巻第二二〇頁)。

<89> Was die Produktenaustauscher zunächst praktisch interessiert, ist die Frage, wieviel fremde Produkte sie für das eigne Produkt erhalten, in welchen Proportionen sich also die Produkte austauschen. Sobald diese Proportionen zu einer gewissen gewohnheitsmäßigen Festigkeit herangereift sind, scheinen sie aus der Natur der Arbeitsprodukte zu entspringen, so daß z.B. eine Tonne Eisen und 2 Unzen Gold gleichwertig, wie ein Pfund Gold und ein Pfund Eisen trotz ihrer verschiednen physikalischen und chemischen Eigenschaften gleich schwer sind. In der Tat befestigt sich der Wertcharakter der Arbeitsprodukte erst durch ihre Betätigung als Wertgrößen. Die letzteren wechseln beständig, unabhängig vom Willen, Vorwissen und Tun der Austauschenden. Ihre eigne gesellschaftliche Bewegung besitzt für sie die Form einer Bewegung von Sachen, unter deren Kontrolle sie stehen, statt sie zu kontrollieren. Es bedarf vollständig entwickelter Warenproduktion, bevor aus der Erfahrung selbst die wissenschaftliche Einsicht herauswächst, daß die unabhängig voneinander betriebenen, aber als naturwüchsige Glieder der gesellschaftlichen Teilung der Arbeit allseitig voneinander abhängigen Privatarbeiten fortwährend auf ihr gesellschaftlich proportionelles Maß reduziert werden, weil sich in den zufälligen und stets schwankenden Austauschverhältnissen ihrer Produkte die zu deren Produktion gesellschaftlich notwendige Arbeitszeit als regelndes Naturgesetz gewaltsam durchsetzt, wie etwas das Gesetz der Schwere, wenn einem das Haus über dem Kopf zusammenpurzelt.(28) Die Bestimmung der Wertgröße durch die Arbeitszeit ist daher ein unter den erscheinenden Bewegungen der relativen Warenwerte verstecktes Geheimnis. Seine Entdeckung hebt den Schein der bloß zufälligen Bestimmung der Wertgrößen den Arbeitsprodukte auf, aber keineswegs ihre sachliche Form.

生産物の交換者にとって先ず実際的に利害関係あることは、彼が自己の生産物を以って他人から幾許の生産物を 受けるか、換言すれば生産物なるものは如何なる比率を以って相互交換されるかという問題である。この比率は一 定の習慣的固定に達するや否や、労働生産物の性質に起因せるものの如く見え、斯くして例えば一トンの鉄と2オ ンスの金とが相互等価であることは、あたかも一ポンドの金と一ポンドの鉄とが物理上並びに科学上の諸性質を異 にするに拘はらず、重量は相等しいというが如くであるように見えて来る。実際のところ、労働生産物の価値性質 なるものは、労働生産物が価値量として作用することに依り初めて確立されるのである。而してこの価値量なるも のは、交換者の意思、先見、行動などから独立して不断に変化する。交換者から見れば、彼自身の社会的行動は、 彼が支配する物ではなく寧ろ彼を支配している物の運動という形態を有することになるのである。
相互独立して経営され而も社会的分業の原生的分子として全般的に相互依存する諸種の私的労働は、絶えずその 社会的比率に約元されるものであるが、斯かる科学的洞察が経験それ自身の中から生ずる以前、既に予め十分発達 したる商品生産を必要とする。蓋し斯かる私的労働に依る諸生産物の偶然的にして不断に変動しつつある交換比例 の下に、これらの物の生産上社会的に必要なる労働時間は規律的の自然律として権力的に励行されること、あたか も家が人の頭上に倒れかかる場合に於ける重力の法則の如くであるからである(二十八)。要するに、労働時間を以ってする価値量の決定は、相対的商品価値の現象的運動の下に隠れている一秘密であって、これが発見は労働生産物の価値量が偶的にのみ決定されるという外観を止揚するとはいえ、この決定の行われる現実的形態を決して止揚するものではないのである。

* (二十八)『週期的の革命に依ってのみ遂行され得る法則のことを、我々は何と考うべきであるか。これ即ち、関与者の無意識という事実に立脚する一の自然律に外ならないのである』(エンゲルス著『国民経済批判概説』アーノル ド・ルーゲ及びカール・マルクス編『独仏年報』パリ一八四四年刊所載論文)。

Das Nachdenken über die Formen des menschlichen Lebens, also auch ihre wissenschaftliche Analyse, schlägt überhaupt einen der wirklichen Entwicklung entgegengesetzten Weg ein. Es beginnt post festum und daher mit den fertigen Resultaten des Entwicklungsprozesses. Die Formen, welche Arbeitsprodukte zu Waren stempeln und daher der Warenzirkulation vor- <90> ausgesetzt sind, besitzen bereits die Festigkeit von Naturformen des gesellschaftlichen Lebens, bevor die Menschen sich Rechenschaft zu geben suchen nicht über den historischen Charakter dieser Formen, die ihnen vielmehr bereits als unwandelbar gelten, sondern über deren Gehalt. So war es nur die Analyse der Warenpreise, die zur Bestimmung der Wertgröße, nur der gemeinschaftliche Geldausdruck der Waren, der zur Fixierung ihres Wertcharakters führte. Es ist aber ebendiese fertige Form - die Geldform - der Warenwelt, welche den gesellschaftlichen Charakter der Privatarbeiten und daher die gesellschaftlichen Verhältnissen der Privatarbeiter sachlich verschleiert, statt sie zu offenbaren. Wenn ich sage, Rock, Stiefel usw. beziehen sich auf Leinwand als die allgemeine Verkörperung abstrakter menschlicher Arbeit, so springt die Verrücktheit dieses Ausdrucks ins Auge. Aber wenn die Produzenten von Rock, Stiefel usw. diese Waren auf Leinwand - oder auf Gold und Silber, was nichts an der Sache ändert - als allgemeines Äquivalent beziehn, erscheint ihnen die Beziehung ihrer Privatarbeiten zu der gesellschaftlichen Gesamtarbeit genau in dieser verrückten Form.

人類生活の諸形態に関する思察、随って又これが科学的の分析は、総じて現実に於ける発展に反対した進路を探るものである。それは後方から、即ち発展行程の完成した結果を以って、始まる。労働生産物に商品の性質を印刻する諸形態、換言すれば商品流通の前提となる諸形態は、寧ろ不変のものとして人類の目に映するのであるが、これらの形態は人類がその歴史的性質ではなく、内容について説明を得ようと努める以前、既に社会的生活の現物形態たる固定性を有している。斯くして価値量の決定に達せしめたものは、商品価格の分析に外ならず、また価値性質の確定に達せしめたものは、諸商品の共通的な貨幣表章に外ならぬことになったのである。而も商品界のこの完成形態たる幣形態こそ、私的労働の社会的性質、随って私的労働者の社会的関係を示頭せしめずして物的に隠蔽するところのものとなるのである。例えば上衣や深靴などが、抽象的人間労働の一般的体化たるリンネルに関係せしめられると言うとき、この言い現しの不合理なることは一目瞭然である。然し上衣や深靴などの生産者が、これらの商品をば一般的等価としてのリンネル(又は金銀であっても構はない。いづれにしても問題の上には何等の変化も生じないから)に関係せしめるとき、社会的総労働に対する彼等の私的労働の関係は、確然この不合理な形態を以って彼等に現れる。

Derartige Formen bilden eben die Kategorien der bürgerlichen Ökonomie. Es sind gesellschaftlich gültige, also objektive Gedankenformen für die Produktionsverhältnisse dieser historisch bestimmten gesellschaftlichen Produktionsweise, der Warenproduktion. Aller Mystizismus der Warenwelt, all der Zauber und Spuk, welcher Arbeitsprodukte auf Grundlage der Warenproduktion umnebelt, verschwindet daher sofort, sobald wir zu andren Produktionsformen flüchten.

ブルジョア経済学に於ける諸範疇は、正に斯種の形態から成るものである。これらの範疇は、商品生産というこの歴史的に限定された社会的生産方法の生産事情に関する、社会的に通用し得べき客観的なる思惟形態に外ならぬものである。されば商品界に於ける一切の神秘、商品生産の基礎上に造られる労働諸生産物をはっきり見えないようにする一切の魔法及び妖術は、我々が一度他の生産諸形態に来たるや否や消滅してしまうのである。

Da die politische Ökonomie Robinsonaden liebt (29), erscheine zuerst Robinson auf seiner Insel. Bescheiden, wie er von Haus aus ist, hat er doch verschiedenartige Bedürfnisse zu befriedigen und muß daher nützliche Arbeiten verschiedner Art verrichten, Werkzeuge machen, Möbel fabri- <91> zieren, Lama zähmen, fischen, jagen usw. Vom Beten u. dgl. sprechen wir hier nicht, da unser Robinson daran sein Vergnügen findet und derartige Tätigkeit als Erholung betrachtet. Trotz der Verschiedenheit seiner produktiven Funktionen weiß er, daß sie nur verschiedne Betätigungsformen desselben Robinson, also nur verschiedne Weisen menschlicher Arbeit sind. Die Not selbst zwingt ihn, seine Zeit genau zwischen seinen verschiednen Funktionen zu verteilen. Ob die eine mehr, die andre weniger Raum in seiner Gesamttätigkeit einnimmt, hängt ab von der größeren oder geringeren Schwierigkeit, die zur Erzielung des bezweckten Nutzeffekts zu überwinden ist. Die Erfahrung lehrt ihn das, und unser Robinson, der Uhr, Hauptbuch, Tinte und Feder aus dem Schiffbruch gerettet, beginnt als guter Engländer bald Buch über sich selbst zu führen. Sein Inventarium enthält ein Verzeichnis der Gebrauchsgegenstände, die er besitzt, der verschiednen Verrichtungen, die zu ihrer Produktion erheischt sind, endlich der Arbeitszeit, die ihm bestimmte Quanta dieser verschiednen Produkte im Durchschnitt kosten. Alle Beziehungen zwischen Robinson und den Dingen, die seinen selbstgeschaffnen Reichtum bilden, sind hier so einfach und durchsichtig, daß selbst Herr M. Wirth sie ohne besondre Geistesanstrengung verstehn dürfte. Und dennoch sind darin alle wesentlichen Bestimmungen des Werts enthalten.

経済学はロビンソン物語を愛好するものであるから(二十九)、先ずロビンソンをその島に出現せしめよう。ロビンソンは本来質素な男であったとはいえ、而も充足すべき諸種の欲望を有し、随って種々なる有用労働をなさねばならなかった。彼は道具や仕器を造ったり、ラマを馴らしたり、漁をしたり、狩をしたりせねばならなかったのである。祈稿やその他類似の事柄についてはここに言わない。なぜならば、彼はこれに依って享楽を与えられ、斯種の活動をば気晴らしと見做していたからである。彼の生産的機能は種々異っていたとはいえ、いずれも同一なるロビンソンの相異なった活動形態に過ぎず、換言すれば、人間労働の相異った様式に過ぎないことは、彼の知るところであった。彼は必要のため、その時間を各機能の間に厳密に割り振ることを余儀なくされた。いずれの機能が彼の全活動の上にヨリ大なる範囲を占め、又いずれがヨリ小なる範囲を占めるかは、所期の利用上の果を得るに当たって打勝つべき困難の大小に懸るものであった。彼は経験に依ってこれを教えられた。彼は時計や、元帳や、インキや、ペンなどを難船から救ったのであったが、やがて善良なるイギリス人として帳簿をつけ始めた。彼の家財目録の中には、彼の所有に属する使用諸物件や、これらの物件の生産に必要なる各種の作業や、最後に又、これらの種々なる生産物の一定量を得るについて平均的に必要なる労働時間を示す表が含まれていた。ロビンソンと彼自身の手で造り出された富を構成する諸物件との間に於ける一切の関係は、この場合極めて単純明瞭であって、かのマックス・ヴィルト君でさえも特別の努力なくしてこれを理解し得た程である。而かも価値決定上の凡ゆる本的要素は、この関係の中に含まれているのである。

*(二十九)第二版注、リカルドにもロビンソン物語がない訳ではなかった。『彼は原始的の漁夫及び猟師をそのまま商品所有者と見做し、両者の間に魚と鳥獣とを交換せしめている。而してこの交換は、これらの交換価値の中に対象化されている労働時間に比例して行はれるものであった。この際、彼は原始的の漁夫及び猟師をして労働器具の計算上、一八一七年にロンドン取引所で通用していた年金表を利用せしめるという時代錯誤に陥ったのである。「オーウェン氏の平行四辺形共同宿舎の組織」は、ブルジョア的社会形態以外にリカルドの知る唯一のものであったように見える』(カール・マルクス『経済学批判』第三八及び三九頁)。

Versetzen wir uns nun von Robinsons lichter Insel in das finstre europäische Mittelalter. Statt des unabhängigen Mannes finden wir hier jedermann abhängig - Leibeigne und Grundherrn, Vasallen und Lehnsgeber, Laien und Pfaffen. Persönliche Abhängigkeit charakterisiert ebensosehr die gesellschaftlichen Verhältnisse der materiellen Produktion als die auf ihr aufgebauten Lebenssphären. Aber eben weil persönliche Abhängigkeitsverhältnisse die gegebne gesellschaftliche Grundlage bilden, brauchen Arbeiten und Produkte nicht eine von ihrer Realität verschiedne phantastische Gestalt anzunehmen. Sie gehn als Naturaldienste und Naturalleistungen in das gesellschaftliche Getriebe ein. Die Naturalform der Arbeit, ihre Besonderheit, und nicht, wie auf Grundlage der Warenproduktion, ihre Allgemeinheit, ist hier ihre unmittelbar gesellschaftliche Form. Die Fronarbeit ist ebensogut durch die Zeit gemessen wie die Waren produzierende Arbeit, aber jeder Leibeigne weiß, daß es ein bestimmtes Quantum seiner persönlichen Arbeitskraft ist, die er im Dienst seines Herrn verausgabt. Der dem Pfaffen zu leistende Zehnten ist klarer als der Segen des Pfaffen. Wie man daher immer die Charaktermasken beurteilen mag, worin sich die Menschen hier gegenübertreten, die gesellschaftlichen Verhältnisse der Personen in ihren Arbeiten erscheinen jedenfalls als ihre eignen persönlichen <92> Verhältnisse und sind nicht verkleidet in gesellschaftliche Verhältnisse der Sachen, der Arbeitsprodukte.

今、ロビンソンの明るい島から陰暗な中世ヨーロッパに目を転じよう。ここには独立した人間はおらず、如何なる人も農奴と領主、家臣と藩主、俗人と僧侶という風に相依存していることが見出される。物質的生産の社会的関係も、この生産の上に築かれた生活部面も、みな人的の依存に依って特徴を与えられている。然しまた、この人的依存が、与えられたる社会的の根抵となって居ればこそ、労働も、生産物も、その現実とは異った空幻的の姿容を採る必要がなく、現実勤労並びに現物給付として社会的運営に関与するのである。この場合には、商品生産の基礎上に於けるとは異なり、労働の普遍性ではなく、その現実的形態が、特殊性が、労働の直接社会的な形態となるのである権力者による強制労働も、商品を生産するところの労働と同様に、時間を以って秤量されることは事実であるが、然し領主に対する勤労に於いて支出されるものが自身の労働力の一定量であることは、如何なる農奴も知るところである。僧侶に給付すべき十分一税に至っては、彼の祝福以上に明瞭な事実である。されば、斯かる社会の人々が相互に演ずる役割を如何に判断して見たところで、労働上に於ける個々人の社会的関係は彼等自身の人的関係として現れ、物と物、労働生産物と労働生産物との間の社会的関係に依って隠蔽されるものではない。

Für die Betrachtung gemeinsamer, d.h. unmittelbar vergesellschafteter Arbeit brauchen wir nicht zurückzugehn zu der naturwüchsigen Form derselben, welche uns an der Geschichtsschwelle aller Kulturvölker begegnet.(30) Ein näherliegendes Beispiel bildet die ländlich patriarchalische Industrie einer Bauernfamilie, die für den eignen Bedarf Korn, Vieh, Garn, Leinwand, Kleidungsstücke usw. produziert. Diese verschiednen Dinge treten der Familie als verschiedne Produkte ihrer Familienarbeit gegenüber, aber nicht sich selbst wechselseitig als Waren. Die verschiednen Arbeiten, welche diese Produkte erzeugen, Ackerbau, Viehzucht, Spinnen, Weben, Schneiderei usw. sind in ihrer Naturalform gesellschaftliche Funktionen, weil Funktionen der Familie, die ihre eigne, naturwüchsige Teilung der Arbeit besitzt so gut wie die Warenproduktion. Geschlechts- und Altersunterschiede wie die mit dem Wechsel der Jahreszeit wechselnden Naturbedingungen der Arbeit regeln ihre Verteilung unter die Familie und die Arbeitszeit der einzelnen Familienglieder. Die durch die Zeitdauer gemeßne Verausgabung der individuellen Arbeitskräfte erscheint hier aber von Haus aus als gesellschaftliche Bestimmung der Arbeiten selbst, weil die individuellen Arbeitskräfte von Haus aus nur als Organe der gemeinsamen Arbeitskraft der Familie wirken.

我々は共同的の労働、換言すれば直接社会化された労働を考察するに当たり、凡ゆる文化民族の歴史の門口に見出される原生的の労働形態に遡ることを必要としない(三十)。ヨリ手近な実例となるものは、穀物や、家畜や、糸や、リンネルや、衣類などを自家の必要のために生産するところの農民家族に於ける田全的家父長制の産業である。これら各種の物件は、農民家族から見れば、その家族労働の相異った生産物たるものであるが、然しそれ自身商品として相対立するものではない。これらの生産物を造る各種の労働、農耕や、飼畜や、紡績や、機織や、栽経などは、商品生産と同様にそれ自身の原生的分業を有する家族の諸機能であるから、その現実形態を以ってしても既に社会的機能となっているのである。家族内に於ける労働の配分と個々の家族員の労働時間とは、男女及び老幼の差異に依り、また季節の変化と共に変化する労働の現物的条件に依って規制される。然し時間的の持続によって秤量される個別的労働力の支出は、この場合、最初より労働それ自身の社会的性質として現れる。なぜならば、個々の労働力は本来、家族に於ける総労働力の各器官として作用するに過ぎぬからである。

*(三十)第二版注『原生的共有という形態は、スラヴ人独特のものであり、甚しきはロシア人の間にのみ存在するところの形態であるという笑うべき偏見が、最近広く行われている。この共有なる形態は、ローマ人、チュートン人、ケルト人などの問に論証し得るところの本来的形態であって、その種々なる標本の一部は遺跡として存在しているに過ぎぬとはいえ、而もそれらの総てを含む形本は今日尚インド人の間に見出される。アジア殊にインドの共有形態をヨリ精密に研究するとき、原生的共有の種々なる形態から如何にしてその分解上の諸形態が生じ来たるかを明かにするであろう。例えば、ローマ的及びチュートン的私有の種々なる原形は、インド的共有の種々なる形態から推論し得るところである』(カール・マルクス著『経済学批判』第十頁)。

Stellen wir uns endlich, zur Abwechslung, einen Verein freier Menschen vor, die mit gemeinschaftlichen Produktionsmitteln arbeiten und ihre vielen individuellen Arbeitskräfte selbstbewußt als eine gesellschaftliche Arbeitskraft verausgaben. Alle Bestimmungen von Robinsons Arbeit wiederholen sich hier, nur gesellschaftlich statt individuell. Alle Produkte Robinsons <93> waren sein ausschließlich persönliches Produkt und daher unmittelbar Gebrauchsgegenstände für ihn. Das Gesamtprodukt des Vereins ist ein gesellschaftliches Produkt. Ein Teil dieses Produkts dient wieder als Produktionsmittel. Er bleibt gesellschaftlich. Aber ein anderer Teil wird als Lebensmittel von den Vereinsgliedern verzehrt. Er muß daher unter sie verteilt werden. Die Art dieser Verteilung wird wechseln mit der besondren Art des gesellschaftlichen Produktionsorganismus selbst und der entsprechenden geschichtlichen Entwicklungshöhe der Produzenten. Nur zur Parallele mit der Warenproduktion setzen wir voraus, der Anteil jedes Produzenten an den Lebensmitteln sei bestimmt durch seine Arbeitszeit. Die Arbeitszeit würde also eine doppelte Rolle spielen. Ihre gesellschaftlich planmäßige Verteilung regelt die richtige Proportion der verschiednen Arbeitsfunktionen zu den verschiednen Bedürfnissen. Andrerseits dient die Arbeitszeit zugleich als Maß des individuellen Anteils des Produzenten an der Gemeinarbeit und daher auch an dem individuell verzehrbaren Teil des Gemeinprodukts. Die gesellschaftlichen Beziehungen der Menschen zu ihren Arbeiten und ihren Arbeitsprodukten bleiben hier durchsichtig einfach in der Produktion sowohl als in der Distribution.

最後に方面を変えて、自由なる個々人が共同の生産機関を以って労働し、その数多き個的労働力をば、社会的の一労働力として意的に支出するところの一社会を想像して見よう。斯かる社会に於いては、ロビンソンの労働の凡ゆる特徴は個人的にでなく社会的にのみ反覆されるのである。ロビンソンの凡ゆる生産物は専ら彼自身の手に成る生産物であり、随って直接に彼自身の使用対象であった。然るに、この場合に於ける社会の総生産物は、一の社会的生産物である。この生産物中の一部は、更らにまた生産機関として役立つのであって、依然社会的のものとなっている。然るに他の一部は、この社会の成員たちに依り生活資料として消費されるものであって、彼等の間に分配されることを要するのである。この分配の様式は、社会的生産組織そのものの特殊の種類、及びそれに照応せる生産者の歴史的発達程度の如何に応じて差異を生ずるであろう。然し商品生産と平行させて考えるため、各生産者の受くる生活資料の量は、彼の労働時間に依って決定されるものと仮定する。斯くて労働時間はこの場合、二重の役割を演ずることになるのである。即ち社会的なる計画を以ってする労働時間の配分に基いて、種々なる欲望に対する各種労働機能の正確なる比率が与えられると同時に、一方また労働時間は、共同労働に対する各生産者の関与分、随って総生産物のうち個人的に消費し得べき分に対する、各生産者の受分の尺度として役立つ。斯かる社会に於いては、労働及び労働生産物を通して与えられる人類の社会的関係は、生産上にも分配上にも透明的に単純なるものである。生産物が商品として、価値として取扱はれ、而してまた私的労働が、この物的形態に依り等一なる人間労働として相互関係せしめられる点に一般社会的なる生産関係が存している商品生産者の一社会にとっては、抽象的人類の崇讃を特徴とするキリスト教、殊にそのブルジョア的形態に発展したるプロテスタント教や自然神教などこそ、最も適当した宗教形態なのである。古代アジア、古代ギリシャ及びローマ等に於ける生産方法の下に在っては、生産物が商品に転化されること、随ってまた人類が商品生産者として存在することは、従属的の役割を演するに過ぎぬ。尤もこの役割は、常時の共同体が消滅に近づけば近づくほど、益々重要のものとなった。厳密な意義の商業民族は、エピクールの神々の如く、又はポーランド社会の隅々に散在していたユダヤ人の如く、古代世界の隙間隙間にのみ存在していたものである。

Für eine Gesellschaft von Warenproduzenten, deren allgemein gesellschaftliches Produktionsverhältnis darin besteht, sich zu ihren Produkten als Waren, also als Werten, zu verhalten und in dieser sachlichen Form ihre Privatarbeiten aufeinander zu beziehn als gleiche menschliche Arbeit, ist das Christentum mit seinem Kultus des abstrakten Menschen, namentlich in seiner bürgerlichen Entwicklung, dem Protestantismus, Deismus usw., die entsprechendste Religionsform. In den altasiatischen, antiken usw. Produktionsweisen spielt die Verwandlung des Produkts in Ware, und daher das Dasein der Menschen als Warenproduzenten, eine untergeordnete Rolle, die jedoch um so bedeutender wird, je mehr die Gemeinwesen in das Stadium ihres Untergangs treten. Eigentliche Handelsvölker existieren nur in den Intermundien der alten Welt, wie Epikurs Götter oder wie Juden in den Poren der polnischen Gesellschaft. Jene alten gesellschaftlichen Produktionsorganismen sind außerordentlich viel einfacher und durchsichtiger als der bürgerliche, aber sie beruhen entweder auf der Unreife des individuellen Menschen, der sich von der Nabelschnur des natürlichen Gattungszusammenhangs mit andren noch nicht losgerissen hat, oder auf unmittelbaren Herrschafts- und Knechtschaftsverhältnissen. Sie sind bedingt durch eine niedrige Entwicklungsstufe der Produktivkräfte der Arbeit und entsprechend befangene Verhältnisse der Menschen innerhalb ihres materiellen Lebenserzeugungsprozesses, daher zueinander und zur Natur.

古代に於けるこれらの社会的生産組織体は、ブルジョア的の生産組織体に比すれば遥かに単純にして透明のものである。然しこれらの生産組織体は、個々人が彼等を相互に結合しているところの自然的種族関係の臍の緒から、未だ断ち切られて居らぬ個人的発達の未熟状態か、又は直接の主従関係かの、いずれかに立脚するものであって、労働生産力の発達が尚低級段階に止まり、随って物質的生活の生産行程の内部に於ける人類の関係、換言すれば人と人、人と自然との間に於ける関係が尚局限されていることに制約されるものである。

<94> Diese wirkliche Befangenheit spiegelt sich ideell wider in den alten Natur- und Volksreligionen. Der religiöse Widerschein der wirklichen Welt kann überhaupt nur verschwinden, sobald die Verhältnisse des praktischen Werkeltagslebens den Menschen tagtäglich durchsichtig vernünftige Beziehungen zueinander und zur Natur darstellen. Die Gestalt des gesellschaftlichen Lebensprozesses, d.h. des materiellen Produktionsprozesses, streift nur ihren mystischen Nebelschleier ab, sobald sie als Produkt frei vergesellschafteter Menschen unter deren bewußter planmäßiger Kontrolle steht. Dazu ist jedoch eine materielle Grundlage der Gesellschaft erheischt oder eine Reihe materieller Existenzbedingungen, welch selbst wieder das naturwüchsige Produkt einer langen und qualvollen Entwicklungsgeschichte sind.

斯かる現実的の局限は、観念的には古代に於ける自然宗教及び民族宗教の上に反射されている。現実界の宗教的反射なるものは、総じて日常生活上の質際的事情が、人類相互間並びに人類対自然間の透明的に合理的なる関係をば日々人類の目に呈示するに至り、ここに初めて消滅し得るものである。物的生産行程に基く社会的生活行程の形態は、それが自由に社会化した人類の産物として彼等の意識的計画的なる支配の下に立つとき、ここに初めてその神秘的仮面を脱ぎ捨てることになるのであって、それには社会が一定の物的基礎を、一列の物質的生存条件を与えられることを要する。而してこれらの条件それ自身も又、久しきにわたる苦き発展史の原生的産物なのである。

Die politische Ökonomie hat nun zwar, wenn auch unvollkommen (31) Wert und Wertgröße analysiert und den in diesen Formen versteckten In- <95> halt entdeckt. Sie hat niemals auch nur die Frage gestellt, warum dieser Inhalt jene Form annimmt, warum sich also die Arbeit im Wert und das Maß der Arbeit durch ihre Zeitdauer in der Wertgröße des Arbeitsprodukts darstellt?(32) Formen, denen es auf der Stirn geschrieben steht, daß sie einer Gesellschaftsformation angehören, worin der Produktionsprozeß die Menschen, der Mensch noch nicht den Produktionsprozeß bemeistert, gelten ihrem bürgerlichen Bewußtsein für ebenso selbstverständliche Naturnot- <96> wendigkeit als die produktive Arbeit selbst. Vorbürgerliche Formen des gesellschaftlichen Produktionsorganismus werden daher von ihr behandelt wie etwa von den Kirchenvätern vorchristliche Religionen.(33)

経済学は、不完全ながらも(三十一)価値及び価値量を分析して、これらの形態の下に横はる内容を発見したことは事実である。然しながら、この内容が何故斯かる形態を採るか、また労働は何故価値に依って、時間的持続を以ってする労働の秤量は何故労働生産物の価値量に依って表現されるかということは、経済学の試問したことすらない問題である(三十二)。生産行程が人類に依って支配されるのではなく、反対に人類が生産行程に依って支配されるところの社会形態に属することを公然標榜している諸公式は、経済学のブルジョア的意識にとっては、生産的労働それ自体と全く同様に自明的の自悠然事となっている。斯くて経済学は、あたかも教父たちがキリスト教前期の諸宗教を取扱った如くにして、社会的生産組織体のブルジョア前期的諸形態を取扱うことになるのである(三十三)。

* (三十一)価値の大小についてリカルドの与えた分析の不十分であったことは(而も彼の分析は最良のものではあったが)本書第三及び第四巻の説明に依って明かとなるであろう。ところで価値一般について言えば、正統派経済学は、生産物の価値として表現される意味の労働をば、生産物の使用価値として表現される意味の同一なる労働から何処に於いても明文と明瞭なる意識とを以っては区別して居らぬ。が、事質上、この区別を与えていることは言うまでもない。蓋し正統派経済学に於いては、労働は或時は量的に、或時はまた質的に観察されているからである。けれども労働の単なる量的区別は質の上に於ける一致又は等一、換言すれば抽象的人間労働への約元を前提するものであることは、正統派経済学の思い及ばなかったところである。例えばリカルドは、次の所述に於いてデスチュト・ド・トレーシーの見解を承認すると言明している。『我々の本的富といえば、肉体上及び道徳上の能性のみであることは確かである。そこでこの能性の使用たる何等かの種類の労働は、我々の本的富財となるのであって、我々が富と呼ぶ一切の物は、つねにこの能性の使用に依って生ずるのである。これらの物は、それを造り出した労働を代表するに過ぎぬのであって、若しそれに一つの価値、甚しきは二つの相異なった価値があるとすれば、斯かる価値は、これらの物の生じ来たる労働の価値にのみ起因し得ることも、また確かな事実である』(リカルド『経済原論』第三版、ロンドン、一八二一年刊第三三四頁)。我々はこの場合、デスチュトの所説が、リカルドに依って彼自身のより深き意義を付与されている事実を指摘するに止める。実際のところデスチェトは、一方に富を組成する一切の物が、『それを造り出した労働を代表する』と言いながら、他方にこれらの物の『二の相異った価値(使用価値及び交換価値)が『労働の価値』に依って与えられると説いている。斯くして彼は先ず一商品(この場合で言えば労働)の価値を前提し、然る後これに依って他商品の価値を決定しようとする俗学的経済学の浅薄さに陥ることとなったのである。リカルドはこのデスチュトの所説をば、使用価値にも交換価値にも労働(労働の価値ではない)が表現されているという意味に解した。而もこの二重に表現されている労働の二重性質は、彼自身が区別を与えなかったところであって、彼は『価値及び富、並びにその特異的性質』と題する全章の中で、ジァン・パチスト・セーの如き論者の区々たる末節の穿盤のために、骨を折らねばならなくなったのである。さればこそ、彼は終末に及んで、価値源泉としての労働については、デスチュトの言うところは彼自身の見地と一致するが、他方に価値概念の上では、デスチュトの所説はセーの見解と一致することを見出して、全く喫驚した次第である。

*(三十二)商品殊に商品価値の分析に依って、価値を交換価値たらしめる価値形態を見出すことに成功しなかったという一点は、実に正統派経済学の根本的欠陥の一である。アダム・スミスやリカルドの如き、正統派経済学の最良代表者でさえも、価値形態を全く何うでもいいものとして、換言すれば商品それ自身の性質とは何等関係するところなきものとして取扱っている。これが理由は、単に価値量の分析が彼等の注意を吸収し去ったということのみでなく、それよりも更らに深い処に存在しているのである。労働生産物の価値形態なるものは、ブルジョア的生産方法の最も抽象的にして旦つ最も普遍的なる形態であって、ブルジョア的生産方法はこれがため社会的生産の特別なる一種として、同時にまた歴史的のものとして特徴を与えられる。されば我々は、この生産方法をば社会的生産の永遠の現実形態と見るとき、必然にまた価値形態、随って商品形態、更らに進んでは貨幣形態、資本形態などの特殊性を見落すことになる。さればこそ、価値の大小が労働時間に依って秤量されるという見地に於いては全く相一致する経済学者たちの間にも、一般的等価の完成形態たる幣については、種々雑多の相矛盾した諸見解が見出されることになるのである。この事実は例えば、銀行営業を取扱う場合に著しく現れる。蓋しこの場合には、もはや貨幣の平凡な定義を以ってしては、十分でないからである。正統派に対立して、価値の中にただ社会的形態、或は寧ろこれが無実的外観のみを認める復興マーカンチリズム(ガニールその他)が生じた所以はここにある。尚これを最後として一言して置く。私の言う正統派経済学とは、かの俗学的経済学とは異なり、ブルジョア的生産事情の内的関連を研究したウィリアム・ベテー以降一切の経済学を指すのである。俗学的経済学はこれに反し、ただ外観的関連の内部に没頭するだけであって、いわば極めて大掛りな現象を軽々に解り易く説明するという尤もらしい口実を以って、またブルジョア的の日用に応ぜんがため、科学的経済学に依って久しい以前から供給されていた材料を絶えず新に反復し、而もその他の点に於いては、ブルジョア的生産当事者たちが最善と認める世界について抱く平凡な自己満足的な見解をば学的に組織だて、これを永遠の心理なりと呼号するに止めている。

*(三十三)『経済学者たちは、一種特別の考え方をする。彼等にとっては、人為的か自的かの二種の制度が存在するのみである。即ち封建制度は人貸的の制度であり、ブルジョアの制度は自然的の制度であるとする。この点に於いて、彼等のなすところは二種の宗教を区別する神学者のなすところに似ている。蓋し自己の宗教は神の啓示に依るものであり、他の一切の宗教は人間の発明にかかるものであるとは、これらの神学者の考えているところである。斯くて歴史は従来存在していたが、今ではもはや存在しないということになる』(カール・マルクス著『哲学の窮乏。プルドーン君の窮乏の哲学への答論』一八四七年刊、第百十三頁古代のギリシャ人やローマ人は盗掠よってのみ生活していたと、バスチア君考えているが、これはまことに滑稽な想像である。人類が若し幾世紀間にも亘り盗掠に依って生活していたとすれば、盗掠さるべき物が不断に存在するか、又は盗掠の対象が絶えず再生産されて居らねばならぬはずである。そこで、ギリシャ人やローマ人も又、ブルジョア的経済が現世界の物質的根抵たると全く同様に、彼等自身の世界の物質的根抵ともなっていた一の生産行程を、一の経済を有っていたかのように見えて来る。それとも、バスチアの言わんとするところは、奴隷労働に依る生産方法は盗掠制度に基くということであったか?然とすれば、彼は危険な地盤に立つこととなる。アリストテレースの如き大思想家でさえも奴隷労働の評価に於いて過誤に陥ったというのに、バスチアの如き微々たる経済学者が如何にして銀労働の評価を誤りなくなし得ようぞ。この際私は抽著『経済学批判』(一八五九年刊)の刊行されたとき、アメリカに於ける或ドイツ新聞紙が私に向けた一非難を簡単に片付けて置く。この新聞紙は言う。一定の生産方法、及びいずれの場合に於いてもこれに照応するところの生産事情、約して言えば、『社会の経済的構造』は、『法律上及び政治上の上部構造が依って立ち且つ一定の社会的意識形態が照応する現実的の基礎であり』、而して『物質的生活の生産方法が、社会的、政治的及び精神的の生活行程全般を決定する』という私の見地、斯かる見解は、物的利害に依って支配されている現世界について言えば富を得ていることは事実であるが、カトリック教に依って支配されていた中世紀や、政治に依って支配されてみたアテネやローマについては通用しなくなるであろうと。これについて先ず奇怪に感ぜられることは、中世紀及び古代世界についての斯かる言い古された文句が、今でも何人かに知られずにあるなどと、得て仮定したがる者があるという一事である。中世紀といえども、カトリック教に依っては生活し得るものでなく、また古代世界といえども政治に依っては生活し得るものでないことだけは明かである。寧ろ、彼等が如何にしてその生活資料を得たかの様式こそ、何ゆえ一方の場合には政治が主なる役目を演じ他方の場合にはカトリック教が主なる役目を演じたかを明かにするものである。尚、例えばローマ共和国について見るにその秘密史を構成するものは実に土地所有の歴史であったが、かかる事実はローマ共和国の歴史を少し心得ていれさえすれば解ることである。他方にまたドン・キホーテは廻国騎士なるものが如何なる形態の社会の下に等しく容れられると妄想した過誤の償いを受けたのであった。

<97> Wie sehr ein Teil der Ökonomen von dem der Warenwelt anklebenden Fetischismus oder dem gegenständlichen Schein der gesellschaftlichen Arbeitsbestimmungen getäuscht wird, beweist u.a. der langweilig abgeschmackte Zank über die Rolle der Natur in der Bildung des Tauschwerts. Da Tauschwert eine bestimmte gesellschaftliche Manier ist, die auf ein Ding verwandte Arbeit auszudrücken, kann er nicht mehr Naturstoff enthalten als etwa der Wechselkurs.

商品界に固着せる魔術性に依り、換言すれば労働の社会的性質の対象的外観に依って、経済学者の一部が如何ばかり惑はされているかは、交換価値形成上に演する自然の役目についての冗漫な論争が就中これを論証するところである。交換価値なるのは、物の上に付与された労働を言い現す一定の社会的様式であるから、それが自然素材を含み得ないことは貸替相場などと異なるところはないのである。

Da die Warenform die allgemeinste und unentwickeltste Form der bürgerlichen Produktion ist, weswegen sie früh auftritt, obgleich nicht in derselben herrschenden, also charakteristischen Weise wie heutzutag, scheint ihr Fetischcharakter noch relativ leicht zu durchschauen. Bei konkreteren Formen verschwindet selbst dieser Schein der Einfachheit. Woher die Illusionen des Monetarsystems? Es sah dem Gold und Silber nicht an, daß sie als Geld ein gesellschaftliches Produktionsverhältnis darstellen, aber in der Form von Naturdingen mit sonderbar gesellschaftlichen Eigenschaften. Und die moderne Ökonomie, die vornehm auf das Monetarsystem herabgrinst, wird ihr Fetischismus nicht handgreiflich, sobald sie das Kapital behandelt? Seit wie lange ist die physiokratische Illusion verschwunden, daß die Grundrente aus der Erde wächst, nicht aus der Gesellschaft?

商品形態はブルジョア的生産の最も普遍的にして発達の最も幼稚なる形態であって、今日に於ける如き支配的な、随ってまた特徴的な様式を以ってではないにしても、更にかく早くから出現することになったのである。随ってその魔術性を見透すことは、比較的尚容易であるように見える。然るに、ヨリ具的な諸形態になると、斯かる単純の外観でさえも消滅してしまう。幣制度の幻想は、何処から来たものであるか?それは、貨幣としての金銀が一の社会的生産関係を代表するものであるとは見ず、寧ろ奇異なる社会的性質を有する自然物の形態に在るものと見た。而してこの貨幣制度を眼下に見下している近世経済学又、それが資本を取扱う段になると魔術性を発揮して来るではないか。地代は社会から生ずるものではなく土地から生ずると考えたフィジオクラット(重農主義者)的幻想が消滅して以来果して幾日月になるか?

Um jedoch nicht vorzugreifen, genüge hier noch ein Beispiel bezüglich der Warenform selbst. Könnten die Waren sprechen, so würden sie sagen, unser Gebrauchswert mag den Menschen interessieren. Er kommt uns nicht als Dingen zu. Was uns aber dinglich zukommt, ist unser Wert. Unser eigner Verkehr als Warendinge beweist das. Wir beziehn uns nur als Tauschwerte aufeinander. Man höre nun, wie der Ökonom aus der Warenseele heraus spricht:

が、説明の尚早を避けるため、ここでは商品形態それ自身に関する他の一例を以って満足することにしよう。若し、諸商品に口あらば、彼等は斯う言うであろう。我々の使用価値は人類にとって関係あるものであるかも知れぬ。然しそれは、物としての我々に属するものではない。物としての我々に属するものは、我々の価値である。これは、我々自身が商品物としてなす交通に依って証明されるところである。我々は交換価値としてのみ、相互に関係するものであると。

"Wert" (Tauschwert) "ist Eigenschaft der Dinge, Reichtum" (Gebrauchswert) "des Menschen. Wert in diesem Sinn schließt notwendig Austausch ein, Reichtum nicht."(34) "Reichtum" (Gebrauchswert) "ist ein Attribut des Menschen, Wert ein Attribut der Waren. Ein Mensch oder ein Gemeinwesen ist reich; eine Perle oder ein Diamant ist wertvoll ... Eine Perle oder ein Diamant hat Wert als Perle oder Diamant."(35)

ところで、商品が経済学者の口を通して語るところを聴け。曰く『価値(交換価値)は物の性質であり、富(使用価値)は性質である。この意味に於ける価値は必然的に交換を含むものであるが、富はそうではない』(三十四)。『富(使用価値)は人の属性であり、価値は商品の属性である。或一人、又は或一団体は富裕であり、一の真珠又は一のダイヤモンドは価値豊ある。一の真珠又は一のダイヤモンドは、真珠若しくはダイヤモンドとして価値をもっている(三十五)

*(三十四)匿名者著『経済学上に於ける就中価値及び需給に関する言葉上の論争についての観察』(ロンドン一八二一年刊第一巻六頁。

*(三十五)サミュエル・ベーリー前掲、第一六五頁。

<98> Bisher hat noch kein Chemiker Tauschwert in Perle oder Diamant entdeckt. Die ökonomischen Entdecker dieser chemischen Substanz, die besondren Anspruch auf kritische Tiefe machen, finden aber, daß der Gebrauchswert der Sachen unabhängig von ihren sachlichen Eigenschaften, dagegen ihr Wert ihnen als Sachen zukommt. Was sie hierin bestätigt, ist der sonderbare Umstand, daß der Gebrauchswert der Dinge sich für den Menschen ohne Austausch realisiert, also im unmittelbaren Verhältnis zwischen Ding und Mensch, ihr Wert umgekehrt nur im Austausch, d.h. in einem gesellschaftlichen Prozeß. Wer erinnert sich hier nicht des guten Dogberry, der den Nachtwächter Seacoal belehrt:

"Ein gut aussehender Mann zu sein ist eine Gabe der Umstände, aber lesen und schreiben zu können kommt von Natur."(36)

従来、如何なる化学者も、真珠又はダイヤモンドの中に交換価値を発見したことはなかった。然るに判的の深味を得意とするところの、この化学的実体の経済上に於ける発見者たちは、物の使用価値は物的性質からは独立しているに反し、価値は物それ自身に属するという風に考える。彼等の斯かる見解は、物の使用価値なるものは人類にとり交換に依ることなく、物と人との直接の関係を通して実現されるのであるが、価値の方は反対に社会的行程なる交換を通してのみ実現されるという特殊の事実に依って確証される。これについて、かの善良なるドッグベリーのことを想起しないものがあるだろうか。彼は夜衛シーコールに向って、『身なりの善い人になるのは境遇の賜物だが、読み書きができるようになるのは天性だ』と教えたのであった(三十六)。

*(三十六)前記『観察』の著者及びサミュエル・ベーリーは、リカルドを非難して、彼は交換価値をば単なる相対的のものから絶対的のものに転化せしめたと言っているが、事実は寧ろ反対で、彼は交換価値としてのこれらの物(例えば、ダイヤモンドや真珠)に属する外観的の相対性をば、斯かる外観の背後に隠れている事実の関係に、即ち人間労働の単なる表章としての相対性に約元したのである。リカルド学徒がベーリーに対して粗雑に答えてであって正鵠に中るところがなかったのであるが、それは畢竟、価値と価値形態(又は交換価値)との間の内的関係につき、リカルドその人に依って何等の解決も与えられて居らぬことを見出したからに外ならぬのである。


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Fußnoten(脚注。脚注の日本語翻訳は本文に、原文は以下に。)

(1) Karl Marx, "Zur Kritik der Politischen Ökonomie", Berlin 1859, pag. 3. <Siehe Band 13, S. 15> <=

(2) "Verlangen schließt Bedürfnis ein; es ist der Appetit des Geistes, und so natürlich wie Hunger für den Körper ... die meisten (Dinge) haben ihren Wert daher, daß sie Bedürfnisse des Geistes befriedigen." (Nicholas Barbon, "A Discourse on coining the new money lighter. In answer to Mr. Locke's Considerations etc.", London 1696, p. 2, 3.) <=

(3) "Dinge haben einen intrinsick vertue" (dies bei Barbon die spezifische Bezeichnung für Gebrauchswert), "der überall gleich ist, so wie der des Magnets, Eisen anzuziehen" (l.c.p. 6). Die Eigenschaft des Magnets, Eisen anzuziehn, wurde erst nützlich, sobald man vermittelst derselben die magnetische Polarität entdeckt hatte. <=

(4) "Der natürliche worth jedes Dinges besteht in seiner Eignung, die notwendigen Bedürfnisse zu befriedigen oder den Annehmlichkeiten des menschlichen Lebens zu dienen." (John Locke, "Some Considerations on the Consequences of the Lowering of Interest", 1691, in "Works", edit. Lond. 1777, v. II, p. 28.) Im 17. Jahrhundert finden wir noch häufig bei englischen Schriftstellen "Worth" für Gebrauchswert und "Value" für Tauschwert, ganz im Geist einer Sprache, die es liebt, die unmittelbare Sache germanisch und die reflektierte Sache romanisch auszudrücken. <=

(5) In der bürgerlichen Gesellschaft herrscht die fictio juris, daß jeder Mensch als Warenkäufer eine enzyklopädische Warenkenntnis besitzt. <=

(6) "Der Wert besteht in dem Tauschverhältnis, das zwischen einem Ding und einem anderen, zwischen der Menge eines Erzeugnisses und der eines anderen besteht." (Le Trosne, "De l'Intérêt Social", [in] "Physiocrates", éd. Daire, Paris 1846, p. 889.) <=

(7) "Nichts kann einen inneren Tauschwert haben" (N. Barbon, l.c.p. 6), oder wie Butler sagt:

"Der Wert eines Dings
ist grade so viel, wie es einbringen wird." <=

(8) "One sort of wares are as good as another, if the value be equal. There is no difference or distinction in things of equal value ... One hundred pounds worth of lead or iron, is of as great a value as one hundred pounds worth of silver and gold." <" ... Blei oder Eisen im Werte von einhundert Pfund Sterling haben gleich großen Tauschwert wie Silber und Gold im Werte von einhundert Pfund Sterling."> (N. Barbon, l.c.p. 53 u. 7.) <=

(9) Note zur 2. Ausg. "The value of them (the necessaries of life) when they are exchagend the one for another, is regulated by the quantity of labour necessarily required, and commonly taken in producing them." "Der Wert von Gebrauchsgegenständen, sobald sie gegeneinander ausgetauscht werden, ist bestimmt durch das Quantum der zu ihrer Produktion notwendig erheischten und gewöhnlich angewandten Arbeit." ("Some Thoughts on the Interest of Money in general, and particularly in the Public funds etc.", London, p. 36, 37.) Diese merkwürdige anonyme Schrift des vorigen Jahrhunderts trägt kein Datum. Es geht jedoch aus ihrem Inhalt hervor, daß sie unter Georg II., etwa 1739 oder 1740, erschienen ist. <=

(10) "Alle Erzeugnisse der gleichen Art bilden eigentlich nur eine Masse, deren Preis allgemein und ohne Rücksicht auf die besonderen Umstände bestimmt wird." <=

(11) K. Marx, l.c.p.6. <Siehe Band 13, S. 18> <=

(11a) Note zur 4. Aufl. - Ich schiebe das Eingeklammerte ein, weil durch dessen Weglassung sehr häufig das Mißverständnis entstanden, jedes Produkt, das von einem andern als dem Produzenten konsumiert wird, gelte bei Marx als Ware. - F. E. <=

(12) l.c.p. 12, 13 und passim. <Siehe Band 13, S. 22, 23 und passim> <=

(13) "Alle Erscheinungen des Weltalls, seien sie hervorgerufen von der Hand des Menschen oder durch die allgemeinen Gesetze der Physik, sind nicht tatsächliche Neuschöpfungen, sondern lediglich eine Umformung des Stoffes. Zusammensetzen und Trennen sind die einzigen Elemente, die der menschliche Geist immer wieder bei der Analyse der Verstellung der Reproduktion findet; und ebenso verhält es sich mit der Reproduktion des Wertes" (Gebrauchswert, obgleich Verri hier in seiner Polemik gegen die Physiokraten selbst nicht recht weiß, von welcher Sorte Wert er spricht) "und des Reichtums, wenn Erde, Luft und Wasser auf den Feldern sich in Korn verwandeln, oder auch wenn sich durch die Hand des Menschen die Abscheidung eines Insekts in Seide verwandelt, oder einige Metallteilchen sich anordnen, um eine Repetieruhr zu bilden." (Pietro Verri, "Meditazioni sulla Economia Politica" - zuerst gedruckt 1771 - in der Ausgabe der italienischen Ökonomen von Custodi, Parte Moderna, t. XV, p. 21, 22.) <=

(14) Vgl. Hegel, "Philosophie des Rechts", Berlin 1840, p. 250, § 190. <=

(15) Der Leser muß aufmerken, daß hier nicht vom Lohn oder Wert die Rede ist, den der Arbeiter für etwa einen Arbeitstag erhält, sondern vom Warenwert, worin sich sein Arbeitstag vergegenständlicht. Die Kategorie des Arbeitslohns existiert überhaupt noch nicht auf dieser Stufe unsrer Darstellung. <=

(16) Note zur 2. Ausg. Um zu beweisen, "daß die Arbeit allein das endgültige und reale Maß ist, woran der Wert aller Waren zu allen Zeiten geschätzt und verglichen werden kann", sagt A. Smith: "Gleiche Quantitäten Arbeit müssen zu allen Zeiten und an allen Orten für den Arbeiter selbst denselben Wert haben. In seinem normalen Zustand von Gesundheit, Kraft und Tätigkeit und mit dem Durchschnittsgrad von Geschicklichkeit, die er besitzen mag, muß er immer die nämliche Portion seiner Ruhe, seiner Freiheit und seines Glücks hingeben." ("Wealth of Nations", b. I, ch. V, [p.104/105].) Einerseits verwechselt A. Smith hier (nicht überall) die Bestimmung des Werts durch das in der Produktion der Ware verausgabte Arbeitsquantum mit der Bestimmung der Warenwerte durch den Wert der Arbeit und sucht daher nachzuweisen, daß gleiche Quantitäten Arbeit stets denselben Wert haben. Andrerseits ahnt er, daß die Arbeit, soweit sie sich im Wert der Waren darstellt, nur als Verausgabung von Arbeitskraft gilt, faßt diese Verausgabung aber wieder bloß als Opfer von Ruhe, Freiheit und Glück, nicht auch als normale Lebensbetätigung. Allerdings hat er den modernen Lohnarbeiter vor Augen. - Viel treffender sagt der Note 9 zitierte anonyme Vorgänger von A. Smith: "Ein Mann hat eine Woche auf Herstellung dieses Bedarfsgegenstands verwandt ... und der, welcher ihm einen anderen Gegenstand im Austausch gibt, kann nicht richtiger abschätzen, was wirklich gleichwertig ist, als durch die Berechnung, was ihm ebensoviel labour und Zeit kostet. Das bedeutet in der Tat den Austausch der labour, die ein Mensch in einer bestimmten Zeit auf einen Gegenstand verwandt hat, gegen die labour eines andren, in der gleichen Zeit auf einen anderen Gegenstand verwandt." ("Some Thoughts on the Interest of Money in general etc.", p. 39.) - {Zur 4. Auflage: Die englische Sprache hat den Vorzug, zwei verschiedne Worte für diese zwei verschiednen Aspekte der Arbeit zu haben. Die Arbeit, die Gebrauchswerte schafft und qualitativ bestimmt ist, heißt work, im Gegensatz zu labour; Die Arbeit, die Wert schafft und nur quantitativ gemessen wird, heißt labour im Gegensatz zu work. Siehe Note zu engl. Übersetzung, p. 14. - F. E.} <=

(17) Die wenigen Ökonomen, die sich, wie S. Bailey, mit der Analyse der Wertform beschäftigt haben, konnten zu keinem Resultat kommen, einmal, weil sie Wertform und Wert verwechseln, zweitens, weil sie, unter dem rohen Einfluß des praktischen Bürgers, von vornherein ausschließlich die quantitative Bestimmtheit ins Auge fassen. "Die Verfügung über die Quantität ... macht den Wert." ("Money and its Vicissitudes", Lond. 1837, p.11.) Verfasser S. Bailey. <=

(17a) Note zur 2. Ausgabe. Einer der ersten Ökonomen, der nach William Petty die Natur des Werts durchschaut hat, der berühmte Franklin, sagt: "Da der Handel überhaupt nichts ist als der Austausch einer Arbeit gegen andre Arbeit, wird der Wert aller Dinge am richtigsten geschätzt in Arbeit." ("The Works of B. Franklin etc.", edited by Sparks, Boston 1836, v. II, p .267.) Franklin ist sich nicht bewußt, daß, indem er den Wert aller Dinge "in Arbeit" schätzt, er von der Verschiedenheit der ausgetauschten Arbeiten abstrahiert - und sie so auf gleiche menschliche Arbeit reduziert. Was er nicht weiß, sagt er jedoch. Er spricht erst von "der einen Arbeit", dann "von der andren Arbeit", schließlich von "Arbeit" ohne weitere Bezeichnung als Substanz des Werts aller Dinge. <=

(18) In gewisser Art geht's dem Menschen wie der Ware. Da er weder mit einem Spiegel auf die Welt kommt noch als Fichtescher Philosoph: Ich bin ich, bespiegelt sich der Mensch zuerst in einem andren Menschen. Erst durch die Beziehung auf den Menschen Paul als seinesgleichen bezieht sich der Mensch Peter auf sich selbst als Mensch. Damit gilt ihm aber auch der Paul mit Haut und Haaren, in seiner paulinischen Leiblichkeit, als Erscheinungsform des Genus Mensch. <=

(19) Der Ausdruck "Wert" wird hier, wie beiläufig schon früher stellenweis geschah, für quantitativ bestimmten Wert, also für Wertgröße gebraucht. <=

(20) Note zur 2. Ausg. Diese Inkongruenz zwischen der Wertgröße und ihrem relativen Ausdruck ist von der Vulgärökonomie mit gewohntem Scharfsinn ausgebeutet worden. z.B.: "Gebt einmal zu, daß A fällt, weil B, womit es ausgetauscht wird, steigt, obgleich unterdessen nicht weniger Arbeit auf A verausgabt wird, und euer allgemeines Wertprinzip fällt zu Boden ...Wenn zugegeben wird, daß, weil der Wert von A relativ zu B steigt, der Wert von B relativ zu A fällt, ist der Grund unter den Füßen weggeschnitten, worauf Ricardo seinen großen Satz aufstellt, daß der Wert einer Ware stets bestimmt ist durch das Quantum der ihr einverleibten Arbeit; denn wenn ein Wechsel in den Kosten von A nicht nur seinen eignen Wert im Verhältnis zu B, womit es ausgetauscht wird, verändert, sondern auch den Wert von B relativ zu dem von A, obgleich kein Wechsel stattgefunden hat in dem zur Produktion von B erheischten Arbeitsquantum, dann fällt nicht nur die Doktrin zu Boden, die versichert, daß die auf einen Artikel verausgabte Quantität Arbeit seinen Wert reguliert, sondern auch die Doktrin, daß die Produktionskosten eines Artikel seinen Wert regulieren." (J. Broadhurst, "Political Economy", London 1842, p. 11, 14.)

Herr Broadhurst konnte ebensogut sagen: Man sehe sich einmal die Zahlenverhältnisse 10/20, 10/50, 10/100 usw. an. Die Zahl 10 bleibt unverändert, und dennoch nimmt ihre proportionelle Größe, ihre Größe relativ zu den Nennern 20, 50, 100, beständig ab. Also fällt das große Prinzip zu Boden, daß die Größe einer ganzen Zahl wie 10 z.B. durch die Anzahl der in ihr enthaltenen Einer "reguliert" ist. <=

(21) Es ist mit solchen Reflexionsbestimmungen überhaupt ein eigenes Ding. Dieser Mensch ist z.B. nur König, weil sich andre Menschen als Untertanen zu ihm verhalten. Sie glauben umgekehrt Untertanen zu sein, weil er König ist. <=

(22) Note zur 2. Ausg. F. L. A. Ferrier (sous-inspecteur des douanes <Unterinspekteur des Zollwesens>), "Du Gouvernement considéré dans ses rapports avec le commerce", Paris 1805, und Charles Ganilh, "Des Systèmes d'Économie Politique", 2ème éd., Paris 1821. <=

(22a) Note zur 2. Aufl. Z.B. bei Homer wird der Wert eines Dings in einer Reihe verschiedner Dings ausgedrückt. <=

(23) Man spricht deshalb vom Rockwert der Leinwand, wenn man ihren Wert in Röcken, von ihrem Kornwert, wenn man ihn in Korn darstellt etc. Jeder solche Ausdruck besagt, daß es ihr Wert ist, der in den Gebrauchswerten Rock, Korn usw. erscheint. "Das der Wert jeder Waren ihr Verhältnis im Austausch bezeichnet, können wir ihn bezeichnen als ... Kornwert, Tuchwert, je nach der Ware, mit der sie verglichen wird; und daher gibt es tausend verschiedene Arten von Werten, so viele, wie Waren vorhanden sind, und alle sind gleich real und gleich nominell." ("A Critical Dissertation on the Nature, Measures, and Causes of Value; chiefly in reference to the writings of Mr. Ricardo and his followers. By the Author of Essays on the Formation etc. of Opinions", London 1825, p. 39.) S. Bailey, der Verfasser dieser anonymen Schrift, die ihrer Zeit viel Lärm in England machte, wähnt durch diesen Hinweis auf die kunterbunten relativen Ausdrücke desselben Warenwerts alle Begriffsbestimmung des Werts vernichtet zu haben. Daß er übrigens, trotz eigner Borniertheit, wunde Flecken der Ricardoschen Theorie sondiert hatte, bewies die Gereiztheit, womit die Ricardosche Schule ihn angriff, z.B. in der "Westminster Review". <=

(24) Man sieht es der Form allgemeiner unmittelbarer Austauschbarkeit in der Tat keineswegs an, daß sie eine gegensätzliche Warenform ist, von den Form nicht unmittelbarer Austauschbarkeit ebenso unzertrennlich wie die Positivität eines Magnetpols von der Negativität des andren. Man mag sich daher einbilden, man könne allen Waren zugleich den Stempel unmittelbarer Austauschbarkeit aufdrücken, wie man sich einbilden mag, man könne alle Katholiken zu Päpsten mache. Für den Kleinbürger, der in der Warenproduktion das nec plus ultra <den Gipfel> menschlicher Freiheit und individueller Unabhängigkeit erblickt, wäre es natürlich sehr wünschenswert, der mit dieser Form verbundnen Mißstände überhoben zu sein, namentlich auch der nicht unmittelbaren Austauschbarkeit der Waren. Die Ausmalung dieser Philisterutopie bildet Proudhons Sozialismus, der, wie ich anderswo gezeigt <Karl Marx, "Misère de la philosophie. Réponse à la philosophie de la misère de M. Proudhon", Paris, Bruxelles 1874, Kap. 1 (siehe Bd. 4, S, 67-124)>, nicht einmal das Verdienst der Originalität besitzt, vielmehr lange vor ihm von Gray, Bray und andern weit besser entwickelt wurde. Dies verhindert solche Weisheit nicht, heutzutage, in gewissen Kreisen, unter dem Namen der "science" <"Wissenschaft"> zu grassieren. Nie hat eine Schule mehr als die Proudhonsche mit dem Wort "sceince" um sich geworfen, denn

"wo Begriffe fehlen,
da stellt zur rechten Zeit ein Wort sich ein". <=

(25) Man erinnert sich, daß China und die Tische zu tanzen anfingen, als alle übrige Welt still zu stehn schien - pour encourager les autres <um die andern zu ermutigen>. <=

(26) Note zur 2. Ausg. Bei den alten Germanen wurde die Größe eines Morgens Land nach der Arbeit eines Tages berechnet und daher der Morgen Tagwerk (auch Tagwanne) (jurnale oder jurnalis, terra jurnalis, jornalis oder diurnalis), Mannwerk, Mannskraft, Mannsmaad, Mannshauet usf. benannt. Sieh Georg Ludwig von Maurer, "Einleitung zur Geschichte der Mark-, Hof-, usw. Verfassung", München 1854, p. 129 sq. <=

(27) Note zur 2. Ausg. Wenn daher Galiani sagt: Der Wert ist ein Verhältnis zwischen Personen - "La Ricchezza è una ragione tra due persone" - , so hätte er hinzusetzen müssen: unter dinglicher Hülle verstecktes Verhältnis. (Galiani, "Della Moneta", p. 221, t. III von Custodis Sammlung der "Scrittori Classici Italiani di Economia Politica", Parte Moderna, Milano 1803.) <=

(28) "Was soll man von einem Gesetze denken, das sich nur durch periodische Revolutionen durchsetzten kann?" (Friedrich Engels, "Umrisse zu einer Kritik der Nationalökonomie" in "Deutsch-Französische Jahrbücher", herausg. von Arnold Ruge und Karl Marx, Paris 1844.) <Siehe Band 1, S. 515> <=

(29) Note zur 2. Ausgabe. Auch Ricardo ist nicht ohne seine Robinsonade. "Den Urfischer und den Urjäger läßt er sofort als Warenbesitzer Fisch und Wild austauschen, im Verhältnis der in diesen Tauschwerten vergegenständlichten Arbeitszeit. Bei dieser Gelegenheit fällt er in den Anachronismus, daß Urfischer und Urjäger zur Berechnung ihrer Arbeitsinstrumente die 1817 auf der Londoner Börse gangbaren Annuitätentabellen zu Rate ziehn. Die 'Parallelogramme des Herrn Owen' scheinen die einzige Gesellschaftsform, die er außer der bürgerlichen kannte." (Karl Marx, "Zur Kritik etc.", p.38, 39. <Siehe Band 13, S.46>) <=

(30) Note zur 2. Ausgabe. "Es ist ein lächerliches Vorurteil in neuester Zeit verbreitet, daß die Form des naturwüchsigen Gemeineigentums spezifische, sogar ausschließlich russische Form sei. Sie ist die Urform, die wir bei Römern, Germanen, Kelten nachweisen können, von der aber eine ganze Musterkarte mit mannigfachen Proben sich noch immer, wenn auch zum Teil ruinenweise, bei den Indiern vorfindet. Ein genaueres Studium der asiatischen, speziell der indischen Gemeineigentumsformen würde nachweisen, wie aus den verschiednen Formen des naturwüchsigen Gemeineigentums sich verschiedne Formen seiner Auflösung ergeben. So lassen sich z.B. die verschiednen Originaltypen von römischem und germanischem Privateigentum aus verschiednen Formen des indischen Gemeineigentums ableiten."(Karl Marx, "Zur Kritik etc.", p. 10. <Siehe Band 13 unserer Ausgabe, S.21>) <=

(31) Das Unzulängliche in Ricardos Analyse der Wertgröße - und es ist die beste - wird man aus dem dritten und vierten Buch dieser Schrift ersehn. Was aber den Wert überhaupt betrifft, so unterscheidet die klassische politische Ökonomie nirgendwo ausdrücklich und mit klarem Bewußtsein die Arbeit, wie sie sich im Wert, von derselben Arbeit, soweit sie sich im Gebrauchswert ihres Produkts darstellt. Sie macht natürlich den Unterschied tatsächlich, da sie die Arbeit das einemal quantitativ, da andremal qualitativ betrachtet. Aber es fällt ihr nicht ein, daß bloß quantitativer Unterschied der Arbeiten ihre qualitative Einheit oder Gleichheit voraussetzt, also ihre Reduktion auf abstrakt menschliche Arbeit. Ricardo z.B. erklärt sich einverstanden mit Destutt de Tracy, wenn dieser sagt: "Da es sicher ist, daß unsere körperlichen und geistigen Fähigkeiten allein unser ursprünglicher Reichtum sind, ist der Gebrauch dieser Fähigkeiten, eine gewisse Art Arbeit, unser ursprünglicher Schatz; es ist immer dieser Gebrauch, welcher alle jene Dinge schafft, die wir Reichtum nennen ... Zudem ist es gewiß, daß alle jene Dinge nur die Arbeit darstellen, die sie geschaffen hat, und wenn sie einen Wert haben, oder sogar zwei unterschiedliche Werte, so können sie dies doch nur haben aus dem" (dem Wert) "der Arbeit, der sie entspringen." (Ricardo, "The principles of Pol. Econ.", 3. ed., Lond. 1821, p. 334. <Vgl. Destutt de Tracy, "Elemens d'ideologie." IVe et Ve parties, Paris 1826, p.35, 36>) Wir deuten nur an, daß Ricardo dem Destutt seinen eignen tieferen Sinn unterschiebt. Destutt sagt in der Tat zwar einerseits, daß alle Dinge, die den Reichtum bilden, "die Arbeit repräsentieren, die sie geschaffen hat", aber andrerseits, daß sie ihre "zwei verschiedenen Werte" (Gebrauchswert und Tauschwert) vom "Wert der Arbeit" erhalten. Er fällt damit in die Flachheit der Vulgärökonomie, die den Wert einer Ware (hier der Arbeit) voraussetzt, um dadurch hinterher den Wert der andren Waren zu bestimmen. Ricardo liest ihn so, daß sowohl im Gebrauchswert als Tauschwert sich Arbeit (nicht Wert der Arbeit) darstellt. Er selbst aber scheidet so wenig den zwieschlächtigen Charakter der Arbeit, die doppelt dargestellt ist, daß er in dem ganzen Kapitel: "Value and Riches, their Distinctive Properties" <"Wert und Reichtum, ihre unterscheidenden Eigenschaften"> sich mühselig mit den Trivialitäten eines J. B. Say herumschlagen muß. Am Ende ist er daher auch ganz erstaunt, daß Destutt zwar mit ihm selbst über Arbeit als Wertquelle und dennoch andrerseits mit Say über den Wertbegriff harmoniere. <=

(32) Es ist einer der Grundmängel der klassischen politischen Ökonomie, daß es ihr nie gelang, aus der Analyse der Ware und spezieller des Warenwerts die Form des Werts, die ihn eben zum Tauschwert macht, herauszufinden. Grade in ihren besten Repräsentanten, wie A. Smith und Ricardo, behandelt sie die Wertform als etwas ganz Gleichgültiges oder der Natur der Ware selbst Äußerliches. Der Grund ist nicht allein, daß die Analyse der Wertgröße ihre Aufmerksamkeit ganz absorbiert. Er liegt tiefer. Die Wertform des Arbeitsprodukts ist die abstrakteste, aber auch allgemeinste Form der bürgerlichen Produktionsweise, die hierdurch als eine besondere Art gesellschaftlicher Produktion und damit zugleich historisch charakterisiert wird. Versieht man sie daher für die ewige Naturform gesellschaftlicher Produktion, so übersieht man notwendig auch das Spezifische der Wertform, also der Warenform, weiter entwickelt der Geldform, Kapitalform usw. Man findet daher bei Ökonomen, welche über das Maß der Wertgröße durch Arbeitszeit durchaus übereinstimmen, die kunterbuntesten und widersprechendsten Vorstellungen von Geld, d.h. der fertigen Gestalt des allgemeinen Äquivalents. Dies tritt schlagend hervor z.B. bei der Behandlung des Bankwesens, wo mit den gemeinplätzlichen Definitionen des Geldes nicht mehr ausgereicht wird. Im Gegensatz entsprang daher ein restauriertes Merkantilsystem (Ganilh usw.), welches im Wert nur die gesellschaftliche Form sieht oder vielmehr nur ihren substanzlosen Schein. - Um es ein für allemal zu bemerken, verstehe ich unter klassischer politischer Ökonomie alle Ökonomie seit W. Petty, die den innern Zusammenhang der bürgerlichen Produktionsverhältnisse erforscht im Gegensatz zur Vulgärökonomie, die sich nur innerhalb des scheinbaren Zusammenhangs herumtreibt, für eine plausible Verständlichmachung der sozusagen gröbsten Phänomene und den bürgerlichen Hausbedarf das von der wissenschaftlichen Ökonomie längst gelieferte Material stets von neuem wiederkaut, im übrigen aber sich darauf beschränkt, die banalen und selbstgefälligen Vorstellungen der bürgerlichen Produktionsagenten von ihrer eignen besten Welt zu systematisieren, pedantisieren und als ewige Wahrheiten zu proklamieren. <=

(33) "Die Ökonomen verfahren auf eine sonderbare Art. Es gibt für sie nur zwei Arten von Institutionen, künstliche und natürliche. Die Institutionen des Feudalismus sind künstliche Institutionen, die der Bourgeoisie natürliche. Sie gleichen darin den Theologen, die auch zwei Arten von Religionen unterscheiden. Jede Religion, die nicht die ihre ist, ist eine Erfindung der Menschen, während ihre eigene Religion eine Offenbarung Gottes ist. - Somit hat es eine Geschichte gegeben, aber es gibt keine mehr." (Karl Marx, "Misère de la Philosophie. Réponse à la Philosophie de la Misère de M. Proudhon", 1847, p. 113. <Siehe Band 4, S 139>) Wahrhaft drollig ist Herr Bastiat, der sich einbildet, die alten Griechen und Römer hätten nur von Raub gelebt. Wenn man aber viele Jahrhunderte durch von Raub lebt, muß doch beständig etwas zu rauben da sein oder der Gegenstand des Raubes sich fortwährend reproduzieren. Es scheint daher, daß auch Griechen und Römer einen Produktionsprozeß hatten, also eine Ökonomie, welche ganz so die materielle Grundlage ihrer Welt bildete wie die bürgerliche Ökonomie die der heutigen Welt. Oder meint Bastiat etwa, daß eine Produktionsweise, die auf der Sklavenarbeit beruht, auf einem Raubsystem ruht? Er stellt sich dann auf gefährlichen Boden. Wenn ein Denkriese wie Aristoteles in seiner Würdigung der Sklavenarbeit irrte, warum sollte ein Zwergökonom, wie Bastiat, in seiner Würdigung der Lohnarbeit richtig gehn? - Ich ergreife diese Gelegenheit, um einen Einwand, der mir beim Erscheinen meiner Schrift "Zur Kritik der Pol. Oekonomie", 1859, von einem deutsch-amerikanischen Blatte gemacht wurde, kurz abzuweisen. Es sagte, meine Ansicht, daß die bestimmte Produktionsweise und die ihr jedesmal entsprechenden Produktionsverhältnisse, kurz "die ökonomische Struktur der Gesellschaft die reale Basis sei, worauf sich ein juristischer und politischer Überbau erhebe und welcher bestimmte gesellschaftliche Bewußtseinsformen entsprächen", daß "die Produktionsweise des materiellen Lebens den sozialen, politischen und geistigen Lebensprozeß überhaupt bedinge" <siehe Band 13, S. 8/9>, - alles dies sei zwar richtig für die heutige Welt, wo die materiellen Interessen, aber weder für das Mittelalter, wo der Katholizismus, noch für Athen und Rom, wo die Politik herrschte. Zunächst ist es befremdlich, daß jemand vorauszusetzen beliebt, diese weltbekannten Redensarten über Mittelalter und antike Welt seien irgend jemand unbekannt geblieben. Soviel ist klar, daß das Mittelalter nicht vom Katholizismus und die antike Welt nicht von der Politik leben konnte. Die Art und Weise, wie sie ihr Leben gewannen, erklärt umgekehrt, warum dort die Politik, hier der Katholizismus die Hauptrolle spielte. Es gehört übrigens wenig Bekanntschaft z.B. mit der Geschichte der römischen Republik dazu, um zu wissen, daß die Geschichte des Grundeigentums ihre Geheimgeschichte bildet. Andrerseits hat schon Don Quixote den Irrtum gebüßt, daß er die fahrende Ritterschaft mit allen ökonomischen Formen der Gesellschaft gleich verträglich wähnte. <=

(34) "Value is a property of things, riches of man. Value, in this sense, necessarily implies exchange, riches do not." ("Observations on some verbal disputes in Pol. Econ., particularly relating to value, and to supply and demand", Lond. 1821, p. 16.) <=

(35) "Riches are the attribute of man, value is the attribute of commodities. A man or a community is rich, a pearl or a diamond is valuable ... A pearl or a diamond is valuable as a pearl or diamond." (S. Bailey, l.c.p. 165 sq.) <=

(36) Der Verfasser der "Observations" und S. Bailey beschuldigen Ricardo, er habe den Tauschwert aus einem nur Relativen in etwas Absolutes verwandelt. Umgekehrt. Er hat die Scheinrelativität, die diese Dinge, Diamant und Perlen z.B., als Tauschwerte besitzen, auf das hinter dem Schein verborgene wahre Verhältnis reduziert, auf ihre Relativität als bloße Ausdrücke menschlicher Arbeit. Wenn die Ricardianer dem Bailey grob, aber nicht schlagend antworten, so nur, weil sie bei Ricardo selbst keinen Aufschluß über den inneren Zusammenhang zwischen Wert und Wertform oder Tauschwert fanden.

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